「では、いまひとたびといましょう。おとめよ、そなたのなをおしえてもらえますか?」 謙信の言葉にの涙が溢れる。 「・・・、」 満月の女でもない。織田の姪でもない。 この姿ではなかった頃の名前。 平成の、戦のない世の現代で生きていたの名前。 が持つ、たったひとつのすべて。 「、よいなですね」 謙信は微笑を浮かべながらの手を取る。 涙に濡れる白魚のような指。刀を握る謙信の硬い指とは違う、力ない掌。 優しい温度。濃姫の笑顔か被る。優しいそあの村の人たちの表情が浮かんで消える。 涙が溢れる。 人肌、吐息、優しい微笑み。縋りたくなる激情に身を焦がしながら、は身を震わせた。 「家にかえりたいっ・・・」 ここでもない、織田でもない。 平穏で両親のいる穏やかな現代に。住み慣れた愛すべき日常に。我が家に。 「そなたをいま織田に返すわけには行かぬ。すまぬが、暫くはこの甲斐に留まって貰う。佐助」 「はいはいっと」 「暫く彼女の身の回りの世話を頼む」 「大将〜それって忍の仕事じゃないって」 「佐助!お館様に口答えなどっ!!」 「あーもーわっかりましたよ!やればいいんでしょうがやればー」 ひらりひらりとやる気なさげに手を振る佐助に幸村は「佐助!」と叱りつける様に声を荒げたが、面々は普段どおりなので特に気にする様子はない。 「ではこちらもひとり、かすが」 「は、はい」 「なかへ、そたなも、かのじょのごえいについてくれますか?」 「はいっ・・・」 黒の忍衣装を纏った金色の髪の女が部屋の中に進みいる。 胸から腹まで大きくさらけ出した白い肌が目にまぶしい。ふくよかな肢体。 かすがと呼ばれたくのいちはの姿を認めると一瞬息を止め、静々と頭を下げた。 「にさんのあいだとはいえ、わたくしたちもしんげんこうのやかたにせわになります。そのかんかすが、かのじょのごえいをたのみますよ」 「はいっ・・・」 謙信に声をかけられかすがの頬は一気に紅潮する。 背後で佐助がやれやれとこぼすをの知らない振りをして、かすがはただ敬愛すべき主の命を全うしようと内心拳を握りしめるのだった。 *** 結局、は織田に返してもらえることになるはずもなく、なし崩しに用意された武田屋敷の一室にいる。 姿が見えないが、近くにあのオレンジ色の男がいるのかと思うとは小さく震える。 怖い、すべてが、怖い。 「信長様・・・」 直接的に会話を交わしたことは少ない。 それでも、信長は言葉の端々にへの気遣いを見せてくれたし、なによりも守ってくれると言ってくれた。 「入るぞ」 「は。はいっ!」 ふすまを開けて入ってきたのは先ほどの肉感的な金髪美女だった。 思わずハリウッド女優の容姿に身惚れれば、相手もじっとのことを見つめていた。 しばし二人無言で向き合い、先に口を開いたのはだった。 「あ、あの、なにか・・・?」 「・・・いや、あらためて挨拶に来ただけだ。短い間だがお前の護衛を務めることになったかすがだ。・・・ほかに用もないし、それだけだ。じゃあ私は行くぞ」 「あっ」 「なんだ?」 出て行こうとするかすがを思わず呼びとめようとしたは一瞬言葉に詰まって視線を泳がせる。 かすががもう一度「なんだ?」と聞けば、は「もう少しいてくれませんか?」と愛らしく強請ってきた。 絶世の美少女の上目遣い。同性からしてもなかなか愛らしいそれにかすがは無碍にすることも出来ずに頷いてしまった。 部屋の中にふたりきり。かすがはそっとへと問いかける。 「一体どうした?」 「あの・・・かすがさんが行っちゃったら、あのオレンジの人きますよね」 「おれんじ?」 「橙色の、髪の」 「ああ、佐助か」 かすがは心底うんざりといった表情で佐助の名を呼んだ。 同時にも嫌そうに表情を歪めたものだから、二人の間にかすかな共通意識が繋がった。 「あいつが厭なのか」 「そう・・・ですね。苦手っていうか、怖いっていうか」 「そんな大層なものじゃない。あいつは昔から軽くて厭味ったらしくて憎たらしい奴だ。いつも人のことを見下した言い方をして・・・」 「お知り合い、なんですか?」 「違う!・・・ただの、同郷だ」 ふいと顔をそむけるかすがの金髪がふわりと揺れる。 腰あたりまで伸びた二房の金糸のような眩しい髪。自分の夜色の髪とは大違いで、は思わず甘いため息をついた。 「どうした?」 「あ、いや、かすがさんの髪、綺麗で羨ましいなぁって」 「私の髪が?」 かすがは少し間をおいて、ゆっくりと自分の髪をひと房撫でる。 「昔は、この髪が心底憎らしかった」 「そんなに綺麗な色なのに?」 「ああ、派手な色だろう。里では随分苛められた。目立つ色だから忍には向かないといわれて、何度も自分で髪に泥を塗ったこともあった」 当時を思い出してか、かすがは少しだけ悲しそうな顔をする。しかしそれはほとんど一瞬で、次の瞬間には優しい頬笑みに変わっていた。 「お前は三人目だ。私の髪を綺麗だと言ってくれた」 「たった?かすがさんの髪、すごく長くて綺麗だし、お姫様みたいなのに」 「馬鹿だな、姫のような髪と言うのは、お前のような長くて美しい黒髪のことを言うんだ」 「でも」 「私は、別に姫のような女でなくてもかまわない。私はただ、謙信様のただひと振りの剣であれれば、それでいいんだ」 かすがは瞼を伏せ、長いまつげが影を作る。 満ち足りた表情には思う。 「かすがさんは、謙信様が好きなんですね」 「な!?なにを言っている!?」 「だって、そんな風に笑うから、好きなんだなって」 「違う!わ、わたしはべつにそんな!!」 「えっでも」 「でもじゃない!!」 茹で蛸の様に顔を真っ赤にする美女がうろたえるとは何とも不思議な絵面だ。 は思わず肩を揺らせば、かすがは笑うな!と叱責する。 しかしそんな真っ赤な表情で怒鳴られたってなにも恐ろしくはない。 耐えきれずに吹きだして笑えば、しばらく何か怒鳴ったかすがも根負けして小さくだけ笑った。 「かすがさんは、やさしい人ですね」 「そんなことはない」 たしかに、といる心が和んだ。 自分が忍であることなど忘れて、ただの人間のように笑いあってしまった。 しかしかすがは忍だ。任務とあらば、謙信の命令とあればだれの命だって摘み取って見せる冷酷な剣に変わる。 これが満月の娘の力なのか、わからない。 ただ自分が甘いだけかもしれないとかすがは思う。 それでも、は特別だと認識する。人間ではないんだろうと、うすぼんやりと思ったのだった。 |