が安土城に入り、一週間ほどが経過した。 着物の着付けから生活常識まで。初めは何もかもがわからずにいたであったが、濃姫や親身になってくれる女中たちのおかげでこの世界にもずいぶん慣れたものだと思う。 信長や蘭丸、光秀もを見るたびに声をかけて他愛のない話をしてくれる。 誰もがを気遣い、優しく腕を伸ばしてくれる日々には心から感謝するほかない。 そんなある日、穏やかに流れる羊雲を目で追いながら、は今日も今日とて蘭丸と談笑に花を咲かせていた。 「それに信長様はすごく優しいんだ!蘭丸がしっかり仕事をこなすと金平糖を下さるんだぞ!金平糖は南蛮のお菓子だからすっごく高いんだからな!」 「蘭丸くんはすごい働き者なんだね!高級取りかぁ。すごいなぁ。私も何かお手伝いが出来ればいいんだけど」 濃姫たちの手ほどきで文字の読み書き程度なら身についたのだが、如何せんミミズが走るような達筆な字はまだまだ解読は苦手だ。 掃除洗濯食事の用意は女中の仕事で、手を出そうものなら逆に叱られてしまった。 は何も出来ない。 ただただ毎日のんびりと濃姫や蘭丸、光秀や信長との談笑などで一日を過ごしているのだ。 「も信長様の働く気になったか!?」 「うーん、蘭丸君みたいなことは出来ないけどやっぱりお役に立てたらいいなぁって思うな」 いつまでもただ飯ぐらいというわけにも行くまい。 あの村にいた頃は料理も洗濯も田畑の世話も手伝って、そうして食事にありついていたともいえるのだ。 毎日仕事も失くすることもなく、現代であればただのニートだ。 「ま、はへなちょこだから戦は無理だろ!濃姫さまに今度何か手伝えないか聞いてみろよ!」 「うん、そうする」 蘭丸は子供特有の無邪気さと飽きっぽさで簡単にの悩みを切り捨て、それより!とまたたくさんの話題を掘り起こす。 はまだまだこの時代のことがわからない。 蘭丸の話はどんなものであれ新鮮で、まるで物語のようで楽しいものであった。 「あれ?」 蘭丸が信長がの話を始めてすぐ、ふと庭先の植木が揺れる。 そちらを凝視すれば蘭丸もつられ、二人食い入るように植木を見ていれば、其処からぴょこんとすす汚れたぶち猫が顔を出した。 「猫だ!」 「ほんとだな、こいつ、どこから来たんだ?ぶっさいくな猫ぉ」 「そうかなぁ?可愛いと思うよ?おいで」 どうやら人馴れしている猫は逃げる気配はなさそうだ。 ちちち、と舌を鳴らしながら手を出せば、ぶち猫は何度か鼻を鳴らしての指先の匂いを嗅いだ。 どうやら気を許してくれたらしい。は嬉しくなってそのまま猫の頭を撫でようと手を動かす。 しかし、突然頭上に回った手を警戒した猫は伸びた爪でみの手の甲を思いっきりひっかいてとびずさった。 「痛っ!」 「!おい猫!お前何してんだ!!」 「蘭丸君、これくらい大丈夫だから」 蘭丸の怒鳴り声に猫は脱兎のように逃げだす。 するどい眼をした蘭丸は、庭の石をひとつ手にとってそれを猫に向かって投げつけた。 弓兵として戦場に立つ蘭丸のコントロールと腕力は子供といって侮れるものではない。 的確に猫にぶつかった石は矢以上の硬さで猫の動きを止めた。 「蘭丸君!」 の甲高い悲鳴を無視して蘭丸はもう一投石を投じる。 二度目の猫のつぶれた悲鳴には急いで蘭丸の体にしがみついた。 「何するんだよ!邪魔するなって!」 「蘭丸君何するの!」 「はぁ?あの猫の方が悪いじゃんか。に怪我さして」 訳がわからないと肩をすくめる蘭丸の瞳に嘘はない。 価値感の違いとは言え、それはあまりにも酷すぎる。 血を吐いて痙攣する猫を見たは泣きそうになりながら蘭丸と目線を合わせた。 「蘭丸君、私これくらい平気なのに、どうして猫に石を投げるの?」 「猫よりの方が大事だからに決まってるだろ。あんなきったねー猫死んだって誰も悲しまないって!」 歯を見せて快活に笑う蘭丸には何を言えばいいのかわからなくなってしまった。 命を奪うのはいけないこと。 それは平成の教えで、この時代には通用しないのだろうか。 そうでなければ、志村はあの村を焼いたりはしなかっただろう。 は溢れてくる涙を手の甲で押さえつけて、小さく蘭丸君、と名を呼んだ。 「わ、私。お医者様呼んでくる」 「そんなに痛いのか!?やっぱりあの猫殺してやる!」 「違うよ。あの猫を診てもらうの」 立ち上がることも出来ない猫を診てみは蘭丸を置いてそのまま掛けていく。 その後姿を見送る蘭丸は納得いかないという風に猫の体を爪先で蹴った。 「こんな猫、生きたって意味ないじゃん」 蘭丸は思わず溜息をつく。 は自分の価値を知らないのだ。 猫一匹の命にたいした意味はない。投げた石のほうが戦場ではよっぽど価値がある。 の命は多くの人間が喉から手が出るほど欲しいものなのだ。 主君信長もその一人である蘭丸にとって、無価値な猫が価値あるを傷つけたというのは許しがたい蛮行である。 はまるきりわかってはいない。 この世界は、無意味に生きるものの方が多いということに。 「お前はわかるか?自分に価値がないってこと」 痙攣を続ける猫はもう答える声も持っていなかった。 |