「お仕事ご苦労様です。帰蝶」
「仕事ですって?あれくらい、何てことないわ」

ふふ、と蠱惑的に笑う濃姫の真っ赤な唇と、それの間逆のような病的に冷えた血の気の薄い唇で光秀も笑みを浮かべる。

「あなたも恐ろしい女だ。あんなか弱い少女の心を手玉にとって、家族だ娘だなんて・・・ああ愉快ですね」
「お黙り光秀。すべては上総介様の天下の為。満月の女を使いこなすにはその心も必要でしょう。あんな世間知らずな子供、手懐けることに苦労はないわ。言葉一つであんなに懐いて」

思い出し笑にくすくすと肩を揺らす濃姫の笑みは酷く嗜虐的で、光秀は怖い怖いと薄ら笑いを浮かべた。

「兎に角。お前のあの子に妙な手出しはするんじゃないわよ。あの子は立派な兵器になる。お前もわかっているでしょう?」
「ええ、もちろんですとも。彼女に触れた瞬間、全身の血が沸騰するような感覚を覚えました。彼女の何かが、我々、特に婆娑羅者に強く影響するのでしょう」

くつくつと笑う光秀はその当時のことを思い出して笑みを深くした。
酷くつまらない城攻めが、あの一瞬だけで何万もの軍隊を相手にしたような高揚感が全身に駆けた。
それを思い出してしまえばまた血が騒ぐ。掌で思い出す人肉を裂く感触に、光秀はたまらないと言った風体で身悶えた。

「私もそれを感じたわ。もちろん上総介様も。満月の女・・・得体が知れないけれど、利用できることは確かだわ」
「では利用価値の証明のために彼女を連れて戦場へ行きませんか?きっと楽しい戦になりますよ」
「馬鹿を言わないで頂戴。戦場はまだ早いわ。もっともっと手懐けて、彼女が自ら織田の為に働くと言うまでは無理よ」
「それは残念だ」

最後にくすりと笑みを零した光秀は、長い銀色の髪をたなびかせて濃姫に背を向ける。
光秀!と飛んだ叱責に近い呼び声に光秀は首だけで振り返り、背筋を撫でるような声で声で答えた。

「ご安心を。彼女を取って喰おうなんて気はありませんよ」
「どうだか」
「あなたや信長公ばかり彼女と話してはずるいじゃないですか。恩賞に彼女と話すくらいいいでしょう?」

ぐっ、と言葉に詰まる濃姫を置いて、光秀は再びに歩き始める。
今は蘭丸が同席している。何かあれば蘭丸が止めてくれるはずだ。
そう結論付けた濃姫は、盛大にため息をひとつ零した後「あまり妙なことを吹き混むんじゃないわよ」とだけ言い光秀の前から去った。

「では、行きましょうか」

そう一人ごちた光秀は、ふらりと細い体を揺らしながらの部屋へと向かうのだった。

部屋の前々で足を止めれば、中から聞こえる子供たちの談笑に即刻陥落されたあの時の蘭丸の表情を思い出した。
子供はなんともいたいけでいけない。
幾ら魔王の子供と言われても、自分たちに比べてしまえばまだ世の中の酸いも甘いも知らない子供だ。
愛だの恋だの陳腐な感情を知らない子供でも、絶世の女の涙に落ちないはずがない。
これは濃姫と信長の落ち度であると光秀は笑う。
織田のすべてが修羅として、血の池地獄に首まで浸かっているわけではない。
純情無垢な子供の部分を残したままの蘭丸は、おそらくいずれ兵器としての欠落を表すだろう。信長が求めるのは兵士ではない、兵器だ。

「蘭丸、殿、入りますよ」

一言断りを入れてから襖を開けば、荒野で鳥につつかれた死体を見るような視線が蘭丸から投げて寄越される。
一方、の方からはあ!と声が聞こえ少し目尻をほころばせれば、は居た堪れないように視線を泳がせた。
こちらもどうにも、いたいけでいけない。

「おはようございます。殿。お加減はいかがでしょうか?」
「は、はい。ぐっすり寝たし、信長様も濃姫様も良くしてくれます。それに蘭丸君も」
「だからお前が出る幕じゃないぞ!光秀」
「蘭丸は冷たいですね」

やれやれと吐息を零しながらの布団の脇に腰を下ろす。
その瞬間、あの!と上がったの声には隣の蘭丸の方が驚いていた。

「あ、あの。あの時は、服、着物を貸していただいてありがとうございます、光秀様」
「光秀、さまぁ!?しっかりしろ!こんな変態に様なんていらないって!」
「え?で、でも信長様の部下だし」

間違えただろうかと狼狽するの姿は小動物のようで、一般的には酷く保護欲を書き立てられただろう。
だが光秀はその一般には属しない。
ただそのまま引き裂いて逃げ惑う姿が見たいという欲が首をもたげる。
しかし妙な手出しはするなと濃姫に言われている。葛藤する内心をひた隠しにしながら、光秀は穏やかに笑うのだった。

「私は当然のことをしたまでですよ。それと、様付けも結構。私の蘭丸のように呼んで頂ければ十分ですよ。あなたは信長公の姪御様ですので、私を敬う必要はないかと」
「でも、」
「いいじゃんかさ、本人がいいって言ってんだから」

蘭丸の後押しに視線を漂わせたあと、は意を決したように光秀の冷たい紫水晶の瞳を覗き込んだ。

「じゃ、じゃあ。光秀、さんと呼ばせてもらってもいいですか?」
「ええ、それで構いませんよ」

紳士的に笑みを浮かべて見せれば、少しだけの頬にあ朱色が指す。
これはたしかに濃姫の言うとおりだと光秀は内心でほくそ笑んだ。
言葉一つ、仕草一つでこうも騙され掌で踊る。容易いほどに扱いやすい心は、たしかに信長が望むべきものなのだろう。

「あなたは人形のようだ」
「はい?」
「まるで作られたものの様に美しい。いえ、創られたものなのでしょう。神があなたを創造し、世に遣わせた。あなたは美しい。精巧に作られた人形のように」
「光秀!」

するどい声に射抜く視線。怒りを感じているのは人形と言った形容にか、それとも情報を与えるこの口か。
薄く笑う光秀と蘭丸の厳しい視線がぶつかる中、はそれが褒め言葉なのかどうかを考えた結果、結局良くわからないので曖昧に笑うのだった。

「そうそう、帰蝶からの伝言ですが。今晩の夕餉は会食として信長公の家臣一団にあなたを紹介するそうです。蘭丸、あとで彼女を帰蝶の部屋へ連れて行ってあげてください」
「・・・わかった」

悪態をつこうとした蘭丸だが濃姫の言葉ならば仕方がない。
すっくと立ち上がった光秀を目で追うは「もう行くんですか」と小さく問いかけた。

「私も信長公のことろへ用事がありますので。ご安心を、いつでも会えますよ。私もしばらくは安土城に滞在しますので、気軽にお声をかけてくださいね、殿」
「は、はい・・・」

うつむき加減に視線を泳がすは美しいことこの上ない。
影を落とす長い睫毛。黒髪の隙間から覗く項。ふくよかな頬を彩る朱色が艶やかに色を挿す。そして香りたつ花の匂いは甘く鼻腔をくすぐった。
一礼して部屋を出た光秀は、三日月の様な笑みを浮かべて信長の元へと向かう。
早く、蘭丸でも、濃姫でもいい誰でも良い。
誰か一刻も早く彼女を信長のために働く人形に作り変えて欲しいと光秀は切に願う。
傍にいるだけであの花の香りが光秀の衝動を突き動かす。
血が見たいと囁く本能に、くつくつと殺すことのできない笑みが喉を振るわせた。
早く彼女が人形に成り下がれば良い。
そうすれば、天下統一の名の下に、彼女の力と共に幾らでも人が斬れるのだ。
それが楽しみでならないと笑う光秀は、意気揚々と歩みを進めるのだった。





誠実な嘘