「ん・・・」

柔らかい布団に顔を押し付けながら寝返りを打ち、それでも眩しい光に緩やかに意識は覚醒する。
ゆっくりと体を起こしたは、部屋にない赤い格子を探して視線を漂わせた。

「あれ?」
「あ、起きた」

声がする隣を見やれば、胡坐を書いていた子供と目があった。
急速に回転を始めた脳は今までの経緯を一瞬にして思い出させ、子供の名前を唇に載せる。

「ら、蘭丸、くん」
「く、くんって何だよ!濃姫さまみたいに呼ぶなよ!」
「え!?ご、ごめんなさい?」
「あ、謝るほどじゃねーよバーカ!ま、まぁどうしてもってんならお前も濃姫さまみたいに呼んでもいいけどな!」

どっちだよ。と思わず内心突っ込んでしまう子供の言い分にどうしたものかと答えあぐねれば、子供は期待に満ちた眼差しでちらりとを盗み見る。
これは、呼ぶべきなのだろうかと思いながら、は内心びくつきながら媚を売るように小さく笑みを付け足した。

「じゃあ。蘭丸くんって呼んでも、いいかな?」
「しょ、しょうがないな!じゃあ蘭丸も、お前のことはって呼ぶからな!」
「う、うん。そうして」

瞬間、ぱっと広がる蘭丸の満面の笑みには思わずぱちりと瞼を瞬かせる。
この子供は良くわからない。いい子なのか、危ないのか。
判断に迷っているを置いて蘭丸は勢いよく立ち上がり襖へとかける。

「濃姫さまと信長様に目が覚めたって伝えてやるから、は大人しくしてろよ!」
「う、うん」

勢いに負けて残されたは部屋をぐるりと見渡した。
高そうな掛け軸。控えめだが美しい生け花。胸に落ち着く畳の香り。新品のような障子。知らない天井。ここは、おそらく安土城なのだろう。
そう考えている間に蘭丸の足音が聞こえる。
布団の上で急いで正座を組んだ。それを見つけた濃姫は部屋に入った瞬間に柔らかく笑った。

「嫌だわちゃん。私たち家族みたいなものなのだから、そんなにかしこまらなくてもいいのよ」
「で、でも」
「良い。楽に崩すが良い」

あの天下の織田信長(が知る人物と同一であるかは置いておいて)にいわれてしまえば致し方ない。
は不敬にならない程度の崩し正座で二人に合間見えた。

「気分はどう?怪我はないだろうし、食事は食べられそう?」
「す。すいません。大丈夫です」
「謝らなくてもいいわ。可愛い娘のようだもの、それに心配性なのは性分なの」

濃姫の穏やかな微笑みには思わずほうと息をつく。
あの小さな村での老夫婦の優しさを思い出して、辛いとも感じるが、安心できた。
またじわりと滲む涙腺に困ってしまうが、、と低く響く信長の声にはっとしたは急いで目頭を擦って信長のほうへと体を向ける。

「貴様の身分について話す」
「身分、ですか・・・」
「さすがに出生不明のわけわかんねーのを城において置けないってことだよ!」

ぐさりと矢のように飛んでくる蘭丸の一言は表情からして悪気はないのだろう。だがそれが余計始末に悪い。
不可視の矢が刺さった胸元を撫でながら、は何とか気持ちを持ち直してもう一度信長を見上げた。

「丸の言う通りよ。幾ら余でも罷り通らぬ事もある。貴様はこれより、わが兄の娘とする。今後その名を名乗る時は氏を織田、父を信広と名乗るが良い。しからば貴様は織田家の者とする」
「・・・はい、」

鋭い視線は有無を言わせない響きがあった。
は、それに押されるではなく、保身に駆られて頷いた。
織田信長はが知る限り有力な武将だ。これからなにがあるかわからない。この城の中でも派閥争いなどがあっては困る。身分がない世界でがどんな扱いを受けるかもしれないなんてあの老夫婦が丹念に教えてくれた。
後ろ盾はあって困るものではない。それが協力であれば強力なほど、身を守るたてになる。
きつく唇を引き結んだに、信長は面白いと言わんばかりに目を細めた。

「なかなかの豪気である」
「あ、ありがとうございます?」

たぶん褒められたのだろうと解釈し、上がり調子の語尾で礼を言えば信長は呵呵大笑と言った具合で笑い声を上げる。
訳がわからずそれを見届けるを置いて、すっくと立ち上がった信長は一人来た道を帰っていった。
残されたはぽかんと口をあけ、濃姫はくすくすと方を揺らしていた。

「上総介様に気に入られるものはそう多くはないわ。誇りになさい。それに、信広様の娘なれば、それは上総介様の娘も同義。これでもう、本当に何も心配は要らないわ」
「・・・・濃姫様っ・・・ありがとう・・・ございます」

が不安がるたびに濃姫は大丈夫と易しく言ってくれる。
それがいつもいつもタイミングがよすぎる所為で、やっぱり涙だが滲んでしまうわけなのだ。
毎回べそべそと泣き出すに慣れだと言うしかないのだろうか、やはり女の涙に免疫のない蘭丸は顔を青くする。そしてはたと何かを思いついたかのように、腰にぶら下げていた巾着から懐紙を取り出しにっこりと笑った。

「これ喰えよ!信長様がくれた金平糖って言うんだ!甘くて元気が出るぞ!」
「金平糖?」
「ほら!」

息つく間もなく放り込まれた金平糖が舌の上で溶けてじんと砂糖の味が広がる。
この世界に来てどれくらいの甘味だろう。
懐かしさを思わす甘さに涙も引っ込めば、満足したように蘭丸は笑った。

はまだまだ子供だな!お菓子くらいで泣き止むなんて。しょうがないから、これからも泣きそうになったら蘭丸に言えよ!蘭丸の特別な金平糖分けてやるからな!」
「うん・・・ありがと・・・蘭丸くんも、ありがとう」

ふにゃりと力ない笑みが浮かぶ。
先ほどの媚を売るための笑みとは違って、情けなくて頼りない。
しかし蘭丸はその笑顔に一瞬で顔を熟れたトマトのように赤らめて、そっぽを向いてしまった。

「べ、別にのためじゃねぇからな!が泣いてると、濃姫様が心配するからだ!」
「わかった。でも、やっぱりありがとうだよ、蘭丸くん」

口では正反対なこと言って、冷たく突き放すくせに瞳はいつも気遣わしげにを見ている。
なんてことはない。この子は少し素直じゃないだけの子供だ。そう思うとなんだか全然怖くなどない。
この子供も優しい人だとわかってしまった。
濃姫も、信長も、蘭丸もに危害を加えたりしない。

家族のようだと濃姫が言ってくれた。
あの老夫婦のように、優しくに触れてくれる。
もうそれでいいじゃないか。
目まぐるしく動いたあの時間に蓋をするように、は蘭丸と濃姫に精一杯の笑顔を向けた。

「本当に、ありがとうございます」

ここに志村はいないのだ。もうを傷つけるような人間はいないのだ。
そう思うと、自然に笑うことが出来たのだった。





満ちる花