遠駆けの際に見つけたのは懐かしい白い花だった。苦々しい記憶に心臓がしくりと痛む。

「政宗様?」

後ろから声をかけた小十郎に、政宗はなんでもないと言い花を一輪手折った。あの忌むべき山で見た花と同じだ。
馬たちの休息の為に近くの川まで速度を緩める。馬たちの飲み水を小十郎に任せ、政宗は軽く散策をしてくると言い山の茂みを分け行った。
ずいぶん懐かしいものだ。幼い頃、母親が摘んで欲しいといった花だ。政宗にとって今はもうその人は母でもなんでもなかったが、あの頃は確かに母だと慕っていた。
不思議なものだ。どんなに憎まれようと疎まれようと、母は一人しかいないと泣きじゃくった記憶もある。そうして見捨てられ、何故だが時を越えた政宗が出会ったのは年若い女だった。優しい記憶と最も酷い裏切りで政宗を傷付けた女。記憶は時折混ぜ返され、愛おしさと憎しみで政宗の右目を抉る。がらんどうで爛れた肌を慈しみながら、最後は手酷く掌を返す。女なんていつだってそうだ。そのふたりの女によって、政宗の憎しみは深く深く刻みつけられていた。
そんな懐かしいことを考えていたせいか、政宗はふと顔を上げた拍子に違和感に眉を潜める。
言葉には言い表し難い。だが確実に何かが違う。戻ったほうがいいだろうか、半歩足を引いた政宗だが帯刀しているその腕は自信に満ち溢れている。そこらへんの野盗に遅れを取るはずがない。そもそもここは自分の領内だ。不穏なものがあれば取り除いておく方が吉であろう。右目の小言を覚悟しつつ、政宗は神経を張り巡らせゆっくりと先に進み始めた。

それほどの距離を進んだわけではないが、ふと違和感が強くなったことに政宗は気がつく。嗅ぎ慣れない匂い。木々や草はの匂いが薄れている。そうしてそびえるものが見えてきた時、政宗はとうとう足を止めた。

「ここは・・・」

時を越えたあの場所だ。
この匂い、肌で感じる空気の重みが違う。野生の獣の気配もしない。肌の内側が総毛立つ。その時の感情を政宗は名前をつけられず、ただ立ち尽くしていた。

「・・・お前さん、どこから来た?」

灰色にくすんだ建物がある方向に立っていたのは一人の老人であった。腰は曲がり杖をついている。服装は洋服だ。記憶の中のものに一致するそれに、政宗は血の気が引いた。
ここは、政宗の領地ではない。
喉を引きつらせて答えない政宗に、老人は気にした様子もなく近づいてくる。

「変わったとるな。今時袴か」
「あ、ああ・・・」
「・・・」

白く濁った瞳が政宗を見上げる。盲ているのか。居心地の悪い沈黙に政宗は刀を背後に回した。鞘に入っているとは言え、この時代では御法度だったはずだ。老人は気づいている様子はないので、やはり盲ているのだろう。政宗はそっと嘆息した。

「この先には何もないぞ」
「何も?村がなかったか?」

言ってしまってから政宗は口を覆う。聞いて、どうするつもりか。会いにいくのか?馬鹿馬鹿しい。視線をそらした政宗に、老人は細いと息を吐くと傍の石垣に腰を下ろす。

「あったがもうない」
「何故だ?」
「水に沈んじまったからさ。うんと昔だ」

老人は遠くを見つめ、それから政宗に視線を戻す。目尻が濡れているその表情に、政宗は立ち退く時期を失った。城に戻って元服して、まだまだ家老連中に守られている身としてはどうにも老人には弱いのだ。やれやれと肩で息をついた政宗は、老人の隣に腰を下ろす。

「爺さん、その村出身だったのか?」
「ああ、嫁もいた。息子もいた。けど、両方失くした」
「そりゃあ・・・お気の毒に」
「大切にしたかったのに、気づくのが遅すぎた。情けない話だ。お前は、気をつけなさい」

老人の声は慈しみの滲む温かいものだった。
不意に、胸が熱くなる。父も、生きていればこれくらいか、いや、もうすこし若い。だが、何故か、ひどく懐かしい。縋り付いてしまいたくなるような不思議な感覚の襲来に、政宗は訳も分からず刀の鞘を見えないように握り締めた。

「神様なんて、最初っからいなかったのさ。だから、大切なものは誰がなんと言おうと守るといい。お前の手で、お前の力で、守りなさい」
「・・・じいさん。随分訳ありだったみたいだな」
「そうだな。おかげで親に勘当されたさ。まぁ、あとから復縁したけどな」

笑う度に深く刻まれる目尻と口元の皺は、虎哉禅師を彷彿させた。

「子を憎らしく思った親と復縁なんざ出来るもんか?」
「出来るさ。子も親も、所詮はどちらも人間だ」

老人は声を出して笑う。そういうもんかねぇ、と政宗は脳裏に氷の面をした義姫を思い浮かべてみた。帰城以来同じ城に住みながらほぼ絶縁状態の、この憎悪をぶつけ合う親子関係がいつか改善されるなど到底思えない。

「おじいちゃん!!」

不意に飛んできたのは若い娘の声だった。こちらに向かってくる洋服を着た娘を見てから政宗は隣の老人に問いかける。

「爺さん、あんたの知り合いか?」
「ああ、孫だ」
「もう!また勝手に散歩に来て危ないでしょ!?この先はダムなんだから!」
「だむ?」
「堰堤だ。村を沈めたでかい水溜りさ」
「すみません、おじいちゃんが」

飄々と笑う老人の腕を掴み娘は何度も頭を下げた。それでいてこちらの服装を怪しんでいるのがありありと感じられ、政宗は髪を掻いて迷惑などかけられていないと言う。娘はそれ以上何も追求はせず、祖父に帰ろう?と言い聞かせていた。

「じゃあな、爺さん。孫娘にあんまり迷惑かけるなよ」
「迷惑なんてかけておらんわ。馬鹿にするなよバカ息子」
「おじいちゃん!息子なんていないでしょ?あ、すいません・・・おじいちゃんちょっと、ボケてて」

ほら!と腕を引く孫娘に引きずられるように老人は山を下っていく。
残された政宗はその後ろ姿を見送りながら、またしても湧いた違和感に首をかしげる。息子は亡くなった。そして孫娘は息子などいないと言う。老人は政宗を息子と呼び、政宗は成人しているだろう孫娘よりも若いまだ十四だ。痴呆が始まっているにしてははっきりと受け答えがあったことから残される奇妙な違和感。
立ち止まる政宗の歩を振り向いて、老人は手を挙げて別れを言う。

「達者でな、梵天。死ぬ前に会えてよかった」

僅かに聞こえた老人の言葉に、政宗は言葉に詰まり、息も出来ず一歩も動けない。
緩やかに氷が溶けるように真実が露わになっていく。老人を追うべきか、そう思った政宗の体は何故か反転し、水に沈んだ村に向かって走り始めていた。
建物の周辺には人影はない。政宗は水の音に戦慄を覚えながら、視界に映ったものに愕然と立ち尽くした。
海のような広い湖から浮かぶ家の屋根がいくつか。それは、見紛うわけがないという自信はなかったは、状況からして間違いがなかった。
ここはあの村なのだ。政宗が訪れた、と、誠一郎と、直義たちと過ごした村だ。
そしてあの老人は、

「誠一郎・・・」

政宗は来た道を取って返す。まだ間に合うはずだ。誠一郎に聞かなくては。どうしてそんなに歳をとっているのか、義直たちはどうしているのか、は、どうなったのか。
そして、どうして息子と呼んでくれたのか。

「誠一郎!!!」
「政宗様!?以下がなさいましたか・・・?」

肩で荒く息を吐く主君が木々の合間から飛び出してきた姿に小十郎は驚きに目を見開いていた。政宗は訳が分からず、どう説明したものかと口を開きかけた瞬間握ったままだった白い花を取りこぼす。
そうだ、昔からこちら側とあちら側は時間の流れが違った。
もう一度向こう側に渡れたとしても、あの老爺になっていた誠一郎が生きているとは限らない。
どっと押し寄せた喪失感に座り込む政宗。
小十郎は何事かと咄嗟に政宗の肩を支える。

「政宗様!?」
「・・・小十郎」
「は、」
「俺は」
「・・・政宗様?」

泣き出しそうに表情を歪める政宗に小十郎は何があったのか、主君の言葉を控えて待つ。
政宗は何も言えなかった。
ただ、嬉しかったのだ。
あの兄のように慕った男から、息子と呼ばれたことが。
奇跡のように、もう一度出会えたことが。

どうしようもなく、嬉しかったのだ。






想い出の流刑地