「誠一郎さん?どうしたの、こんな遅くに」

深い夜。小雨と風の音が足音を消していた。
もともと外灯の明かりは少なく、人に見られていた可能性は低い。
傘ではなく雨合羽を羽織る誠一郎には何事なのだろうと急いでタオルを差し出した。
誠一郎を家に上げると、温かいお茶を準備する。
その後ろで誠一郎はじっとを見ていた。
一週間後に誠一郎は村を出る。一月後には村人が出ていく。
そうしてすぐに工事が始まり、がどうなるかはわからない。
父親はそれ以上何も教えてくれなかった。

、逃げよう」
「え?」

突然の言葉の意味が理解できず、は反射的に言葉を漏らしたものの何度も誠一郎の言葉を頭の中で解析する。
逃げる、一体何からなのか。
動かないの手を握り、誠一郎は鋭い眼差しでを見つめた。

「最近、村のやつらがよそよそしくなっただろう。梵天がいなくなって、ガキ共もお前の家に来なくなった。なんでだと思う」
「それは、遊び相手がいなくなったからでしょ?」
「違う、親がおまえの家に行くのを止めてたんだ。食料だって最近減っただろう」
「もう冬だもん。みんな自給自足だし、私はひとりだから少なくても平気だよ?」
、村のやつらは、お前を見捨てるつもりなんだ」

は眠たげな笑顔を浮かべたまま、どうしたの?と誠一郎に笑いかける。

「逃げるとか、見捨てるとか。誠一郎さん、今日はなんだかおかしいよ?」
「そうだ、おかしいんだよ。俺だってずっと、今までお前を見捨ててきた。そんな俺が言うのもおかしな話かもしれないけど、死んで欲しくないんだ!お前は・・・梵天と一緒に消えたほうがよかったんだよ」
「誠一郎さん・・・?」
「親父達はお前を殺すつもりなんだ。この村は来月にはダムの底に沈む。お前も一緒に沈められる。土地神だか巫女だかなんだか知らなない。けどそんなことで殺されるなんておかしいだろ!?お前は、このままでいいのか?何もできないまま、村の言う通りに生きて、死んで、それでいいのか!?」

喚き立てる誠一郎の頬にの掌が添えられる。
暖かい体温に、涙の存在が浮き彫りになった。
情けなく流れる涙を必死で拭う誠一郎に、は嬉しそうに笑うのだ。

「いいよ。だって、みんな今まで良くしてきてくれたもん」

誠一郎は、訳が分からず、言葉を飲み込んだ。
死ぬ。それがどういうことが分かっているのだろうか。
は欲しいものがないとでも言うのだろうか。
将来の夢、未来、願い。そんなもの、何一つないとでも言うのだろうか。
よくしてくれた?
17年、訳のわからない掟で縛り付けただけじゃないか。
村から一歩も出ることも許されず、教育もそこそこ。家族もいない、世間も知らない。母に見捨てられ、そうして今度は村人全員から捨てられる。
生きる希望がないとでも言うのだろうか。意味がないとでも言うのだろうか。
でも、それでいいはずがない。

「・・・っ死んで!!もう二度と梵天に会えなくてもいいのか!!!」

その言葉にの表情が強ばったのを誠一郎は見逃さなかった。

「会いたいんだろう!?後悔したんだろう!?諦めたふりするな!!」
「でもっ・・・だって、わたし・・・!!」
「死んでもいいって、死にたいわけじゃないんだろ?だったら、逃げよう。俺が連れて逃げてやるから・・・」
「誠一郎、さん」

なにもしてやれなかった。
ずっと、ただ見てるだけだった。
振り切れるような力で手を繋いで、親の命令どうりに縛り付けただけだった。
この村の掟も道理も関係ない、梵天丸ならを連れて行ってくれるかもしれないと思った。
あんな、小さな子供に、自分は願望を押し付けて。

「明日の早朝、雨が上がるから村を出よう。俺が迎えに来るから、一緒に東京に行こう。俺が学校に行って、お前は梵天を探せばいい。それで、いつか会いに行けばいいだろ?死んだらできないことだ。死んだら会えないんだ。わかるだろ?」

わずかに震える誠一郎の声に、は音もなく涙を零していた。

「でもっ・・・誠一郎さん・・・」
「明日、迎えに来るから。荷物まとめておけ。いいな?」

最後は割と穏やかで優しい声だった。
誠一郎は湯呑のお茶を飲み干すと、を残して雨の中帰っていく。
は動けずにいた。
死にたいわけじゃない。
でも、生きていていいのかわからない。
祖母や村の者たちは本当に良くしてくれていた。
おかげでは何不自由なく生活することができた。
恩に報いなければならない、そう思っている。
は特別な力なんて何もない。巫女と担がれるだけの無知で無力なただの小娘だ。
この村を出て、何か出来るだなんて思えない。
それでも、それでも。

「梵ちゃん・・・」

封筒に入れて大事にしまってある梵天丸の手紙を撫でる。
人生に未練があるというのなら、恐らく、あの日ついた嘘だけだ。
村民への恩と、梵天丸への悔恨を天秤にかける。
は眠れぬ夜になるだろう事に、胸を詰まらせるのだった。



***



うつらうつらとし始めたのは、ようやく雨音が止んだあたりからだった。
空は分厚い雲が広がったまま、月も太陽も出てこない。
古びた大時計の針子が規則正しく揺れる音が、呼吸に合わさって眠気を誘う。

!!」

しかし穏やかな空間は突然破られ、は誠一郎の声に飛び起きる。
急いで玄関まで向かえば、右頬を真っ赤に腫らせた誠一郎が雨に濡れていた。

「誠一郎さん!どうしたのその顔っ!?」
「荷物は持っていく暇がない!悪いけど諦めろ、とりあえず山を一番下まで下って道路を東にまっすぐ進めば駅がある。この金で行けるところまでいけ!切符の買い方は駅員に聞けばいい!」
「え?誠一郎さん?なに?どういう」
「親父にバレた!!悪い・・・俺が迂闊だった。親父達は総出で山狩りを行うつもりだ。できるだけ早く、遠くに逃げろ!」
「でも、誠一郎さんはっ」
「後から行くから、安心しろ・・・梵天丸、見つけるんだろ?」

天秤は揺れている。
このままが逃げ出せば、誠一郎はどんな制裁を受けるだろう。
せっかく決まった東京への進学もダメになるかもしれない。
が大人しく捕まればそれも回避される。
代わりに誠一郎と梵天丸を裏切ったまま死ぬだけだ。
どうすればいい、揺れ続ける天秤に、誠一郎は勢いよく強くの体を抱きしめた。

「誠一郎さっ・・・」
、俺は・・・お前が大事だ。女として好きとかかはよくわからない。でも、家族として、友達として、大事だ。幸せになって欲しい。もっと欲張りになって欲しい。死んで欲しくない。生きて、もっと、自分を大切にして欲しい」
「せいいちろ、さんっ・・・」

ツンと痺れる鼻の奥。
次の瞬間にはもう涙が溢れて前がよく見えなかった。
ぐずぐずと鼻を鳴らすから離れ、誠一郎はポケットに無理やり詰め込んでいた万札を数枚に握らせ、背中を押す。

「行け!!」

そう叫び、誠一郎は街とは反対に下る山道を走る。

!!こっちだ!親父達に見つかる前に!!早く!!」

その叫び呼応する様に、懐中電灯の光がいくつも動き、誠一郎を追いかけるように動いているのが目に見えた。
あっちだ、逃がすな、追え、殺せ。
そう聞こえる声に、は足がすくんでしまいそうになる。
肺が震え、喉がひぃひぃと情けなく酸素を運ぶ。
涙で頬がぐっしょりと濡れて、両手で握り締めたのは数枚の万札と梵天丸の手紙が入った封筒。
着の身着のままの部屋着のままで、は、誠一郎と反対の方向に走り出した。

この選択でよかったのか。
今までお世話になってきた人たちを裏切ってよかったのか。
全ての責任を誠一郎に押し付けるような真似になってしまったのに。
梵天丸に会える確信もないのに。
わからない。
苦しい、苦しい、苦しい。
足がもつれる、肺が焼ける、涙で前が見えない、息が苦しい、目眩がする。
走るたびに草木が肌を引き裂き衣類に絡まる。勢いよく腕を振れば布地が裂けたが気にはしていられない。露出した僅かな腕、足、首筋に痛みが走るが止まってはいられないかった。
いや、止まれないのだ。
今朝方まで降り続いた雨のせいでろくに舗装もされていない道は土がぬかるみ良く滑った。
それに坂道だ、は勢いが殺せない。

「あっ!!!」

悲鳴を上げればあとは容易く転ぶだけ。
体が地面に引き寄せられる。
痛みを覚悟して目を閉じた瞬間、舞い上がる花弁と花の匂いを感じ取った。


薄く開いた視界の先で、濃い灰色の空に白い花弁が雪のように舞い上がっていた。






運命はこの手から滑り落ちる、残念ながら