どれくらいこうしていただろう。 全身が固まってしまうほど長く、はその場に座り込んでいた。 太陽はすっかり沈み、夜の闇に飲み込まれた家は薄暗く寒々しい。 夜目が効く方ではないが、ずっと薄闇の中にいたせいか視界も冴えている。 「・・・そろそろ、電気つけなきゃ」 しかしさすがにいつまでもこうしているわけにはいかない。 立ち上がり、電気をつけて、食事の用意をし、お風呂に入って、眠り、そしてまた明日の朝を迎えなければいけない。 そうしなければいけないのだ。 電気傘から延びる紐を引き、蛍光灯が光りだす。 眼球の奥を刺すような光に一瞬めまいを覚えながら、転ばないように体勢を立て直した。 ふと時計を見るともうすっかりいつもの食事の時間は過ぎている。 「ごめんね梵ちゃん、すぐごはんの用意するから・・・」 答えは返ってこない。 広い家の中、ああ!と弾けるような声は返ってこない。 「・・・ああ、帰っちゃったんだった」 *** 「これは、輝宗様からお前への文だ」 「輝宗、さま・・・?」 「梵天丸様のお父上。伊達氏第十六代当主、伊達輝宗様だ」 梵天丸が出かけ、残されたは小十郎から書状を渡された。 指に馴れない、少し硬い上質な紙の質感を感じさせる。 はうるさく跳ねる心臓の痛みを感じながら、そっと書状を開くがその表情には不覚しわが刻まれた。 「どうした?」 「あの・・・読めま、せん・・・」 とて義務教育のみだが読み書きに苦労しない程度には教育を受けている。 だが戦国時代というはるか昔の字体、草書で描かれた美しい絵のような文字ははっきり言って難解すぎた。 「・・・貸せ。読むぞ」 「お願いします」 拝啓、殿。 私は伊達家代十六代当主、伊達輝宗と申す。 こちらに戻りし小十郎から話は聞かせていただいた。 右も左もわからぬ世で、我が子梵天丸を救いいただき誠痛み入る。 此度は私が遠征中に起きた出来事であり、なにもできなかった自分がふがいない。 いや、貴殿にそう愚痴をこぼすのもお門違いという事だ。 だが、貴殿のおかげで梵天丸の命が救われたことはたがえようのない真実。もしも時が許すのならば、この身自ら貴殿のもとに向かい、礼を述べたいところであったが、国を預かる身。どうか許していただきたい。 貴殿のおかげで梵天丸が健やかに育ち、幾多もの傷を癒やしたことは小十郎から聞き及んでいる。 本当に、何度礼を言えば分らないほど、私は貴殿に感謝している。 そして貴殿と梵天丸が強く惹かれあい、そして必要し合ったかも聞いている。 だが、それでも、私は貴殿に言わねばならない。 梵天丸を返してほしいと。 あの子は私の宝だ。この国の未来だ。愛すべき、私の息子だ。 礼の代わりに、貴殿の願いはなんでも叶えてやれる。金も名声も与えられる。だからどうか、どうか。 息子を返してほしい。梵天丸を、我が子を。 かさり、 書状がたたまれる音に我に返った。 心臓を射抜く、小十郎の視線。泣き出しそうな、苦しげに歪んだ瞳の優しさに、はどうしようもなく申し訳なくなった。 「ごめんなさい」 吐いて出た言葉は呼吸よりも早かった。 「私が、私の、身勝手で、わがままで、梵ちゃんを縛り付けた。梵ちゃんのお父さんから、梵ちゃんを取り上げてたんですよね。向こうとこっちは時間の流れが違うって。それって私たちの倍以上の時間、梵ちゃんのお父さんは悲しんだってことですよね。私・・・最低なのに。お礼なんて、言われることないのに」 「いや、おまえが梵天丸様を救ってくれたのは事実だ。俺からも、礼を言わせてくれ」 「やめて下さい小十郎さん!顔を上げてください!」 頭を下げる小十郎には慌てて言う。 「本当は、もっと、早く、こうするべきだったんです。私たちは、違う世界を生きていたから。私には私の世界が。梵ちゃんには梵ちゃんの世界が。梵ちゃんには未来がある。どこまでもいける。でも私は、ここを離れられない。ずっと。ずっと・・・」 「・・・」 「小十郎さん、梵ちゃんを連れて帰ってあげてください。やっぱり、本当の家族と暮らすことが一番だと思います。私は、ずっと梵ちゃんと一緒にはいてあげられないから、いつか、ううん。きっとすぐに梵ちゃんを一人にしてしまうから。だから、今帰れるうちに、梵ちゃんを連れて帰ってあげてください。お願いします」 *** そうして、一芝居を打ったわけだ。 は梵天丸を嫌ったように見せ、子供の未練を断ち切った。 甘い幻想を、儚い夢を。やさしい結末にできなかったことは後悔したが、きっとこれでよかったはずだ。 これでよかったと、言い聞かせるしかない。 おままごとは今日で終わったのだ。もう、終わったのだ。 「終わったの・・・全部・・・これでよかったの・・・」 もう一度立ち上がり、昼間梵天丸と小十郎が出て行った戸口に向かう。 泥棒を働くような人間はいないが、家屋に入り込む獣はいる。 いい加減戸を締めなくてはと向かったそこで、は白い紙を見つけた。 「なに?」 思わず拾い上げる。 白い紙に緑の枠線。懐かしい原稿用紙には、つなたい子供の字でへ、と始まっていた。 へ、いつもおいしいごはんをつくってくれてありがとう。おれがもっと大きくなったら、のためにごはんをつくってやるからな。 いつもやさしくしてくれてありがとう。がおれの頭をなでたり、本をよんでくれたり、いっしょに風呂にはいってくれるのすきだ。おれのこと、きらわないでくれてありがとう。すきっていってくれてありがとう。大事にしてくれてありがとう。抱きしめてくれてありがとう。おれもが大すきだから、ずっといっしょにいたい。父上のもとにはかえらない。ここで、とずっといっしょにいたい。はここをはなれられないけど、でかけるのはだめか?おれと、と、誠一郎でいっしょにでかけよう。それで、いっしょにここにかえってよこう。三人で、ずっとくらしたい。おれは、が大すきだ。だから、ずっといっしょにいたいんだ。がいたら、もうなにもいらないんだ。おれは、といっしょにいるのが幸せなんだ。、いつもありがとう。だいすき。 「あっ・・・・あ、・・・」 絞り出した声のおかげで、やっと呼吸ができた。 酸欠で頭が痛い。涙で前が見えない。ぼろぼろとこぼれたそれが原稿用紙の上に注がれる。シャープペンの文字が滲み、急いで袖で涙の痕をふき取ると、文字がかすれてしまった。 「っ・・・・うぁあああああ!!!!」 身体が震える。内側から全身を刺すような痛みに、は耐えきれずに悲鳴を上げていた。 原稿用紙を握り締め、自分の両肩を抱いて泣き叫ぶ。涙が止まらなかった。悲鳴も、痛みも。 は走り出していた。夜の、星の光も届かない森の中を一心不乱に走り抜ける。 「梵ちゃん!!!!!」 寝入った鳥や獣たちのざわめきを無視して、は一層声を張り上げる。 「梵ちゃん!!!!!!」 だが、声は返らない。 「梵ちゃん!返事して!!嘘だよ!!ごめんね!!も、も梵ちゃんが大好きだよ!!嘘なんだよ!!嫌いだなんてっ思ったことないもん・・・!!大事だよっ・・・大好きだよ・・・!!私も一緒にいたいよっ・・・ごめんね、全部嘘だよっ・・・・全部嘘だから・・・・!!」 力が出ない。膝が折れ、足が笑って蹲る。もう一歩も動けない。 「帰ってきてぇ・・・私を一人にしないでっ・・・!!」 字面に倒れ伏せ、はわんわんと声を張り上げてないだ。 身勝手だ。 言葉は矛盾に矛盾を重ね、出口も見つからず袋小路に追い込まれた。 愛してる、一緒にいたい。でも一緒にはいられない。だから帰した。でも寂しい。つらい。悲しい。 愛している。 たった一人の家族だった。 のすべてだった。 「梵ちゃん・・・!!」 だが、に運命の扉が開くことはなかった。 |