「梵天丸様を、元の時代にお返しする。それが世の理で、正しくあるべき事柄だ。これ以上、お前に梵天丸様を預けるわけにはいかない」

硬く、重苦しい。まるで岩のような声だった。
の全身を押し潰す、声。
はゆるく息を吐き、深い息継ぎの後小十郎の正面に対面した。

「わかりました。正直、いつ申し出があるか待ち遠しかったところです。初めは可愛かったけど、いつまでもべたべたされて鬱陶しかったし迷惑だったんです。子供って、元から好きじゃないいんですよね。わがまま言わないのが唯一の救いだったけど、あの子がいたおかげで私は村の人たちから何度も小言を言われたか。まぁ、それもやっと終わるなら、別にもういいですけど。ああ、清々します」
「・・・今夜にでも梵天丸様は連れて帰る」
「どうぞ。今夜とは言わず今すぐにでも」

「・・・・・・?」

戸口の先に、梵天丸が立っていた。
細い体をこれ以上ないほど震わせ、片方だけの左目が大きく見開かれている。
不安げに、嘘だろう?と問いかける瞳は涙が溜まっていた。
は表情を浮かべないまま、梵天丸を視界から追い出すために顔を背ける。

「なんで?なんっ・・・で・・・?」

声はうまくでていなかった。
喉が、胸が、燃える様に熱い。煮え湯を流されるような痛み。
呼吸さえままならず、梵天丸は弾かれたようにその場から逃げだした。

「梵天丸様っ!!」

後を追うのは小十郎のみ。
は、その場から一歩も動かなかった。


息を切らす。喘ぐように酸素を求めても、上手く呼吸を循環させることが出来ない。
苦しい、熱い、痛い。
三重苦に責め立てられ小さな体からは、水分が刻一刻と渇いていく。
汗が、涙が、止まらない。
梵天丸はひたすら走っていた。
何処へ向かうかなどわからない。
ただ逃げるために、一心不乱、脇目もふらずに走っていた。

ああ。あの日と同じだ。

「梵天丸様!!」

いつの間に倒れ伏していたんだろう。
脱げた靴が転がって、顔から地面に落っこちた。
痛みはわからない。どこが痛いのかがわからないのだ。
身体なのか、心なのか。それとも心臓なのか。そう、心臓かもしれない。今にも息の根が止まってしまいそうな痛みだった。
梵天丸は湧水のように止まらない涙と一緒に悲鳴のように嗚咽を吐きだし続けた。
駆け寄った小十郎は急いで梵天丸の体を起こし、全身の土を払う。
涙で濡れた頬には、痛ましいくらい土や砂が張り付いていた。

「おれっ・・・おれ、・・・!!」

拳を握る小さな手を、小十郎は苦しげに包み込み柔く擦った。
暖かな人肌は、梵天丸の涙腺をさらに熱く焼切らせる。

はっ、おれのこと、家族だって・・・!すきだって・・・だいじだって・・・!!言って、くれて・・・た、のにっ・・・!!一緒にいようって・・・ずっと、ここにいてもいいって・・・!!言って・・・く、れ・・・て・・・!!」

飴玉のように、丸く、やさしく、つやつやとした甘い言葉たち。
それいくつも、いくつも梵天丸に与えてくれた
心臓の痛みを失わせた、数々のの愛は。

「嘘だったんだ・・・!!ぜんぶっ・・・うそ、だったん、だっ・・・!!」

吐き出す声には血が混じるような痛みがあった。
小十郎は慰めの言葉も持たず、強く、梵天丸の手を握り締めるしかできない。

「あいつは・・・俺を嗤ってたんだ・・・!!嘲笑ってたんだ・・・!!ぜんぶっ、ぜんぶ・・・!!嘘だったんだ・・・!!」

その深い悲しみは、絶望は、急速に怒りに、憎しみに転じた。
言葉は荒く、その隻眼は憎悪に爛々と燃えている。
小十郎はただ静かに、瞑目することしかできなかった。



***



どれくらいそうしていただろう。
日は傾き、ゆっくりと夜が忍び寄っている。
逢魔が時。
世の理から外れるにはもってこいの時間だ。

「・・・小十郎、戻るか」
「は、」

とうとう涙も枯れ果てた。
とても十にも満たない子供の横顔ではなかった。
悲哀、哀愁、虚無、空虚。
一体なんと言い表せばよいだろう。
光を失った瞳をした子供は、頼りない細い足で立ち上がる。
小十郎は今にも掻き消えてしまいそうな儚げな主の手をしっかりと握り、そうして手近な白い花を摘み取った。

「戻りましょう。梵天丸様のあるべき場所へ」
「ああ。早く戻って父上に目通りをしなくてはな・・・」

身体が重い。泥沼の中を歩くようだった。どこへ進もうがこの世は地獄だ。醜聞に満ちた沼の底。
梵天丸の腕を引き、道を作る小十郎は前だけを見ている。
花の香りだ。風が、頬を撫でる。
土と青草の匂い。世界の境界線を、越える。

梵天丸は、後ろを振り返ることはせず、世界を、捨てたのだった。





ついに永遠は生まれなかった