幸せな毎日だ。 幸せであるということに満たされている。 平凡で、変わりなく、幸せである日々。 これ以上の幸福などないと、梵天丸は思う。 昼時に学校の図書館に向かう。と好きなだけ本を読み、夕暮れに直義たちと遊び、が作った菓子を食べながら帰路に着く。 たまに来る誠一郎に英語を教えてもらいながら軽口をたたき合う。 幸せで満ち足りた毎日だ。 その不変の様な日々を遮ったのが、小十郎だった。 数日前に姿を消した小十郎は、唐突にまた姿を現した。 今度は泥まみれになることはなく、身綺麗に帯刀したまま梵天丸との前に帰って来た。 「無事だったか、小十郎」 「御心配おかけいたしました、梵天丸様」 「心配なんてしていない。お前ほどの男は簡単には死なないだろうからな。それよりも、よくもまたこっちに来れたな」 子供らしく隠すことのない嫌味っぽい声音にも、小十郎は眉ひとつ動かすこともなく深々と下げていた頭を上げて懐から書状を一つ取りだした。 「輝宗様からにございます」 「父上から・・・?」 動揺に揺れた梵天丸の声には不安げに梵天丸の傍に寄り添った。 梵天丸の父親のことはあまり知らない。 ただ、賢君であったことくらいしか聞いてはいなかった。 梵天丸は受け取った書状を開き視線だけで文体を追う。 横から覗きこんだ文字は、どう見てもみみずの集合体にしか見えずには難解すぎて眩暈がした。 「梵ちゃん・・・なんて書いてあったの?」 「・・・生きているのならば、会いたいと」 どうしよう。 そう問いかける瞳に一体何を迷う必要があるのだろうとは勢いよく梵天丸の肩を掴んだ。 「好きなんでしょう?お父さんのこと」 「で、も・・・」 「私は、梵ちゃんがもとにいた場所に戻って、またお母さんにひどいことされるなんて耐えられない。でも、お父さんは違うんでしょ?梵ちゃんのこと、好きだっていってくれてるんでしょう?」 にとって梵天丸は、愛すべき家族であり、庇護すべき少年であり、可哀想な自分を映した鏡でもあった。 しかしそうではない。 梵天丸は梵天丸で、ではない。 本当の家族がいるし、必要とされている場所があるなら、そこに行くべきだ。 がこの村にとどまる様に。 「でも、もし俺が戻ったら?は・・・?は、ついて来てくれるか?は・・・は俺だけのだろ?」 泣きだしそうな瞳がを納める。 ここですぐにでも頷いてやれたらどれほど良かっただろう。 はそっと梵天丸を抱きしめて、優しい声で答えた。 「は、一緒にはいけないよ」 その小さな体の震えは絶望だったかもしれない。 それでも、世界が、子供にとっては神に等しい親が、梵天丸を望んでいる。 会いたいと、帰ってきて欲しいと言っている。 「すこし・・・時間をくれ、小十郎・・・頼む・・・」 はい。そう答えまた深々と頭を下げる小十郎。 梵天丸は強くの背に腕を回し、ただ一言も言葉を放つことはなく、ただじっと、の体を抱きしめ返していた。 *** 翌日、梵天丸は朝食の後家を出た。 カレンダーの曜日は赤い。日曜日はいつも子供たちで遊ぶのが習慣になっていた。 午前中は梵天丸が稽古をつけてやり、昼からは子供らしく遊んだ。 学校の近くの広場にはもう子供たち四人が揃って居る。 梵天丸の姿を見つけると、直義たちは手を振って梵天丸を迎え入れた。 「ん?お前ら何してんだ?」 「学校の宿題!家族のひとにありがとうの手紙だってー。おれ作文にがてなのにー」 「なおちゃん作文と手紙はちがうんじゃない?」 「でも国語だろ?」 「うーん?」 「いいなぁ梵天丸は。宿題ないもん」 紙と鉛筆。 もう見慣れたそれで白い紙にありがとうと言う文章を書き連ねる義直たち。 「おれおかーさんにかくんだ」 「おれはおとうさんに!」 母と言われ、思い浮かぶのは美しく長い黒髪と、氷のように冷えた眼だった。 父と言われ、思い浮かぶのは厳めしい面影と、力強い背中だった。 感謝とはなんだろう。 この世に産み落としてくれたことだろうか。 もしも向こうに帰ることとなれば、また、あの冷たくつらい生活があるのか。 「梵天丸どうしたの?」 「前、言っただろう。俺、連れて帰られるかもしれないって」 「えー!!やだー!遠いところなんだろ!?」 そう。遠い。とても、遠いところだ。 帰ってこれないかもしれない。そんな場所だ。 帰っても、幸せではない場所だろう。 「ここにいなよ梵天丸ー!」 「ずっとみんなで遊ぼうよ!」 そうだ。ここにいればいい。 気兼ねなく話し、遊ぶことのできる友人がいる。 身分の差もない。恐れもない。妬み恨みもあるはずがない。 誰にも何も強制されることはない。 戦も、駆け引きも、命を奪われる恐れもない。 ここは平和だ。 なにより、がいる。 「・・・なぁ、俺にも紙とえんぴつ貸してくれ」 ここに居たい。 の傍を、離れたくなかった。 |