ここまで後手に回ってしまたのは小十郎に力が足りなかったから。 そう一言で片付けてしまうわけにはいかない。 小十郎は嫡男梵天丸の世話役であったが所詮は神職上がりの一武士に過ぎず、正室である義姫に面会を漕ぎつけることなど至難の技だった。 梵天丸の行方が失せてからとうに十日は過ぎている。 義姫は悠々と扇で口元を隠しながら、まるで虫を見る様な侮蔑の眼差しで小十郎を見ていた。 「義姫様、簡潔にお尋ねいたします。梵天丸様は何処におわしますでしょうか」 「何をおかしなことを言うか小十郎。梵天は死んだのだ。三年も昔ではないか」 「いいえ、梵天丸様は生きておられました。十日前に貴女様が城から連れ出すまでは」 「梵天は死んだ。あれは鬼よ、化け物よ。城に置く訳にはいかぬであろう」 「義姫様!!」 「控えよ小十郎。今お前の首を跳ねぬ妾の慈悲に感謝なさい」 吠える小十郎に義姫は扇を突きつける。 鋭い視線に小十郎は歯を食いしばり怒りに堪えた。 女の身であれ武家に生まれた戦国という時代を生きる戦女だ。 鉄で殴られた様な重圧に、小十郎は奥歯を噛み締め額を畳に擦りつけた。 「どうかっ、梵天丸様の行方をお教えください!私は梵天丸様の右の目なのです。いつ何時でもあの方のお傍にと誓ったのです!私はあの方を守る、そう誓ったのです!義姫様どうか、私の首を跳ねぬというのならば慈悲をどうかもう一度っ!梵天丸様の行方をお教えください!!」 「・・・話はそれだけか?小十郎、終わったのならばさっさと帰るがよい。妾の気が変わらぬうちにな」 ひらりと扇を振るい、犬を追い払うように義姫は小十郎から視線を外す。 「義姫様!!」 「くどいぞ小十郎!!あれはもやは死んだのだ!!」 噛みつくように名を呼べば、義姫もまた同じように扇で畳を叩いた。 お互い引かずに獣の如く睨み合えば、義姫はふっと笑って表情を崩した。 「忠義の男よ、小十郎。お前はその忠誠を輝宗殿にだけ誓っておればよかったものを。あの一つ目の化け物はもはや死んだのだ。あの山には賊が多いと聞くからな」 「まさか、義姫様・・・」 小十郎は続ける言葉を失い、転げるように義姫の部屋を出た。 不敬だろうと今はそんなこと関係ない。 小十郎は馬番に馬を引かせて刀を取り、着の身着の儘で城を飛び出す。 梵天丸の行方が失せてからもう十日が過ぎていた。 希望などなにもない。 焦燥が喉を焼く。 小十郎は言葉にならない祈りを掻き抱き、ただただ馬を走らせた。 「梵天丸様っ・・・!!」 風のように駆け抜ければ、青く茂る葉と白い花の花弁が激しく散った。 の朝の散歩は梵天丸と出会って以来行われていなかったが、最近まだ再開されている。 は朝の澄んだ空気が好きだ。 肺一杯に吸い込めば体の中から綺麗になる様な気がする。 「このあたりだよ。梵ちゃんと出会ったの」 「懐かしいな」 梵天丸はすっかり馴染んだ様服に身を包み、草履ではなく靴を履いている。 直義たちと仲良くなってから彼の母親たちからお古を貰ったのだ。 梵天丸は今やすっかりよりも衣装持ちになっている。 「なんだか、まだ昨日のことみたい」 「そうか?俺にはすっかりまえのことにおもえるぞ?」 毎日が新しかった梵天丸にはそう感じるだろう。 はにっこり笑って森を散策した。 しばらく歩き、道を折り返す。緩やかに下り坂にかかろうとしたその時、がさりと草木を掻き分ける音にふたりの心臓が大きく跳ねた。 人里近くとはいえ獣がいないわけではない。 鳥かもしれない、だが熊かもしれない。 「!」 咄嗟に梵天丸は木の棒を拾い上げを庇うように前へ出る。 はいつでも梵天丸の手を引いて逃げ出せるように身構えた。 ガサガサと音は次第に近づいてくる。 青く茂る葉の間から、鋭い光が見えた。 梵天丸は木の棒を握る手に力を加える。 しかし、その緊張は一瞬にしてほぐれた。 「こ・・・小十郎?」 藪から飛び出してきた足は深い色の袴に泥だらけの足袋と草履。 すっかり土や木々の汁がついで汚れた着物に表情は憔悴しきっていた。 歳若だろうが、随分老いても見える。 「梵、天丸・・・様・・・?」 生気を失っていた瞳には見る見るうちに涙が溜まり、男はその場から駆けだし梵天丸の肩を掴むとそのまま崩れるように膝をついた。 「幻では、ないのですねっ・・・梵天丸様!!」 「小十郎、どうしてここに!?」 「御無事でしたかっ・・・!よかった・・・本当に良かった!!」 小十郎と呼ばれた男は人目も憚らず盛大な男泣きをして梵天丸を抱きしめた。 梵天丸もわけがわからずどうしたものかとを見る。 もまたどうすればいいかなんてわかるはずもなく、ただ小十郎が泣き止むのを待つばかりであった。 しばらくして泣き声は弱まり、小十郎は恥ずかしそうにはにかむ。 「お恥ずかしい所をお見せしてしまいましたな。梵天丸様。さぁ、城へ帰りましょう」 「・・・どうやってだ?」 梵天丸はうんざりといった表情で小十郎につっかえす。 そうして梵天丸の衣服と、その後ろに立つをようやく視界に納め一体何が、と呟いた。 「俺からすれば小十郎の方が一体何が、だ。お前がそんな泥まみれになるなんて畑以外見たことがないぞ」 けらけら笑う梵天前うに小十郎は怒気を孕む真剣な声音で吠える。 「なにをおっしゃいます!!この小十郎、死に物狂いで梵天丸様をお探ししたのですよ!!」 「大層な奴だ」 「ひと月です!!もうっ、諦めかけていた所ですぞ!!」 「ひと月?」 梵天丸は目を丸くして首をかしげた。 小さな両手を指折り数え、を見上げる。 「俺がの所へ来てまだ十日程だぞ?」 「うん」 しん、と静まり返る山の中で小十郎は訳がわからないと梵天丸を見る。 「ともかく城に帰りましょう。輝宗様に無事をお知らせしなくては」 「いやだ!!」 「梵天丸様!?」 「いやだはなせ小十郎!!!!」 「ちょっと!梵ちゃんを放してください!」 梵天丸を挟んでと小十郎が梵天丸の細い腕を引きあう。 しかしの力が敵うはずもなく、梵天丸はあっという間に小十郎に抱かえられはいつ抜かれたのかもわからない刀の切っ先が向けられていた。 「小十郎!刀をおろせ!!」 「なりませぬ。このように怪しい娘」 「今まで俺を守ってくれたのはだ!」 梵天丸の叫びに小十郎はしぶしぶといった風体で刀をしまう。 は喉元から失せた威圧感に腰が抜けた。 「ともかく、娘を連れて一度城へ」 「い、や、だっ!」 「梵天丸様!!」 「小十郎、わからないのか?ここはあの山ではないし森を歩いたって城には帰れない」 「何故?」 「がそういった」 を睨みつける鋭い眼光。 は何とか体を起こす。膝が笑って力が入らなかった。 「確かに、そう言いました。なんなら今からこの山を歩きますか?」 「・・・当たり前だ」 小十郎は言うや否や梵天丸を抱えたまま歩きだす。 は小走りでそれを追い、泣きだしそうな梵天丸に大丈夫だよ、と囁いた。 |