腕の中で小さな声が震えた。温かな熱。心地よいまどろみ。外はまだ暗い。の意識は眠りに沈んでいく。



しかし再び聞こえる声に、これは誰だと思考が巡った。
ゆっくり目を開く。
白い包帯に顔半分を隠してしまった、幼い子供が顔を覗き込んでいた。

、おなかすいた」
「梵、ちゃん・・・」
「寝ぼけてるのか?
「ううん、おはよう」
「おはよう」

少しだけ、涙が出そうになってしまったのをは内緒にする。
誰かに朝の挨拶をしたのなんて、何年振りだろうと胸が温かくなった。

その日は軽い朝食を済ませ、昼下がりまで古い服を梵天丸が着られるように採寸を直したりすることで時間を潰した。
梵天丸はまずミシンに興味を持ち、カタカタと動くリズムが気に入ったらしく隣で鼻歌を歌いながらの作業を見つめていた。
暫くすると飽きが来たのか、部屋の中をうろついている。
居間にはテレビと時計と本棚とくらいしかない。

「これはなんだ?」
「本だよ」
「おれが知ってるのとはずいぶん違う作りなんだな」
「そうだねぇ」
「これはなんだ?」
「時計だよ」
「とけいってなんだ?」
「時間を調べるものだよ。いまはお昼ですよってわかるの」
「日の光を見なくてもいいのか」
「うん、曇りの日も雨の日も、今が何時かわかるよ」
「これはなんだ?」
「テレビだよ」
「てれびってなんだ?」
「たくさんの人のお話が聞けたり、たくさんの場所が見れたする機会だよ」

まるで絵本の様な会話には少しだけ笑った、
梵天丸は小さな手でぺたぺたとテレビのつるりとした表面を撫で、ガラスの黒の向こうに映る自分を覗き込んでいた。

「鏡みたいだ」
「右下のスイッチ押してみて」
「すいっち?」

舌足らずな平仮名英語で右下に指を伸ばす梵天丸。
ぱちりと画面が光り、驚いて下がる梵天丸を膝の上に乗せてテレビに向かいあった。

「な、なんだこれ」
「この人はキャスターさん。たくさんのニュース、事件とか、国のこととか、たくさんのことを伝えてくれるひと」

政治の情勢、交通事故、道路情報、天気予報。たくさんのニュースが浮かんで沈んで流れて過ぎ去る。
梵天丸は訳がわからないまま不思議な箱から溢れる音を拾って、疑問に思うことは何でも聞かに問いかけた。
しかしの最終学歴は小学校卒業までなのであまり多くのことは答えてやれなかった。
そうこうしているうちにニュースは世界の情勢も映し出す。
テレビに映る金髪碧眼のキャスターに梵天丸は小さく異人と呟いた。

!異人がいる!」
「いじん?あぁ、外国の人だねぇ」
「すごい!おれはじめて見た!!」

興奮する梵天丸はぴったりとテレビに飛びつく。はん目が悪なるよーといいながら梵天丸の体を抱きよせてもう一度膝の上に座らせた。

「なんて言ってるんだろう」
「んーも難しいのはわからないなぁ。簡単なのはわかるよ?ハローとかグッバイ、とか」
「はろー?ぐっばい?」
「そうそう、梵ちゃん上手いねぇ。こんにちは、とさようなら、って意味だよ」

暖かな子供の体温を抱えながら使わない英語を舌にのせてみる。
穏やかな雰囲気とはほど遠い、ニュースは紛争の激化した惨状を伝えていた。

「戦、なのか」

ふいに梵天丸のトーンが落ちる。
も低い声でそうだね、と返すしかない。
遠い遠い、異国の地だ。海の向こうの世界。おそらく、一生が向かうことのないような地だ。

「日の本は、戦をしていないのか?領土を争ったり、侵略されてはいないのか?」

不安げに見上げてくる隻眼に、は安心させるように梵天丸の形の良い頭を撫でた。

「大丈夫だよ。日本はね、世界中の国ともう絶対に戦争しませんって約束してるんだよ」
「戦を、しないのか?」
「そうだよ、政治をする人を国民が決めて、その人が国の為に政治をするの。国のことを思って、国民の為に政治をする人たちがいるの。その人たちが、戦争をしないで、政治で国を守ってくれてるんだよ」

梵天丸は不思議そうに眼を丸くしながら、テレビのほうへとまた視線を戻す。

「それを奪い合ったりしないのか?やりたい放題する奴はいないのか?不幸になる奴はいないのか?」

もしかしたらしているかもしれない。達には見えないだけで、奪い合いや、騙し合いをしているかもしれない。それでも

「この国は今平和だよ。国を守る人が、国と国民のことを思って政治をすれば、奪い合いも騙し合いもないよ。みんなが一つのことを願っていれば、誰も不幸にはならないよ」

自分でもひどく陳腐だと思った。
そんな綺麗事、一昔前にだって通用しない。
しかし実際その通りでもある。規模が小さければ、それでうまくいく。世界は纏まる。安全で平和で穏やかな日々が得られる。
少なくとも、この村はそうであるとは思う。

「じゃあ。父上もそんな風に考えているんだな」
「そっか、梵ちゃんのお父さんは国主だもんねぇ。たくさんの人の安全と幸せを守るために、頑張ってお仕事してるんだよ、きっと」
「そうか・・・うん、そうだな」

梵天丸はゆっくりと瞼を閉じる。
は知らない、梵天丸は父親のことをあまり知らないことを。
国主として忙しく働く父。日々の世話や、武芸や作法、学問を教えてくれたのは概ね雇われた師か小十郎だった。

(俺は民でなく、国主の子だから幸せでないのは当然なのだろうか。国主は民の幸せだけを願っていればいいのか。それで、国主は幸せなのだろうか?)

父は冷たい人ではなかった。しかし、母の愛と、それを裏返した憎しみを知った身で、父輝宗がどういう感情を自分に向けているのか、梵天丸は良くわからなかった。
忙しい父に訳もなく謁見できるはずもなく、梵天丸は輝宗とはあまり顔を合わせてはいない。

「国主は民を守る。じゃあ、民は国主になにをしてくれるんだ?」

梵天丸の問いに、は優しく笑った。

「愛するんだよ。自分たちを守ってくれる人を、尊敬して、大切にする。自分の親みたいに、家族みたいに思うんだよ。ありがとうの気持ちを忘れないで、その人のことを、信じてるんだよ」
「・・・よくわからない」
「いつか、わかるんじゃないかなぁ?」

信じる、愛する。見えない、形のないそれは本当にあるのかわからない。
そんな不可視のものの為に、父は国を守っているのだろうか。
税を納められてもそれは国のもの、個人のものではない。わからない、梵天丸は考えることをやめて完全に瞼を閉じた。
ゆっくりと音が遠ざかる。の手が温かかった。






温度をうつして