食後の満腹感にまどろみ眠りこけそうな梵天丸だが、今日は山を上って降りてをしたのだから汗をかいている。 このまま寝かせるわけも行かずまどろむ梵天を起こしてそのうちには浴槽に湯を張った。 「梵ちゃん、寝ちゃう前にお風呂入ろう」 「・・・眠い」 「だーめ。ほらひんむいちゃいぞ」 和服と言うのは随分脱がしやすい。 途中から楽しくなってわざとくすぐったりして笑いだせばつられえ梵天丸もきゃっきゃと笑いだしてしまう。 だがそれはが梵天丸の包帯に触れるまでだった。 梵天丸の小さな手が力一杯の手を叩きはらう。驚いて目を丸くすれば梵天丸ははっとまた泣き出しそうに瞳を歪めた。 「わ、悪い!い、痛かった…か?」 「ううん。大丈夫。嫌がることしてごめんね。ここ、濡れても大丈夫?」 仰々しい程まかれた右目を覆う包帯は白く汚れはない。 「怪我は、ない。もう治ってるんだ」 「そっかー。痛くない?」 「ああ」 梵天丸はそれっきり黙り込んでしまう。 もどうしていいかわからず、とにかく風呂へ梵天丸を連行した。 の家は随分古い。何度か改装されてはいるがもともと風呂場は広くなかった。 ふたりで入るには幾分窮屈かと思ったが、梵天丸は子供だしは小柄なので大事ない。初めこそ抵抗した梵天丸だったががさっさと服を脱いで寒いというと梵天丸も折れてくれた。 はタオルを巻いて梵天丸を風呂に連れる。 包帯を濡らしてはまずいので、軽く体を洗ってふたり風呂につかった。 「梵ちゃんどうしたの?」 「風呂に誰かと入るなんて久しぶりだ」 「梵ちゃんいっつもひとりで入ってたの?えらいねぇ」 「子供扱いするな」 むっとうくれた頬が温まって赤く染まっている。かわいい。はにこにこと笑いながらごめん、と謝った。 梵天丸も笑ったが、表情はかげる。先程の手を叩いたことを気をもんでいるのだろうか。は気にしていないのに、と繊細な子供心に苦笑した。 風呂上がりは同じ着物を着せるわけにもいかずのお古の比較的ボーイッシュな服を着せた。 勿論洋服を知るはずがない梵天丸に一から着せてやる。 ボタンなど初めは苦戦したがすぐに慣れた様子であったので安心した。 布団は祖母の分があったが、も二回の山の往復に流石に少し疲れてしまったので同じ布団で寝ればいかと結論付ける。 初めに梵天丸を寝かしつけた布団だ。 「梵ちゃん、寝ようか」 「・・・」 「うん?」 布団にもぐりこむの目の前で梵天丸が膝をつく。寒いだろうと布団を上げて早く入るように仕草をしたが、梵天丸はギュっと強く瞼を閉じてなにか我慢しているようだった。 「どうしたの?」 「お、俺、同じ布団で寝たくない」 「え」 ちょっと、と言うかだいぶショックだ。 どうして風呂がよくて布団が駄目なのだろう。 しかし梵天丸は必至だったのでどうして?と聞けない。 「に・・・にうつったらいやだ」 「何がるうつるの?」 「もう、治ったって小十郎はいったけど、が俺みたいになったら、いやだ・・・!」 どういうことだろうとは身を起こして座りなおす。 ふたり向かいあって膝を突き合わせると、梵天丸はおもむろに包帯に手をかけた。 はらり、と白い包帯が畳に上に落ちる。 黒髪の隙間から覗く肌は決してすべらかではなかった。 目の周囲は赤く爛れたような瘢痕がある。 痛々しい。火傷ではないだろうが、小さな子供には不釣り合いの大きすぎる怪我だった。 「もこんな風になるのは嫌だ。風呂も明日から一人で入る、寝る時も。うつらないかもしれない。でも、うつるのは嫌だ・・・」 梵天丸は震えていた。体も、声も。泣き出してしまいそうだ。 いや、すぐにでも泣きだすだろう。はたまらなかった。 「恐ろしいだろう?醜いだろう?」 「痛く、ない?」 「・・・ぜんぜん」 同時には梵天丸を抱きしめていた。梵天丸ははなせと喚いたが、は決して力を緩めなかった。 「よかった、痛くないなら、安心だよ」 「っ・・・!」 「うつったって、全然平気。だってうつっても、梵ちゃんとおそろいでしょ?なら、怖くないよ」 抱きしめる梵天丸の肺が震える。 胸越しに伝わって、心を揺らす。 「っ・・・っ・・・っ・・・」 涙のまじる声は苦しそうに、痛ましくくぐもる。 小さな手が背中に延ばされきつくきつく服を握り締めた。 「おれを、おれをばけものとよばないでくれるか?」 小さく零れ落ちた声には一度身を離して梵天丸の顔を見た。 泣き濡れる丸い目は真っ赤になっている。 「誰がそんなひどいこといったの?」 「・・・」 梵天丸は小さな子供だった。 警戒心の強い子供であったが笑えばかわいいし知らないものに興味を示す表情はきらきらしていた。 この短期間で躾の行き届いたいい子だとわかったし、文句を言ったり暴れたしする様子もない。 梵天丸はいい子だった。それがの感想だ。 それなのに、誰がそんなひどいことを胸を締め付ける。 「・・・母上だ」 今度はが言葉を失った。 こんな小さな、誰かが守ってやらなければ幼い子供に向かって、生みの親が。それも母親が化けものなどと呼ぶだなんて。 「おれは病で目を失った。病にかかって、母上は俺を避けだした。肌が腫れあがって、肉はただれて、死んだ方がましだと思うくらいつらかった。痛かった。ついに目が腐って飛び出して、小十郎が斬り落としてくれた。おれは生き伸びだ。母上はおれのことを化け物だと言った。おれが醜いから、おれが、おれが・・・」 は悲鳴を押し殺しす。 世界はありふれた不幸に満ちている。だって不幸だ。けれども、梵天丸はあまりにも不幸だった。哀れだった。悲しかった。 は渾身の力で梵天丸を抱きしめる。 両手できつくきつく。隙間なく抱きしめる。梵天丸が息苦しそうに身じろいだが、そんな事を察してあげる余裕さえなかった。 「忘れなさい」 ついて出た言葉はそれだった。 「なんてひどいっ・・・そんなことない、梵ちゃんはいい子だよ。やさしい、かわいい、の大切な家族だよ。たった一人の家族だよ!」 「うっ・・・く・・・ぅ、ううう・・・」 「梵ちゃん、我慢しなくてもいいんだよ。我慢しないで」 押し殺した泣き声はとても苦しく、胸を抉るような声だった。 は抱きしめる腕に力を入れて、梵天丸の耳元に囁く。 の強い声は梵天丸の幼い琴線を容易く揺らしてしまう。 我慢できない、溢れ来る悲しみと痛み。 「お、おれっ・・・おれ、母上のこと、ずっと・・・か、かなしくってっ・・・!お、おれ、は、いらない子なんだ!!おれ・・・す、すてられ・・・うっ・・・ううううー!!いやだぁ・・・ち、ちちうえっ・・・ははうえ・・・こ・・・じゅ・・・・おれ・・・・やだぁ・・・・嫌わないでよっ・・・ははうえぇ・・・!!」 どんな気持ちだろう。 母親に捨てられるというのは。化け物と呼ばれ、追い払われるというのは。 は、昔から楽天的な子供だった。 母親に連れられてこの村に来た時も、その次の日に母親がいなくなった時も、まぁ、大丈夫だろうと思った。 たしかに泣いた。辛かった。今立ち直っているのは、村の人は、いまはもういない祖母のおかげだと思う。 けれど梵天丸には誰もいない。誰もいないのだ。 「・・・梵ちゃん、大丈夫だよ」 服にしわを刻みつけ抱きついてくる梵天丸は答えない。 切れ切れの声で支離滅裂な悲鳴を産み落とし続ける。 それはあまりに悲しくて、も思わず涙が出た。引きずられる様に、感情が溢れかえる。 「私はずっとそばにいる。絶対に梵ちゃんを傷つけない。はそんなひどいこと言わない、思わない。絶対に、約束するよ。梵ちゃんを傷つけたりしない。そんなことしたくもないもん」 うううと呻くように響く梵天丸の泣き声に合わせて、も喉を震わせる。 悲しい、悲しい。子供の声だ。が遠い昔に失った感情だ。 そうだ、自分も悲しかったのだ、本当は。 祖母を、村の人たちを、皆を困らせたくなくて、悲しかったことを忘れたのだ。 「全部忘れちゃってもいいよ。悲しいって言ってもいいよ。誰も責めたりしないよ。全部吐き出してもいいよ。がちゃんと受け止めるから」 誰かの目を気にして泣けなかったのは、梵天丸も同じなら、こそが梵天丸を救えるような気がした。 あの時、が欲しかった言葉をなぞってやればいいのだ。 「っ・・・っ・・・!!」 「私はそばにいるからね。ずっとずっと、梵ちゃんの傍にいるからね」 古ぼけてもう顔さえ思い出せない母を、それでもは愛していた。ずっと一緒に居たかった。 梵天丸も、冷たい人でも母親を愛している。ずっと一緒に居たかったはずだ。 子供にとって、母親は特別だった。 はそれを知っている。 に出来ることは、ただ、母親のように優しく梵天丸を抱きしめてやることだった。 「梵ちゃん、梵ちゃん。梵ちゃんはいい子だよ。大好きだよ。もう絶対、悲しい思いはさせないから」 だから、この小さな子供の流す涙を見るのは、今日で最後であればいいのにとは切にそう願うしかなかった。 |