さくさくとひとり少女が青く茂る葉を踏みつつ進む。 薄い雲に包まれた遮光が射し、朝の清らかな空気が肺に満ちる頃には少女のお気に入りの場所に到着する。 切り立った崖の下に広がる山谷は深く、現代日本ではそう見られない周囲一帯を覆う山々。 鳥の番が大きく囀り、晴れ渡る空はまぶしく清々しい。 ぐんと全身を伸ばし、肺いっぱいに空気を吸い込んだ少女はそのまま一気に脱力ひとつ瞼を瞬く。 このあたりの山々はすべて村の所有地であり、深い山村はいくつもあったが距離があり交流は少ない。 文明の利器は存在するが、電波が届きにくい山の中ではあまり役に立たない為一昔前の日本といった風情がある。 築うん十年以上の木造建築。改装済みとはいえ藁ぶき屋根も存在するような地域だ。 よく旅行史などの雑誌に最後の日本などと銘打って特集が組まれることもあり、あたりの村は旅館を立ててずいぶんと賑わっている。 切り立つ崖から見えるいくつもの屋根を、少女はただ見つめるだけだ。 そろそろ帰ろうと来た道を振りかえれば、ふいに草かげの向こうから声が聞こえる。 獣、ではなさそうだ。 少女はそろりと足音を忍ばせて獣道へと入りこむ。 かさりと草を掻きわければピクリとも動かない子供が横たわっていた。 「っ・・・君!!大丈夫!?」 意識がなく顔色が悪い。 あたりには白い花が散らばっていて腕から血が滲んでいた。 「ど、どうしよう」 一通り揺さぶるやら声をかけてみるが、目覚める気配はない。 しかも怪我をしている。深い怪我ではないとはいえ、心配だ。 は子供の傍に膝を付いて頬を少し叩いた。 「ねぇ、起きて!きみ!ねぇ大丈夫!?ねぇったら!」 子供は一瞬だけ眉をしかめたが、目覚める気配はあまりなかった。 どうしよう、どうしようとと思い悩んだ少女は意を決して子供を運ぶことにする。往復して助けを呼ぶには結構な時間がかかるからだ。 年は10に届かないくらいなのだろうか、あまり力が強いわけではない自分にも運べるだろうと少女は勝手に決め付ける。 は意識のない子供に運ぶね?と一言断りを入れ、ゆっくりその体を抱き上げた。 (お、もっ・・・!!) 子供は犬猫とは違う。 見た眼よりもずっと質量はある。思わず腰が抜けるかと思ったが、少女は何とか踏みとどまりそのまま子供を抱きかかえたまますり足で来た道を変えることにした。 *** 「う・・・」 全身の骨に響くような鈍い痛みとともに意識が浮上する。 ゆっくりと体を起こせば、かけられていた布団がはらりとめくれた。 (城か・・・?) 畳、整った木目の天井。しかし見知らぬものばかりの部屋に子供は恐怖を覚えた。 ある程度整理されたその部屋は野盗のものではなさそうだった、油断はできない。 (野盗に追われて、崖から落ちて・・・捕まったのか?) そうして腕に巻かれていた包帯に気がついた。 擦りむいていた両膝も白い布が当てられている。 しかし随分上等な布団だ。軽く温かい。やはり野盗の塒ではなさそうだ。では一体ここはどこだ? 子供はぐるりと周囲を見渡せば、自分が眠っていた布団の隣に一人の少女が寝転がっていた。 年はきっと十五そこらだろうか。 黒くまっすぐな髪を畳の上に散らして、体を丸くするようにして眠っていた少女は見たことのない着物を着ていた。 帯もなく、裾の広がった白い衣は不思議な手触りで、それに顔を覗き込むほど近づいてみても起きる気配はなさそうだった。 その間に周囲を眺める。 用途のはわからない鉄の箱。壁にかかった不可思議な文字の浮かぶ振り子のついたからくり。天井にある紐のついた発光体。 わけがわからないと子供は頭を抱え、それから痛みが引いたころに気づいて骨は折れていなかったかと安心した。 ふいに、柱にかかっていた振り子のついたからくりがボーンと音を慣らす。 何事かと悲鳴が出そうになったのを何とか飲み込めば、その音は回ほど繰り返した後ぱったりと止んだ。 「んー・・・」 そして隣で眠りこけていた少女の方が動く。 はっとそちらを見やれば、少女はゆっくりと体を起して長い髪で表情を隠していた。 それから眠たげな眼を二、三度どこするような仕種をしてから、簾の様に視界を覆っていた髪を分けた。 少女と子供の視線が絡む。 恐怖と緊張に身をかたくする子供に向かって、少女はへらりと音がしそうなほど緊張感の欠けたのない間の抜けた笑みを向けた。 「おはよう」 「は?」 子供はぽかんと口を開け、何もかもが理解できない状況に思考がついてこなかった。 だがそんなことを知るはずがない少女は、寝起きの体でのそのそと子供の眠る布団の傍まで寄ると、その額に沿って掌を当てる。 子供が緊張にふるえ目をひ見開くが、少女は逆に目を閉じている。 「熱はないねぇ」 「お、おまえ」 「一応手当てしたけどほかに痛いとこある?あったら先生のところに行こうと思うんだけ」 「せ、せんせい?」 「うん、村のお医者さんなんだけどね」 「む、むら?」 「うん、君、どこから来たの?」 その問いのあろ子供は口を噤む。 少女はふと首を傾げた後、大丈夫?どこか痛いの?と声をかけた。 その優しい声は、はるか昔の母親と、いま傍にいない従者がかぶって聞こえた。 「ここは・・・どこなんだ」 「ここ?私の家だよ?」 「そうじゃなくて」 「あ、私っていうの。君の名前は?」 「だから・・・」 「ん?」 こてんと小首をかしげる少女に人を騙そうとか陥れようという気配は一切見られなかった。 子供は幼いながらに様々な経験をしていたので人を見る目はあると自負している。悪意のある人間が演技をしていようが簡単に見破れる。少女にはその気配が一切ない。 「・・・梵天丸だ」 「梵天丸くん?不思議な名前だね」 そう言われてもなどという名前のほうがよっぽど不思議だと梵天丸は思ったが、いまいち人の話を聞かなさそうな少女はいったとこでヘラヘラ笑うだけだろうと何となく思ってしまったので梵天丸はそのことは伏せた。 「で、ここはどこなんだ?」 「私のうちだよ。それより梵ちゃんなんなところでそうしたの?怪我してるし・・・」 「梵ちゃん!?」 思わず声がひっくり返る。 伊達家嫡子として育てられ、一時は悪鬼物の怪と蔑まれた自分がまさかそんな可笑しな名前で呼ばれるとは。 慄く梵天丸にはやはり小首をかしげるばかりだったが、元気そうでよかったと的外れに笑う。 それがあまりに毒気を抜く笑顔だったものだから、梵天丸はやれやれと頭を抱えて何もかも諦めた気持ちになってしまった。 「あ、そうだ梵ちゃん。もうお昼だけどおなか減らない?」 「いや、別に・・・」 「そんなこと言わないで!子供はたくさん食べなきゃ大きくなれないもん。ちょっとご飯作るから待ってて」 「おい!」 やはりは人の話を聞かず部屋から出て行った。 といってもすぐ向こう側が台所だったらしく、扉を開け放ったままのの後姿はよく見えていた。 見たことのないからくりの並ぶ台所とおもわしき場所。 よくわからない手順で料理をするの後姿を見つめながら梵天丸は毒殺されるだろうかと考えてみた。 毒殺は、正直何度かあった。 主に犯人は分かっていたので何とも言えなかったが、毒見役の草が何人も死んだ。みな苦しそうにのたうち死んでいったらしい。 従者である小十郎は絶対にそんな場所を梵天丸に見せはしなかったが、人の口には戸口は立てられないものでそんな話はごまんと聞いてた。 殺されるだろうかと思いながら、あんな間抜けな女がそんな体それたことが出来そうにはないと思う。 しかし、よくよく思い返せば優しかった母親こそが自分を殺そうと企てるのだから、が自分を殺さない保証はないと梵天丸は笑った。 しばらくして丸い机を出したは膳に載せた白米と豆腐の味噌汁とほうれん草の和え物と卵焼きを並べる。 簡単かつ地味な料理で子供受けしなかったかもと思ったが、今ある食材で作られるものは限られてしまうのだ。 「梵ちゃん、ご飯できたよ」 「・・・あぁ」 布団から出た梵天丸はに倣って正座をする。 料理の匂いは、とてもいい。少ししか減っていなかった腹はそれを納めよう消化に走る。 ぐぅ、と意地汚く鳴る腹に、臭いに騙されてはだめだと首を振る梵天丸には小首をまた傾げる。それからは二人分の麦茶をガラスのコップに注いで、どうぞと梵天丸の前へと差し出した。 「なんだそれ」 「? お茶だよ?」 「ちがう、その入れ物のほうだ!」 「これ?普通のガラスのコップだよ?」 「こっぷ?」 うん、といいながらコップを渡せば、透き通った硝子のコップに梵天丸は釘つけになった。 「こんな美しいものは見たことがない」 「普通のコップだよ」 「こっぷとはなんだ」 「湯呑の・・・英語、かなぁ」 「えいごってなんだ」 「外国の言葉だよ」 「・・・そうか」 奇妙な違和感を覚えつつ応対すれば、梵天丸は相変わらずコップを注視したまま中の麦茶が揺れる様を見つめていた。 コップを知らないとは、不思議な子供だと思う。 そういえば服も袴だ。七五三ではなさそうだけれども、もしかしたらいいところの子供なのかもしれない。 この村の下のほうの村は温泉街としてちょっとした観光地でもある。ならば、旅行中に親と逸れたのかもしれないとは思う。 日本式のお固い家ならば、コップとは言わないのかもしれない。 「私がお腹すいたからご飯作っちゃったけど・・・梵ちゃん、お父さんとお母さんは?」 もしも旅行中の親子ならばどこかの旅館で昼を取るはずだ。 親も心配しているだろうと思っての一言。軽いとはいえ怪我もしているのだし、早く親元に帰したほうがいいだろうと思ってのことだった。 しかし、梵天丸はその言葉を聞いたとたんガラスのコップを置き、俯いてしまった。 もしかして、喧嘩をして飛び出してきてしまったのだろうか。 「・・・ぃ」 「なぁに?」 「いない。親なんて」 そう吐き捨てるように呟いた梵天丸は乱暴に端を取り、米、ほうれん草、卵焼きを順番に口に入れ、最期にみそ汁を飲みこんだ。 にしてみれば好き嫌いのないいい子だなぁと映った一連の流れは、梵天丸にしてみれば一種の自棄だった。 殺されて死んだならばそれまでだ。どうせ帰る場所もない。毒があったならあとは死ぬだけだ。 あまり噛まずに飲み込み、喉につっかえ少し苦しい思いをしたが、最後に来るだろう苦しみを思えばなんてことはなかった。 「梵ちゃん。ちゃんと噛んで食べなきゃだめだよ」 かと思えばがは相変わらず間の抜けたことを言うので、梵天丸は一睨みした後毒を味わうようにしつこく咀嚼して食事を黙々とこなす。 にしてみれば、やはり人の注意をきくいい子なんだなぁと的外れな風に映ってみてていたのだった。 しかし、なかなかおいしいと思ってしまう。 食事を言うのは梵天丸にとっては面倒な作業であった。 いちいち毒が仕込まれているかを確認し、それを思えば食欲も失せる。 食はどんどん細くなり、自分でも思うに余り肉つきはよくない。 けれどもの出した料理はなかなか気に行った。卵焼きの甘さが申し分ない。 最期の食事と思うと、少しさみしい気がしてしまった。 「梵ちゃんは、お父さんか、お母さんと、喧嘩しちゃったのかな?」 卵焼きを箸で切り分けながら問うに梵天丸は薄く笑った。皿を見下ろしていたは気付かない。 喧嘩、などという生易しいものではない。 憎悪、殺意、向けられる負の感情。期待と裏切り。梵天丸はすでに疲れ切っていた。 「違う、捨てられたんだ」 自分は要らない子だった。 だから捨てられた。体の機能が欠けた、気味の悪い、鬼のような子供、誰も愛さないだろう。 仕方のないことなのだ。 右目を覆う包帯をはずした己の顔を、梵天丸自身それを見たくもない。薄気味悪くただれた肌や、なにもない空洞。闇の様な虚無の洞を思い出して、梵天丸は小さく震えた。 はしばらく梵天丸を見つめた後、そうかぁ。と相変わらず間抜けの様な声で答える。 「梵ちゃん、と一緒だね」 「・・・は?」 の切り返しに思わず橋が止まる。 しかしは気にした様子もなく、梵天丸の顔を見て「お弁当付いてるー」などと笑いながら口端についた米をすくいとって自分の口に運んで行った。 わけがわからない。 「でも、ちゃんと帰らなきゃだめだよ。ごはん食べたら送るよ」 「だから俺は・・・」 捨てられた、とそう続けようと思ったが、思いのほか自分の言葉が胸に深く刺さっていた。 もう一度その言葉を口にすれば、血が流れてしまいそうで、怖かった。 梵天丸は大人しく口をつぐみ、一向に毒の回らない食事を平らげることにしたのだった。 毒などはいていないことなど初めからわかっていた。 だがいっそ、死んでしまい位悲しかったのだ。 |