「梵天、梵天丸や」
「はい、母上」
「どうか妾のために花を摘んできてはくれぬか?白い花がよい。両手では持ち切れぬ程、たくさんの花を摘んできてはくれぬか?」
「っ、はい!」

幼い子供は駆け出し、必死になって膝をかがめて白い花を探す。
ひとつ、ふたつ。花の茎を手折り白い花弁が風に揺られて頬をくすぐった。
子供は花を摘む。いくつもいくつも、一心不乱に花を摘み、その小さな両手に掴み切れぬ程の花を手折るとようやく満足したのか、背の高い草に負けぬように立ち上がる。

「・・・母上!」

そこには誰の姿もない。
ざわりと風が大きく凪ぐ。両手から花がこぼれ数は随分減ってしまった。

「・・・母上?」

もう一度名を呼ぶ、だがその姿は影も形もない。
耳を劈くような沈黙に子供は震え上がった。

「母上っ!!」

花を握り締め地を蹴る。
来た道はうろ覚えであった。あんなに話しかけてくれる母の姿など今までなかったからだ。景色など何も見ていなかった。
母が退屈しないようにたくさんの言葉を子供は紡いだ。
それが仇となった。

「母上ぇ!!」

木々の枝が肌を打つ。鋭い痛みに呻きながらも子供は足を止めない。
不安を煽るように森の野鳥が耳障りにけたたましく鳴き喚く。
恐ろしいほどの恐怖が背中に襲いかかった。
子供は逃げて逃げて逃げ続け、迫りくる恐怖から逃げ延びようと必死になる。
森はだんだんと深くなり、鬱蒼と茂る木々は日の光を遮った。
日はまだ高かったはずなのに、まるで夜のような薄闇が森を包んでいる。
子供は大きく飛び出した木の幹に足を取られ、受け身も取れずにその場に転がる。
擦りむいた腕や足が火を灯したように熱い。
いつものように甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる従者は今ここにはい。
子供は震える。

「ははうえっ・・・」

涙交じりの声。鼻をすする音。深い森の中では誰にも届かない。
子供はその孤独に耐えかねて、とうとう体を丸めて声を出して泣き出してしまった。
ははうえ、ははうえ、と言葉を覚えたばかりの子供のように何度も繰り返す。
帰ってくる答えはない。
茎を握りつぶしてしまった花からは苦い匂いがした。

「坊主、なに泣いてんだ?」

程なくして頭上から声がする。
子供ははっと顔をあげた。足音には全く気がつかなかった。

「一人か?え?」

男は櫛で梳かしていないだろうぼろぼろの髪に擦り切れた襤褸と獣の皮の羽織をまとっていた。
伸び放題の髭に並びの悪い歯は黄ばみ、漏れる口臭は酒の匂いを帯びている。
子供はとっさに男がどういう人間なのかを嗅ぎ取った。

「きれいなべべが汚れちまったなぁ?大丈夫か」
「・・・っ、平気だ」

立ち上がり土を払う。
じくじくと痛む膝や腕に気づかないふりをして子供は一歩下がる。

「どうした?」

男の卑下た笑みに悪い予感しかやってこない。
子供は曖昧に視線をめぐらせれば、森の中にまだ数人いることが感じ取れ、子供は一も二もなく来た道を引き返す。

「逃げやがった!!追えっ!!」

彼らはこのあたりの界隈を塒にする山賊か盗賊の類なのだろう。
捕まってしまえばおそらく命はない。
子供は駆ける。
足の長さも走る速さも、大人の男とは大違いなのだ。だから子供は一心不乱に駆ける。
背後に迫る足音の数も数えられない。思考が絡まる程の恐怖。
子供はぜいぜいとうるさい肺を抱えてひたすら深い森の中を走り抜ける。

「あっ!?」

草を掻き分け進み入れば、一瞬にして足元が失せた。
崖。
脳が即座にそれを理解しようとも、子供は空を飛ぶための翼をもたない。
重い体はゆっくりと落ちていく。
子供は恐怖に体を固くする。握りしめる花びらが、空へと散って子供の視界を覆い隠した。
絹を裂くような子供の甲高い悲鳴。崖に集まる男たち。子供は最後の一瞬まで、脳裏に母の姿を思い描いていた。






かみさまなんていないのよ