若虎を捕らえて一年は過ぎた。 少し時間がかかりすぎたかもしれないが、大した問題ではないだろう。 武田は弱体の一途を辿り、すでに天下には手が届かぬほど遠のいた。今や天下に近いのは、と伊達と豊臣の三竦み。 豊臣に雑賀を取られたのは痛手ではあるが、こちらは第五天を引き入れた。銃火器の装備は負けてはいない。 そうでなくともいずれ天下はのもの。がそう望んでいるのだ。なればこそ、天はの手中に収まるのが必然のこと。 「今日はあなたが生まれ変わってから初めての初陣になるわね」 「は」 「緊張している?」 「いえ。某の全ては姫様のもの」 「ふふ、で構わないわ。幸村」 「殿・・・」 恍惚に輝く瞳には満足げに微笑んだ。 幸村の頬を撫でてやり、長い髪を摘んで遊ぶ。幸村は猫のように目を細め、今にも喉を鳴らしそうに喜んでいる。しかしその実この男、なかなかの猛虎に育ったのだ。 「近衛」 「は」 「幸村にあれを」 そして影から滲み出るようにして現れた近衛は、相変わらずのにたりとした笑とともに赤い布で包まれたものを幸村に差し出す。 「近衛殿、これは」 「姫様からの初陣祝いだ」 上質の布にくるまれたそれを抱き寄せる。ゆるく生地を捲れば出てきたのは一対の槍であった。 「私の国の鉱山で取れた良質の鉄を、私の国の一番の鍛冶屋で作らせたのよ。幸村、受け取ってくれる?」 それは、何よりもよく幸村の両手に馴染んだ。過去の全てを一瞬にして忘れさせてしまう程、幸村にとってそれは素晴らしい贈りものであった。 大きく丸く見開かれた幸村の瞳からは大粒の涙が止めどなく溢れる。 は幸村に際限なく与えた。食事に着物に住まう場所。生きる意味を価値を。そしてその体さえ惜しみなく与えた。何度も場を交え、甘く、お前の子なら孕んでもいいと蕩けた声音で言ってやった。 幸村はその身から溢れるほどにより満たされ、過去の喪失や痛みは真綿に包む様にして埋められた。見えぬ傷は、もう血も膿も流すことはなくなっている。 は、幸村にとっての全てに成り代わっていた。 「有り難くっ・・・頂戴致しまするっ・・・!!!」 「喜んでもらて嬉しいわ。幸村、あなたの初陣はつらく、厳しいものになるでしょう。それは深い痛手を負うかもしれません。けれど覚えていて。私たちはあなたの味方だと。私は、何があってもあなたを見捨てはしない。見殺しになんて、しないわ。あなたは私の、大切なもの」 進軍先は武田領本陣。これをもって武田領全域を狩り奪るのだ。 あとは弱り朽ちるだけの虎の首を、は取りに来た。 そうして初めて、手に入れられるのだ。幸村を。は笑う。最後の仕上げまで一年かけた。機は十分に熟している。仕上げの味に、は想像だけで体中を熱く濡らした。 「行けるわね?幸村」 「はっ!!この幸村、必ずや殿の為に首級を上げてみせまする!!」 戦の熱に浮かされる幸村の瞳はいたって正気だ。だがそれは一度折られ、挫かれ、狂い、歪に捻じ曲げられた精神だ。そこに宿る正気などとうに正しさを失っている。 今から討つのが以前の君主。己の部下、家臣たち。だが幸村にはなんの感懐もない。全ては過ぎ去った過去である。己を切り捨て、信頼を踏みにじった遺物だ。 幸村は傍から見れば既に狂人だ。爛々と輝く瞳は血走っている。だかここで幸村を狂っていると後ろ指差す者はいない。皆の元に集い、幸村を受け入れたという軍なのだから。 「が将!!真田幸村っ、いざ参る!!!」 新たな二槍を振りかざし、以前よりも磨き上げられた技で幸村は敵を討つ。 肉を裂いて血を浴びて、悲鳴と静止の声を身に纏い、赤黒く濁った炎で自分を裏切り見捨てた世界を轟々と燃え上がらせる。すべてが灰と煤に変わる様は酷く幸村を上機嫌にさせた。 「ははは!はははははは!!何もかも焼き尽くしてくれようぞ!!」 新しい主君。新しい居場所。新しい世界に幸村は今を生きている。 ならば旧い世界は無用の長物。破壊し尽くし、完膚無きまでに滅ぼしてしまうのが正しいに決まっている。 幸村は笑った。高らかに哂った。肉を焼き土を焼き全てを燃やす。濁った黒い炎は幸村が笑うたびに大きく膨れ上がり、悲鳴さえ焼き尽くして戦場を飲み込んだ。 まさしくそれは阿鼻叫喚の地獄絵図。の為だと思えばそれはたまらない幸福として幸村の指先の神経一つまで染み渡り、際限なく力を呼び起こさせた。 「幸村あああぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」 突如巨大な戦斧が幸村を阻む。咄嗟に二槍で迎撃しつつ後退した幸村は、ほんの僅かに判断を遅らせれば首を落とされていただろう。 「なにを、しておるのだ・・・幸村っ!!!」 「これは、お久しゅうございますなお館様」 病で臥せっていると聞いていたが、まさか前線に赴いてくるとは。信玄は青い顔で戦装束を纏い幸村に相対した。顔色の悪さは体調だけではあるまい。消息を立ち、死んだを諦めていた愛弟子が今目の前にいる。敵の将を名乗り、悪しき炎を纏う猛虎の姿。不敵に笑う幸村の表情には、もう信玄の知る面影は欠片も残ってはいなかった。 「誠に・・・幸村かっ」 「某の顔をお忘れか。仕方ありませぬな。お館様が不要と切り捨てた一介の武将に過ぎぬ某など、既に忘れておられても可笑しくありますまい」 「一体何を」 「旦那っ!!!」 声はふたりの傍に降り立とうとしたが、生憎そう上手くはいかず声は僅かばかり離れた位置に着地した。 空中で受けた苦無は弾き落としたが、気配はまだ掴めていない。佐助は猛禽の瞳であたりを索敵する。 「近衛殿」 「幸村殿は足が速い」 「近衛殿に褒められるとは、光栄でございますな」 それは風のように、闇のように、霧のように、掴みどころなくそして瞬時に現れた。 轟々と燃え盛る戦場でふたりは朗らかに笑い合う。 佐助と信玄は信じられない光景に、目が釘付けになった。 あの男、の副将でありながら忍の技をも使い、上杉武田を窮地に追いやったその男である。あの運命の日、佐助と幸村を引き離し、佐助に痛手を負わせたその男と、幸村はひどく親しげに会話を交わしている。その信じがたい光景に、佐助は目を剥いて吠え立てた。 「なにやってんだよ真田の旦那っ!あんたは誰に手を出してるのかわかってるのか!?」 「無論承知のことだ。我が主殿の敵である武田信玄。その御首、頂戴いたす!!」 「なっ」 佐助は言葉を失い、幸村を見つめた。 幸村は佐助を視界から追いやると、すぐさま信玄に向かって肉薄し、その巨大戦斧に槍をぶつける。 「殿より賜りし我が槍の力を見よ!!」 「幸村!!一体何があったのじゃ!!」 「大将!!」 「余所見とは余裕だな」 近衛は武士のなりだがその本質は忍だ。佐助に肉薄した近衛は幸村の戦いに水を差そうとする佐助を引き付ける。その速さは伝説を思わせ、佐助の背に冷たいものが流れた。 あの時とは比べ物にならないとの技と殺気、加えての速さに佐助はぞっとする。それはつまり、あの時でさえ力を加減していたとでも言うのか。 視界の端では主とその主君が殺し合う。気が気ではない現状に、佐助はなんとか冷静にならねばと口の中を噛み千切り、鉄錆の味で思考を研ぎ澄ませた。 |