「あらあら、随分盛り上がっているようね」

遅れて敵本陣に到着したは、場違いなほど穏やかにのほほんと言ってみせる。
しかし後方隊で本陣からきたが武田本陣に到着したということは、戦場は落ちたも当然。恐らく、今回大将首であった勝頼も既に殺されたことだろう。武田はもう風前の灯。いや、が気紛れに長引かせているだけに過ぎない。

「かすがっ!!!」

佐助に悲鳴にが手に引きずってきたものが呻く。
長い金の髪は血に汚され、脇腹と両足には数本ずつ矢が刺さっていた。の歩いた道にはかすがの血が蛇のように続いており、美しい白い肌はどこも真っ赤に染まっていた。

「まぁ、お知り合い?謙信様の仇とか言って飛びかかってきたから、吃驚しちゃった。とっても綺麗な顔だから召し上げたかったんだけど、駄目ね。こんなに弱くちゃ」

そう笑いは肩をすくめつつ、掴んでいたかすがの髪を引き上げ顔を上げさせた。
殆ど虫の息で、呼吸するのが精一杯のかすがは口の周りを血でぐっしょりと汚しながら、消え入るような声で「けんしんさま・・・」と泣いている。

「第一、謙信公が死んだのは信玄公の所為ではないかしら?あの時、謙信公と供にその場に留まっていれば、少なくとも謙信公が死ぬことはなかったでしょう?同盟を利用して、好敵手を盾にして逃げ延びたんだから、ねぇ?」

はかすがに問いかけるがもちろん返事をする余力もない。動かない玩具に呆れ、はかすがを適当にその場に放り捨てた。呻き声は小さく、直に死ぬだろう。

殿・・・その話、誠でござるか・・・?」

不意に寄越された幸村の問いに、は「ええ」と事も無げに頷いた。
いつもは嘘ばかりであったが、こればかりは本当だ。武田を庇って上杉は滅んだ。馬鹿馬鹿しい、愚か者たちの顛末だ。
その答えに、幸村の瞳が更に禍々しく燃え上がる。

「なんたる卑怯・・・!!なんたる非道・・・!!武人の風上にも置けぬそのやり口!!貴様はそうして何もかも見捨て!裏切りってきたのか!!」
「聞けぃ!幸村!!」
「笑止!!貴様の嘘偽りの言葉に意味は無し!!貴様の言葉など既に聞く耳など持たぬわ!!」

戦斧を弾いた幸村の二槍が、炎を纏う暴風の如き速さで信玄に斬撃を与え続けその腹を抉った。信玄は迫りあがる血を吐けば、それは幸村の端正な顔を汚す。は、ただ静かに恍惚の表情でそれを見ていた。目を逸らすなんて出来るはずがない!これが、これこそが、が望んでいた終焉だ。

「大将!!旦那っ!!」

佐助が近衛に背を向け走り寄る。それを見逃してやるほど近衛は甘くもなく、容赦せずその背へ袈裟斬りに刀を振り下ろす。致命傷だ。それ以外にも傷は多く、至る所から血をにじませていた佐助だが痛みも感じていないのか。近衛へ振り返ることもなく、立ち止まることもなく佐助は信玄の元に駆けた。見事なまでに、人間臭い忠節だ。泥臭くみっともない。絶望に落ちる様の表情にの心は踊るように跳ねた。これだから戦場は楽しいのだ。

「ゆき・・・む、ら・・・」
「覚悟めされよ。武田信玄」

鬱蒼と笑う幸村の歪んだ笑みに、は呼吸も忘れてただ魅入る。
血濡れの槍が一度引き抜かれ、痛みに呻く信玄の心の臓を捉えると、幸村は迷いなく槍で信玄の胸を貫いた。低い絶命の声に、幸村は声もなく笑んでいた。

「た・・・ぁ・・・大将ぉぉおおお!!!」

吠える忍には目標を定める。かすがを撃ち落とした腕だ。手負いの忍など獣を狩るよりも容易い。弩の引き金を引き、飛び出した矢が佐助の肩を貫く。とうとう膝をついた佐助は、その場に崩れ落ちた。だがそれでも芋虫のようにみっともなく身を引きずり、佐助は信玄のもとに這い寄り進む。

「大将・・・大将、なあ。嘘だろ・・・大将・・・」
「嘘なものか。心の臓を突き破られて生きておるはずがない」

かつての己の忍を見下ろす幸村の視線に熱はない。佐助は無様に泣きべそを浮かべて幸村を見上げていた。

「なんでだよ・・・旦那、なんで・・・」
「お前たちが某を捨てた。だから某もお前たちを捨てた。道理だろう?」

そうして信玄から槍を引き抜けば、甲斐の虎と謳われた巨躯が地に沈む。幸村は元主君の血に汚れた槍を、佐助の胸に突き立てた。

「がっ!!あっ・・・ああ・・・!!!」
「佐助、お前には随分世話になったな。だがらこそ、一寸でも長く生きてくれ」

その残酷な笑みに佐助はとうとう血を吐き涙を流して泣きじゃくった。それはとても忍の姿ではない。捨てられて、手も足も出ない。後は緩く死を待つだけの哀れな人形だ。

「なんでっ、どうして、だんな、だんな・・・おれたちは・・・ずっとあんたを・・・」
「幸村」

佐助の消え入る声音はの甘い声が掻き消した。
その声に、幸村は躾けられた犬のようにすぐにの元に駆ける。佐助はひゅうひゅうと煩い呼吸で息をしながら赤くなる視界でそれを見ていた。もう、名を呼ぶ力も残されていない。怒りや憎しみを吠える力もない。

「よくやってくれましたね。大儀です」
「すべては殿の為っ・・・!」
「嬉しい、幸村。あなたがいてくれて本当に良かった。ありがとう、幸村」

赤く上気した顔色で、幸村は目尻を滲ませ表情を綻ばす。まるで母に褒められた童子のように。狂っている。佐助はそう呟いたがもう幸村には届かない。破れた肺から漏れる音は、血に混じってもう聞こえない。

「化けものめ」

佐助は最後の力を振り絞ってに呪いを吐く。死ね。死ね。死んでしまえ。なにもかもを壊した償いを受けて死ね。武田を、上杉を滅ぼした報いを受けて死ね。
そう呪う佐助の傍で、近衛が楽しげににたりと笑っていた。人間味のない、まるで能面のような笑みから滲むのは狡猾で残忍な蛇のような怖気の悪さだった。

「負け犬の遠吠えだな。最期までそこで、狂った主を見ているといい」

その足取りで近衛はと幸村の元へ向かう。
怒りか、痛みか。もう混ざり合って分からない。口内で血の味がする。悔しさで涙が止まらなかった。みんな死んだ。信玄も、かすがも、そして、佐助たちが知る真田幸村も。

「これで、もうあなたを縛るものは何もありません。あなたは過去の痛みと苦しから解放されました。幸村、私はそれを嬉しく思います。そしてどうか、これからも私の為に、その槍を振るってはくれないでしょうか?」

金も、地位も、家も領土も信頼も、は何もかも手に入れてきた。
望むものはすべて手に入るべくしての元にやってきた。だからこそ、が望んだ幸村はの元に下るべきである。はずっとそう考えてきた。

「は!勿論にございます!この幸村、一生涯殿にお仕えさせて頂きとうございまする!!」

幸村は言う。己はのものだと。は笑う。嬉しいと。
予定調和だ。なにもかも。ははじめから知っていた。こうなることなど分かっていた。
世界はのものなのだから。とっくの昔から決まっていたことだ

「大好きよ、幸村。これであなたは満たされた。あなたを裏切り、あなたを切り捨て、あなたを殺し、あなたを忘れた敵を討ち滅ぼした。あなたは新たな魂を持ってここに今生まれ落ちた。炎を纏う戦鬼。私だけの、紅蓮の鬼」

もう離さないとは幸村に口付け、戦に猛るその熱を分け合うように何度も舌を絡めた。
応える幸村の舌先と、腰に回された強い腕。触れた箇所から溶けていく。甘美なる灼熱には歌うように笑った。

かくして、戦国を震撼させる“家の紅蓮の鬼”は世に産み落とされた。
天下を劫火にて焼き尽くし、捧げるは至上の君主の掌へ。
爛れ落ちた武田を手始めに、世界は、赤黒く濁る炎に飲み込まれてゆくのだ。

「愛しているわ。私だけの、紅蓮の鬼」




死亡と呼ぶか回帰と呼ぶか