それから更に一月。 幸村の食事は武家らしく正しいものを与え、同時に薬の量を倍にした。 血の巡りが良くなった分毒の廻りは更に良くなる。 虎はまるで借りてきた猫のように大人しくの傍で眠っていた。 は地下牢を封鎖し、幸村を自分の隣の部屋に移した。天井に忍たちを置いておいたが逃げる素振りは一向に見せることはなかった。 それは当然のことだった。 幸村にはもう戻る領地も軍もないのだから。 が気まぐれに虚偽混じりの戦況を伝えてみると、武田の劣勢を聞けば苦しげに眉をひそめてはいたが何も言わなかった。その愛くるしい表情はのお気に入りだったのだが、最近はただ単調に頷くだけである。 なにせ自分を捨てた主君だ。毎夜部下を見捨てる将など主君に非ずと捨てられた哀れな仔虎の髪を慰め続ければ疑心もいつしか確信へと変わっていた。 毒の廻りも手伝って、幸村はによく懐いた。 噛み付くことは決してなく、ただ静かにに従う。心を失った人形のようでもあったが、そうではない。母の腕を待つ子供のようなものなのだ。望まれるまま腕を伸ばし髪を撫で、名を呼び続ければ容易いことだ。鋭さを失った牙は決しての喉に食い込むことはない。 幸村はただの一介の武人だ。 今やの温情によって生かされてはいるが、人質としての価値もなく生かしておく意味はないと幸村は考えている。 そんなある日、は近衛を連れて幸村の部屋に赴いた。 特にすることもない幸村は一日の大半を部屋の真ん中で瞑目して過ごしている。何を考えているかは興味深い。どうせ己の不幸な身の上のことだろう。もちろんがそう刷り込んだからだ。 「幸村、今日はお前に報告があります」 「・・・なんでござろう」 「もうじき、戦が始まります。織田の話は常日ごろ聞かせていたでしょう?もうこれ以上彼らを捨て置くわけにはいきません」 「それは・・・一軍でなされるのですか?」 「ええ。どこも同盟などと吐き捨てたのだから、独力でやるしかないわ・・・」 これもまた嘘だらけだ。真実などひとつもない。 現に武田、上杉の同盟軍は前田の風来坊の助力を得て西海の鬼と中国の知将を戦場に引きずりだしたと聞いている。たちは武田が平定を疎かにしている旧北条領小田原を奪るのだ。無論、隠密にである。 織田の戦に混じってもいいが等分される領地はあまりに少ない。失う兵の数を思えばあまりに理にかなわない。 今は戦国、戦の時代だ。下らない正義感で戦をする者から死んでいく。 「暫く城を留守にすることを、伝えておこうと思って」 幸村の瞳が不安げに揺れた。 怯えるように慄く表情は、おそらく初めてだろう。これは良い兆候である。 「大丈夫よ幸村。ここには戦の火は届かない。あなたはゆっくり体を休め、傷を癒せばいいのよ」 「ちがう、某は、」 言い淀む幸村には内心ほくそ笑む。予定調和ではないか。今や腑抜けた若虎は、庇護を失うことを恐れている。 は優しく手招く様に、なぁに?と甘い声音で問い返す。幸村はなんでもないと固く両手の拳を握り込み俯いてしまった。 幸村の恐れはひしひしと伝わった。今まで自分が刈り取ってきた命のこと。そして、どこかでまた血を望んでいること。だがいま幸村には理由がない。幸村は戦場に出る意味がない。幸村はの気まぐれに生かされる価値なき捕虜なのだから。 「それでね幸村。もしかしたら私も死んでしまうかもしれないでしょう?だから思い出と言ってはおかしいのだけれど、また握り飯を握ってみたの」 笹の葉にくるまれた、みっつの歪な形に握り飯。 は照れくさそうに笑うと、その丸い頬が薄く染まる。 「結局、一度も上手に握れなかったわね」 「・・・」 「ねぇ幸村。ほんの少しでいいわ。どうか、私が無事戻れるように願っていてくれないかしら?」 勢いよく上げられた視線は僅かに涙に濡れていた。 若虎を捕らえてどれくらいしたか。はじめはもっと手こずると思っていだが、案外簡単なものだった。 元々純朴な青年だ。暗示と洗脳に抗う術など持ってはいなかった。虎の魂であるその焔が一度弱ってしまえばなんてことはない。長い軟禁生活で鋭さがかけた表情はあの頃よりもどこか幼かった。 好みである。 寄る辺を探す哀れな子供のかんばせだ。 「心得申した、」 涙を隠すように深く頭を垂れる。ひとつに結えられていた淡い栗毛が背を滑り落ち、食いしばる歯の隙間から絞り出された声はの胸を躍らせた。 幸村を生かすのはだ。が死ねば幸村は完膚なきまでに意味を失う。元より今の幸村が己の生き死にを願っているかさえ定かではない。しかし今、槍一つもたない無力な幸村に食事を与え、着物を与え、不自由なく日々を過ごすことができるのはのおかげだった。 己の価値を、存在意義を失った幸村を許し、認めてくれたのはだけだった。 弱くなった思考はただ標を与えてくれるの喪失を恐れる。幸村は今、一寸先も見えないこの世でひとりぼっちなのだから。 暗闇に君臨するの体温を失えば、幸村の炎はたちまちかき消され冷たく死に絶えるだろう。 |