虎を捕らえて三月が過ぎた。
傷が癒えてからというものの、少量の水には確かに毒をませていたのだが、なかなかどうして効きが悪い。
天下に轟く真田の忍と謳われる程だ、主に毒の耐性があってもおかしくはなかったが、普通の人間ならばとっくに廃人になっている頃だろう。
げに恐ろしきは虎の魂か。
燃える鋼のような精神力に、流石のも感服した。
しかしまぁ使っている毒も弱いものなのだから仕方がないだろう。使い物にならなくなっては意味がないのだから。極力副作用のないものを選べば毒は自ずと弱いものになる。
しかし三ヶ月だ。
ないような食事と栄養で幸村の体はとっくに毒に蝕まれていた。苛烈なまでの精神で誤魔化しているに過ぎない。幸村にはもう、敵の喉を食い破る余力などとうに失われていた。
頃合か。
は隠しきれない笑みを浮かべ、それでも建前を繕う為に扇で口元をすっぽりと覆い隠す。
近衛は付き合いが長い分、の考えなどお見通しだ。
応えるようににたりと笑った近衛は「虎の若子の所へ行きますか?」とに問う。
もちろん、と頷くは、台所に向かい幸村のための何度目かの握り飯を握ってやった。

「幸村」

地下牢は獣のかすれた呼吸の音しかいない。
複数いた忍の監視も今や一人。身動き一つしない幸村は、薬の所為か体力温存の為なのか。
僅かに意識が混濁しているものの、未だ正気を保っている。こちらを見上げた濁った瞳の奥にある、小さくも揺れる赤い炎がその証だった。
だが精神は疲弊しきっている。判断力の鈍った胡乱な表情は以前の快活さは欠片もない。

「調子はどう?痛む所はないかしら?」

無論答えはわかっている。
縛り付けられたままの手首はもうほとんど感覚もないだろうし幾許か肉も抉れている。が貫いた足とともに治療を施してはいたが、痛まないわけでもないだろう。

「・・・」

猿轡も相まり声もない。
幸村はなにか答えたようだが聞こえるのはひゅうひゅうとかすれた息が溢れる音だけだった。
は幸村の猿轡を外してやり、水筒から一口水を煽るとまたいつものように幸村のあぐらの上にまたがる。それから幸村の唇に己を押し当てれば、もう大口を開ける体力もないのか幸村は大人しくそれを受け入れた。
喉を滑り落ちた水は余すことなく幸村の体を潤していく。飲みきれなかった水が幸村の口端から零れ、一筋の川を作った。
は着物の袖で幸村の濡れた唇を拭ってやりながら、悲しげに目尻を下げる。伏し目の作る睫毛の影。近衛の持つ燭台の炎が揺れている。

「・・・幸村、今日はあなたに伝えなければならないことがあるの」
「・・・なん、だ」

声はまだ幾分枯れてはいるが、すぐ傍のには問題なく聞こえる。
朽木のような嗄れた声は、なかなかどうして嗜虐心を煽るものだ。だがはそれを制し、苦渋に満ちた声音を作り、搾り出すような口調で言った。

「武田に同盟を蹴られたわ」
「・・・な・・・に・・・」
「今現在天下に最も近いのは織田。しかし彼らは血も涙もない非道な一軍。彼らに天下を渡してしまえば民が健やかに過ごせる明日はない。だからこそ私は武田と上杉に同盟を申し出ました。しかしどちらも自分たちの戦に忙しいと私の話を聞いてはくれなかった・・・。武田には幸村、あなたの身柄交渉もいれて取引の材料にさせてもらったんだけれども、武田も真田も首を縦には降らなかった」
「そん、な」

もちろん嘘八百である。
実際は逆なのだ。武田上杉が対織田に向けて同盟を申し込んできた。だがの方がその話を蹴ってやった。
同盟には伊達も入った連合軍となる。誰が頭になるともわからない軍の傘下に入ることは行動も抑制され武器や物資、兵も流され吸収される。冗談ではない。
は足軽の末端までものものだ。
それにまだ幸村の存在を知られるわけには行かない。三ヶ月敵を欺き続けたものの、ここで同盟に与すれば敵の侵入は容易くなってしまう。真田忍者隊は、織田包囲網を組む最中でも今までずっと幸村の行方を追っているのだから。執念深い部下共だ。
だがはそれよりずっと執念深い。それこそ蛇のように。もしも幸村が奪われるのならば、蟒蛇の如く一飲みにしてやる。

「信玄公は言ったわ。幸村は既に諦めたと。真田には新しい名ばかりの当主が据えられていた。忍たちも家臣たちも、彼に。実質は皆信玄公に仕えていた」
「そん、な、しかし、それがしは、まだ・・・」
「そうね、生きているわ。私だってあなたを殺したいわけなんかじゃないもの。あなたは生きている。そう彼らに説明した。けれども信玄公は信じなかった。信じていたとしても、切り捨てると」

乾いた瞳が目一杯見開かれ、枯れた声がああ、だのうう、だのと哀れな悲鳴を零していた。
涙も出ない絶望か。
いや、予期していたのだ。見捨てられることを。
心の片隅で救出を待ちながら、だか主の願いを幸村は知っていた。
天下を求める戦いは苛烈を極めている。一度立ち止まる間に蹴り落とされる。
だから主君は幸村を見捨てて、突き進むかもしれない。そう、覚悟していたのか。むしろそうして欲しいと願っていた。それこそが正しく、当然のことなのだから。
幸村は信玄の天下の礎になれるなら、死ぬことさえ厭わなかったのだから。
だが、純粋に尽くしてきた分、裏切られた痛みは大きい。
たとえそれが確かめる術のない言葉であったとしても、極限まで疲弊した幸村の心を折るには十二分の威力を持っていた。
見捨てられた。切り捨てられた。
主君と仰いだ男にとって、幸村は一介の将でしかなかったのだ。
分かっていた。覚悟していた。しかしそれはあまりにも強く幸村の心を揺すぶる。

「かわいそうな幸村。あなたの忠節は裏切られてしまった」
「ちが、ちがう・・・」
「本当に?では何故信玄公は私の取引に応じてくれなかったの?」
「ああ、ちがう、ちがう、ちがうのだ・・・」

見捨てられたのではない。
切り捨てられたのではない。
これが主君の決断だ。英断なのだ。
そうわかっているのに、心の臓は引き千切られ踏み躙られ痛みにのたうつ。

「あなたは武田の為に全てを捧げてきたのに。たくさんの人を殺して首級をあげてきたのに。主君の為に槍の腕を磨き、今まで生きてきたのに」
「やめ、やめてくれっ・・・」
「かわいそうな幸村。あなたは信玄公の為に命を賭して戦ってきたのに、信玄公はあなたを必要とはしてくれなかった。利用して、欺いて、切り捨てた」

言葉を押し並べれば幸村は反論する暇もなく、ああと引き攣る呼吸で哀れっぽく息を吸う。大きく見開かれた瞳は今にもこぼれ落ちそうだ。

「あなたの忍も、あなたを探してはいない。天下を取る戦に忙しいのね。主の首が変わっても何とも思わない。今はもう、すっかり武田の忍たち」
「さすけ、さすけっ、おやかた、さま・・・」
「かわいそうな幸村。みんなに見捨てられて、ひとりぼっち」

もう呻き声は出なかった。
幸村は小刻みに体を震わせ、嗚咽を漏らしている。

「家柄も、主君も、部下もいなくなってしまった。見限られて見捨てられ、あなたは裏切られてしまった」

ほとんど水分など残っていない体から涙が溢れる。
思ったよりも静かな泣き方をするその様は美しかった。

「かわいそうな幸村。何もかも失くして一人ぼっち。私なら、あなたを決して見捨てたりなんかしないのに」

腕を伸ばして唇を絡める。
肉が落ちて筋張った体からは汗と垢と埃の匂いがする。
触れた唇は涙の塩辛さが伝った。
痩せこけた頬は生気が欠いて、いじらしく虚ろだ。
幸村は何も言わなかった。
水分の足りない乾いた唇がふやけるまでは丹念に口付ける。
光を失った瞳が告げる感情に、はたまらず微笑んでいた。

「かわいそうなゆきむら」




きれいなかみさまは


わたしが食べてあげる