若虎を地下牢に繋いで半月は過ぎた。 人間の欲望は大きく三つに分けられる。 寝る、食う、まぐわう。その三つだ。 は幸村から食うことを奪った。だが殺す気はないのだ。数日置きに不規則な感覚でぬるい水とわずかばかりの冷や飯を与える。 盛りの青年には侘しすぎる量だ。それに幸村は武家の子である。飢えの苦しみなど知りもしなかった。内蔵が痛むように泣き喚く。食いたい、食いたいと、叫ぶ体力もなく溢れる涎も勿体無い。流石に小便を舐めるわけにも行かずとにかく歯を食いしばって耐えるしかない。 が再び地下牢に足を運んだ時、迎えたのが腹の音の音で幸村は情けなさに思わず自嘲してしまった。 「幸村調子はどう?・・・あら」 幸村の姿勢はあの日からずっと変わってはいない。 両手は高く縛り上げられたまま、固く冷たい石の床に腰を下ろしてあぐらを組んでいる。 今日はそれに猿轡がはめらていたのだが、そんな命令を出した覚えはない。 背後の近衛に問いかけるように視線を飛ばせば、近衛は困ったように肩をすくめて答える。 「忍が一人殺られました。まさか噛み付いて喉を食い破るとは」 「まぁ!幸村ったらそんなことを?ますますをもって虎の子ね。ああ惜しい、見てみたかったわ」 敵意に燃え上がる瞳の炎はまだまだ熱く燃え上がり消える様子はない。 隙あらばの喉元にだって食いついてみせるという気概が伺える。 見え透いた魂胆ではあるが、は嬉しげに笑みを深くした。それから上機嫌に肩を震わせ、はしたなく幸村のあぐらの上に座り込む。 「ここには牙でも生えているのかしら?」 戦女とは思えない、細くたおやかな指先では幸村の顎の輪郭を撫でる。白魚のような整った丸みを持つ指と、境界線を失わせる限りなく同じ温かさの体温。 咄嗟に顔を背けるがもう片方の手を頬に添えてやれば逃げることはできなくなった。 猿轡の所為で吐息は荒く、うまく飲み込めない唾液が伝っての着物に染みを作る。 はさして気に求めず、楽しげに唇に触れ、覗く歯の表面を指先で撫でていた。 「かわいい、幸村」 「ぐっ!?」 それどころかはうっとりとした表情で幸村の口端に口付けた。 舌先で音を立てて涎を舐めとる。広く反響した水音に、幸村は抗議めいた唸り声を上げるがは聞く耳も持たない。 ぴちゃりぴちゃりと羞恥心を掻き立てる音を立て、その音は幸村の鼓膜を狂おしく犯す。 そうしてが幸村から顔を離したのは、すっかり幸村の顔が茹で上がった頃であった。 「かわいい、幸村」 すっかり満足した様子で呟くに、憔悴しきっていた幸村は必死で意識をかき集める。 女と交わったことがないわけではなかったが、もともと女人を苦手とする幸村だ。 しかも捕虜であるこの状況下。混乱は増すばかり。未だ何故自分が捕らわれていっるのか真相もわからないのだ。 本当に将として自分を召し上げたいにしてはあまりに信用が足りない。 幸村は涙で濡れた瞳でを睨みつけ、声になりそこなった音でを非難した。 「そんなに怖い顔しないで。今日は幸村に贈り物があるんだから」 幸村のあぐらの上から降りず、はにこりと笑って手提げ程の荷をほどく。 笹の葉にくるまれていたのはみっつの歪な握り飯。 「私が握ったから不格好だけれども、味はちゃんと女中たちがしたから確かよ?梅と鮭と小松菜と、どれが好しら」 猿轡があって答えられない幸村だ。そもそも毒が仕込んでないとも言い切れない。 疑わしいと寄越される幸村の視線に、は肩を揺らして幸村の猿轡を外した。 「姫様!」 「大丈夫よ。幸村は私を殺しても外へは出られないって分かっているもの」 確に。今ここでを噛み殺したとしても、この状況では次の瞬間一斉に串刺しにされるのが目に見えている。 縛り上げられたままの幸村に勝機はひとつもない。未だ機は熟してはいないのだった。体力も気力も限りなく絞られている。勝算は薄い。 そして眼前のは、少女らしい微笑みを浮かべたままみっつの握り飯を一口ずつ頬張る。 「どれも毒なんてないわ」 そう言われ差し出された握り飯はまだ暖かく、塩と梅の匂いが酷く胃を刺激した。 この半月僅かばかりの冷や飯で過ごした幸村にとって、それはどうしようもない馳走である。 腹では虫の音たちが早く寄越せとばかりにぐうぐうと鳴き、幸村は一向に満たされない飢えと溢れる涎に辛抱ままならず、とうとう大口を開けて握り飯に噛み付き半分ほど頬張った。 その食い付きぶりに、これならば確かに人の喉を食い破るのも造作無いだろうとは一人納得する。 「ふふ。幸村、おいしい?お漬物と水もあるわよ」 女中頭が代々漬ける年代物の漬物と、井戸から汲み上げたばかりの冷たい水。 喉元に運んでやれば幸村はすぐさま乾いた喉を潤すべく水を飲み下す。 喉を滑り落ちる水の冷たさに胃が痙攣した。しかし満ちていく胃の心地は抗いがたい。甘く広がる米の味と、酸味で刺激された口内に涎が溢れた。それを咀嚼するのもそこそこに、幸村は本能のまま飲み下して長く飢えていた胃に餌をやる。 数分もしないうちにの握り飯を食らいつくした幸村は、久方ぶりの満足感に意識をまどろませた。 実際はまだまだ飢えている。武士として不自由のない生活を送ってきた幸村は飢えの苦しみなど知りもしなかった。 しかしこの半月の捕虜としての生活の食事を思えば、十分すぎる量にも思え、それが満腹感に摩り替わっている。 「幸村、美味しかった?」 「・・・うむ」 心ここにあらずといった風な幸村に、の気にせずよかった、と笑った。 「また来る時もおにぎり握ってくるわ。今度はもう少し上手に握れるようになるからね」 そう綻ぶ表情はとてもいま幸村を捕らえている人間とは思えない。 穏やかな表情に幸村は複雑な表情で問いかけた。 「貴殿は某をどうするつもりか。お館様は、武田はどうなっている」 ひとつ瞬く間にの瞳は丸く見開かれ、それから何故か悲しげに瞼を伏せた。 長い黒髪が表情を隠し、の両手は幸村の頬に添えられる。 「あなたは、知らなくてもいいの。知る必要ないわ」 何故、そう問いかけることは許されず、再び幸村の口に猿轡が押し込まれた。 言葉は猿轡に押し戻され、幸村はあえなく声を飲み込む。 「また来るわ、幸村」 悲しげに表情を歪めたまま地下を去るに、幸村は訳も分からず見送ることしかできなかった。 |