幸村が目を覚ました場所は、暗く冷たい場所であった。空気の密度から広い部屋であることを本能的に察知する。 薄暗さから夜かと勘違いしたが、ぼんやりと浮かぶ蝋燭の光がいくつも見え、ここが恐らく牢なのだろうと取り戻した意識でそう認識した幸村。 次に今までの経緯を思い出そうと身じろげば、頭上で重々しい金具の揺れる音がした。 「お目覚めだ。姫様に連絡を」 何者かの声と、両手首を拘束する手枷と鎖。 闇夜に慣れてきた瞳を巡らせるが人影はない。忍か。佐助はどうなったのだろう。戦況は、部隊は、お館様は? 囚われ見わたす辺りに槍はない。幸村は己の不甲斐なさに奥歯を噛み締めれば、太ももの傷口の熱が増した。 それほど時間は経過していないのだろうか。痛みに漏れた声は獣の唸り声のようなものばかりであった。 「まぁ、正しく虎の子ね」 柔く、穏やかな聞き覚えある声に顔を上げる。 片手に燭台を持つのは十四、五の小柄な少女でそれに付き従う痩躯の男。年の頃は佐助と同じか、それよりも上か。 睨みつけるようにふたりを凝視した幸村に向かって、はにっこりと微笑んだ。 「はじめまして幸村。私は家現当主と言います」 「・・・!?何故っ・・・貴様、某をどうするつもりかっ・・・!」 喉の渇きのせいで声は弱々しく枯れていた。 は近衛に小さく言付けし幸村に水差しを運ばせた。 毒が入っている可能性がある。しかし殺すつもりであればもう死んでいるはずだ。 幸村は下手な考えを巡らすのをやめて、大きく口を開けて勇ましく水を受け入れる。 「豪気だな」と近衛が笑う気配を感じつつ、幸村はすぐにへ視線を戻す。 薄闇でも分かる程、はずっと微笑んでいる。 まるで仮面のようなそれに、幸村は漸く相手が主君に辛酸を嘗めさせた人物であることを思い至った。 「あのね、幸村。うちに下る気はない?武田も真田も捨てて、私のものになるつもりはないかしら?私、あなたのことがすごく気に入ったの。領地も石高もたくさんあげる。だからに仕えるひとりになってくれないかしら?」 声音はまるで鞠を強請る幼子のようだった。 明るく弾み、断られるなど微塵も考えていないような口振りだ。 しかし相手は国の主。そして主君と敵対する人物。 その物言いがどこまで本物なのか、幸村にはわからない。 事を疑い、敵を見極めるのは主君信玄の瞳であり、裏付けるのは部下の佐助の手腕であった。 幸村は信玄の槍でしかない。 かの人の御身の為に、戦うことしか知らない愚かな子供だった。 「断る」 怒気を含み、硬質さの増した声で幸村ははっきりとそう言った。 たとえ捕らえられようと、殺されることになったとしても、主君を裏切り乗り換えるなど考えられない。 幸村が主と仰ぐのは後にも先にも一人でいい。 そう告げる瞳に、はどうしようもなく興奮した。 全身を内側から掻き毟られるような、その感覚と一緒に這い上がる熱が酷く気持ちいい。 腹の底から溢れ出そうになる哄笑をなんとか耐え、は大人しく一つだけにこりと笑ってみせた。 「そう、残念」 怒りは沸かない。 こうなることは分かっていたし、簡単に手に入ってしまってもつまらない。 時間はたっぷりとあるのだ。 はくるりと幸村に背を向け、見返り気味に一瞥をくれる。黒髪が燭台に灯された炎と一緒に揺れ、浮き上がる白い肌はまるで人ではないもののようであり、幸村は一瞬息を呑んだ。 「もしも士官したくなったら、いつでも言ってね」 あとは近衛に傷の手当を命じては政務室に戻ってゆく。 武田は真田忍者隊が幸村を捜索しているが、痕跡はほぼ消しているので見つかるまい。 生き証人がいたとしても疑われるのは伊達であり、その伊達は国境で上杉と膠着状態。 北条を落としながら若虎の足取りを失った武田は領内の整備にしばらくは動けはしない。 そしてこの地下牢は幸村の為だけに特別にこしらえたものだ。 並みの忍では突き止められない。 警戒すべきは真田の影だ。 城の警備の強化を勧め、は手負いの虎に思いを馳せる。 ぎらぎらと燃えるような瞳。 あの眼差しに焦がされるのも悪くない。 けれどあの瞳から光を奪い、屈服させるのはもっと気持ちのいいことだろう。 体の軸が熱くなり、は艶かしく濡れた声を漏らして口元を綻ばせた。 「捕まえた。もう逃がしてなんかあげなぁい」 漸く手中に収まった、小さな虎をどうやって可愛がってやろう。 考えるだけで笑みが深くなる。 は優しく蝋燭の火を吹き消し、欲望の夜の眠りに落ちていった。 |