消えてった今日の友は
今日生まれてきた友の辻褄
今日生まれてきた友の辻褄
信玄への報告もそこそこに、佐助は主から与えられた最後の任を全うすべく、冷たい夜の闇を駆けた。
紅蓮の鬼、真田源次郎幸村の死は武田の重要機密とされ、即座に戒厳令が敷かれた。
現在影武者は才蔵が務め、佐助はその任を解かれたのだ。
未来ある若人の死を、信玄はまるで我が子を失ったように嘆いてくれた。
(良い主君に仕えたね、旦那)
安らかと言えど、現世に未練を残した幸村の死に顔。
こんな所で、死ぬべき男ではなかった。
すべては自分の所為だと佐助は己を詰る。
自分がもっと早く駆けつければ、もっと早く敵を倒していれば、もっと早く陣形の歪さに気づいていれば。もっと真剣に、主の行く手を阻んでいれば、
しかし結局はたらればでしかない。
幸村はもう帰らない。
佐助の主は死んでしまった。
最後の任をとのたまう唇が呟いた、あの言葉に佐助は奥歯を噛み締める。
―お前は、生きて、を、守れ―
主に置いて逝かれて生き長らえる忍は恥さらしでしかない。
幸村は忍の道理も知らないのだ。
なんて酷い主様!
忍の教示も誇りも願いも生き様も、みんな無視して叩き折ってひとりで逝ってしまった!
後を追うことも、仇を取ることさえ許されない。
佐助はこれから、主の願い通り、ただひとりの女を守り続けるのしかないのだ。
ぽつぽつと、冷えた夜に雨が降る。
月明かりも消してしまうどす黒い曇天が空一面を覆い、世界から一切の光を奪った。
忍ぶには好い夜だ。
できすぎていると佐助は唇を歪める。
強くなる雨。
佐助は疾く疾くと矢のような速さで空を天駆けた。
そうして佐助が上田城に到着した頃には、豪雨の傍に雷まで鳴り出している。
怯え静まり返ったような城に、佐助はまるで自分が誰かの暗殺に出向いたような気がした。
「あんたがいなけりゃこの城はこんなに静かだ」
佐助の独り言は雨が飲み込み地面に溶ける。
庭先に降り立った佐助の前に、すぐに警備の忍が現れた。
「長、お早いご帰還で。・・・お怪我でも?」
「いや、ちょいと野暮用で先に帰ったまでだ。奥方様に用件がね」
「どういったご用件でしょう?」
「下っ端には関係ない。手拭いをもってきてくれ。こんなずぶ濡れじゃお目通り叶わないからね」
「お待ち下さい長!姫様は現在お休みであらせられます!」
佐助の腕を引いて歩みを止めようとする忍に佐助は苛々と舌を打った。
だからどうしたと鋭い視線を投げ掛ければ、気付いた忍は微かに肩を震わせる。
怯え、だろうか。忍が持ってはいけない感情だ。忍は道具だ。忍は物言う凶器。感情などは必要ない。それなのに、雨が、止まない。
「姫様は」
刹那、まるで砲撃のような怒号が空を割る。
紫雷の光が夜を退け、一瞬の光が佐助たちを包み込んだ。
「いま、なんて、?」
忍は読唇術を心得る。
佐助は問いの、答えを知っていた。
それなのに、佐助は思わずして問い返した。
雨粒が肌を撫で、ひやりとした冷たさが蛇のように背筋を這う。
佐助は忍を残し、風のように姿を掻き消しの元へと急いだ。
長!と焦る忍の声。佐助は答えを返す余裕などなかった。
足音さえ消さずに佐助はの部屋に向か最中、雨音と風と雷が一斉に佐助の耳から滑り込んで脳を揺らす。
ぜいぜいと切れる息に、舌の根さえ乾くほどだった。
「ちゃん、ちゃん」
まるで幼い日々のように佐助はの部屋の戸を叩いた。
深夜だ。起きないかもしれない。
しかしすぐに襖の向こうから、さすけ?と眠たげな声が帰ってきた。
「さすけ?帰ったの?戦は」
「武田の大勝利だよ。俺様は先に帰還したんだ」
「勝ったのね!あぁよかった」
ほぅ、とついた吐息が佐助を貫く。は知らない。なにも知らない。
「大将も大した怪我はないし、すぐにこちらに向かうって」
「そう、わざわざありがとう佐助」
幸村の事を尋ねない。信じて疑わないのだ。幸村の無事を。
佐助は膝をついた廊下の真ん中で、ぎゅうと有らん限りの力で拳を握る。
心臓は早鐘を打ち、雷にも勝るけたたましさで佐助の脳を揺らした。
言わなければ、ならない。
主が残した、最後の任を。
全うしなくればならない。
すっかり乾いてしまった唇を舌で湿らす。
無駄だ、舌もすっかり乾いていた。仕方なしに雨水を掬う。あぁ、なんて塩辛い雨だろう。
「ちゃん、あのね、旦那から言伝てを預かってるんだ」
「そうなの?あ、ねぇ佐助。襖を開けてもいい?雨でよく聞こえないの」
尋ねるの穏やかな声に佐助ははっと声を荒げた。
「駄目だ!」
「佐助?」
「ほら、風が強いから、ちゃんも濡れちゃうからさ、このまま」
「そう?でも佐助が風邪をひくわ。部屋に入ってきて」
「よしとくよ、随分濡れちまったから」
そうしてひとつ空白が満ちる。
は佐助の言葉を待っているのだ。
佐助は肺を震わせ、湿る空気を胸に孕んだ。
「愛してる」
雨がざわつき、風が音を掻き消し邪魔をする。それでも佐助は言葉を続けた。続けねばならなかった。
「愛している。後にも先にも、愛したのはだけだ。何よりもお前が愛しかった。お前の側に居たかった。不甲斐ない俺を許してくれ。、願わくば、再び、またお前と出会えるように願おう。たとえ生まれ変わろうとも、、お前を愛している」
「さすけ?」
「俺は先に逝く。お前はどうか、生きて、幸せに」
言葉の終わりにと共に襖が勢いよく開かれた。
雨と風が一気に吹き付け、の寝着の裾を勢いよく濡らす。
佐助はうやうやしく頭を下げており、の表情は見えなかった。
「さすけ、ゆきむらは、どこ?」
「ちゃん風邪引くよ」
「ゆきむらは?」
「ちゃんぬれちゃう」
「幸村はどこ!?」
弾けるの怒号は雷が落ちたように世界を揺らす錯覚さえ与える。
が佐助に掴み掛かったその時、の部屋から絹を裂く泣き声が響いた。
「やや、男の子だってね」
「幸村は、」
「おめでとう。あの子が真田を継ぐんだよ」
「ねぇ、さすけ」
「ちゃん」
「幸村はどこなの」
くしゃりと歪んだ目尻を濡らす大粒の涙。
佐助はそれを拭う腕を持たない。
その役目は、幸村のものだ。
第一、今の自分はこんなにも汚れている。
雨さえ洗い流せなかった主の血。
「旦那、死んじゃった」
雷が遠くで鳴っている。
まるで自身の勝利に酔うよう。
が力を無くしてへたり込む。吹き付ける雨風が肌を刺した。
それなのに何故だろう。
何故雨がこんなに熱いのか。
「旦那、死んじゃったんだ」
それだけでまた明日も
笑えるような気がしちゃった
笑えるような気がしちゃった