政宗へ、
あなたがこれを読んでいる時、私はもうその部屋に居ないと思います。ただひとつわかることは、またあなたがお酒を飲んで帰ってきているという事。冷蔵庫にいつものレモン水が入っています。気分が悪いなら飲んでおいてね。いつまでも若い訳じゃないんだから、体は大事にしてください。お酒と煙草、やめろとは言わないから控え目にね。
さて、突然の手紙を、あなたはもしかしたら気味悪がったりしていると思いますが、安心してください。別に呪いの手紙みたいな怪しいものじゃなくて、ただの書き置きですから。
先にも言いましたが、あなたがこの手紙を読んでいる時、私はもうその部屋にはいないでしょう。きっと、もうその部屋に帰ることも無いと思います。
突然の事にあなたが呆れているのか、驚いているのか私にはわかりません。私はそこにいないから当たり前なんだけど、それが少し、寂しいです。
あなたは別に私が居なくても、ご飯も掃除もなんでも出来るので特に心配はしていませんが、女性関係だけは整理をつけた方がいいですよ。夜道で後ろから刺されたりして死んだら、情けなさ過ぎて小十郎さんが可哀想だからね。
そろそろ、あなたは一体この手紙は何だろうと怪しみ始めた頃だと思います。
生憎私は、筆不精なので大した言葉を書けません。だから、簡潔に書くことにしますね。

今までありがとう。
政宗と過ごした日々は、毎日が宝石の様にきらきらと輝いていました。
とても満たされていました。
私はあなたになにもしてあげられなかったと思います。せめてものお詫びに、レモン水のレシピを残しておきますね。
どうせあなたは、私の忠告も聞かないでお酒を飲むと思うから、丁度いいでしょう?
政宗、今まで本当にありがとう。
あなたがいつまでも幸せであれるように祈っています。
さようなら、

さつき


ぺらり、と音を立てて紙を捲れば宣言通りレモン水のレシピが書かれていた。
一旦手紙をテーブルに戻し、焼けつく胃と喉の為に冷蔵庫からレモン水を取り出しコップに注ぐ。さつきのレシピ通りに作られた、彼女の作品だ。
なみなみ注いで、一気に飲み干した後は倒れ込むようにソファに身を沈めた。
耐え難い眠気が二日酔いと手を組んで酷い頭痛を寄越してくる。
空は憎いくらいの晴天で日光が瞼を刺す。苛立ち紛れに手近な本を投げてブラインドを下ろせば漸く政宗は再び視界を開くことが出来た。

「おい、さつき。マジでいねぇのか?」

我が家の中はがらんとしていて、政宗の声だけが奇妙に響く。返事がないのでどうやら本当に出ていったようだ。封筒に同封された鍵。まさしく論より証拠。
出ていった、と言っても同棲していた訳ではない。半同棲をして政宗が殆ど勝手に住まわせていた気がする。
さて、と言った風体で政宗は自分の顎を撫でながらもう一度手紙に目を向けた。
家出ならば原因はなんだろう?
酒はいつものことだし、ギャンブルで借金を作った覚えはない。金に不自由はさせなかったし、いつも適度に抱いてやっていたはずだと思いを巡らし、政宗は手紙の一文に目をつけた。

女性関係だけは整理をつけた方がいいよ。

どうやらさつきは政宗の浮気に気づいて出ていったらしい。
政宗はいつ見られたのかと重たい頭を横に傾げた。
政宗が知る限りさつきは政宗の携帯を覗こうとはしなかった。他の女にも見習わせてやりたい位だ。どの女も自分が政宗の女だと信じて憚らず、勝手に携帯を覗いたりすものだから、まったく頂けない。
閑話休題、さて、見つかったのは誰か。
明美、可奈、早織、多恵、夏紀、駄目だ、キリがない。

政宗は盛大な欠伸を上げて脱力したままソファの上で微睡み始める。流石に酒とセックスに明け暮れて寝不足の頭で考え事など出来るはずがない。
手紙は封筒に戻さずそのままテーブルの上に置いた。
汗をかいたグラスの水溜まりに少し触れて、レモン水のレシピが一部滲んでしまったが政宗はたいして気にはしない。
緩慢な視線でそれを見届けながら、また今度聞くか作らせればいいとひとりごちる。そこまで考えて後の泥のように眠りについた。頭も体も疲れていた。強い酒の余韻と昨晩抱いた女の香りに抱かれながら、政宗は数回の呼吸の後に容易く眠りに落ちた。


***


「政宗はいつも勝手じゃん。あたし怒ってるんだけど?」
「悪かったってんだろ?機嫌直せよhoney。プラダでもシャネルでも買ってやるから」
「本当!?政宗大好き!」
「俺も愛してるぜ、さつき」

腰に響く甘い声で囁いてしまえば政宗の勝ちだ。勝利を確信した政宗は紫煙を噴かしながらグラスに手を伸ばそうとする。だが残念ながら横から伸びた腕が政宗より先にグラスを浚っていってしまった。

「おい」
「ちょっと、さつきって誰よ?」
「あ?」

濃い化粧、派手な頭、露出の多い服に肉感的な体。
華奢で大人しいさつきとは正反対だ。
政宗は一瞬思考を白く染め、確かに自分はさつきと言った事に驚いた。

「誰なのよ!?」

突如ヒステリーに陥る女を宥めようと口を開きかけた政宗は、相手の名前が思い出せないこと舌打ちした。そうなれば後は苛立ちが募るのみ。きんきんと甲高い声に政宗はとうとう耐えかねて煩いと女を一蹴した。

「あたしの他に女がいるのね!?浮気してんの!?」
「遊びはてめぇだよ。ったく、飽きちまったぜ。もういい、失せな」

瞬間、わなわなと怒りに震える女が右手に持っていたグラスの中身を政宗にぶちまける。
正面に位置する政宗が避けられるはずもなく、度数のキツいアルコールを頭から浴びる破目になってしまった。くわえていた煙草は音を立てて消火される。

「最低!死ね!!」
「てめぇが死ねよ」

怒り滲む10センチヒールが派手な音を立てて去っていった。
政宗は心底馴染みの店で良かったと内心安堵する。
もしも人目につくような店であったなら、お目付け役の小十郎に何を言われるかわかったものではなかったからだ。

「派手にやったねぇ」
「うるせぇな、さっさとタオル寄越せ」
「はいはい」

馴染みのボーイの慶次が一度奥に引っ込むと、清潔なタオルを持って再び現れた。

「火遊びも大概にしないと捨てられちゃうぜ?」
「はぁ?誰が、誰に?」
「さつきちゃんて子。彼女さんだろ?」

甘い話が好物の慶次はカウンターに肘をついてにたにたと笑う。
虫の居所の悪い政宗は思いっきり慶次を睨み付けた。

「彼女じゃねぇ」
「じゃあなんだい?」
「さぁな」

新しい煙草に火をつけた政宗はそれ以上の質問は許さない様子で酒をもう一杯注文する。
しかしそんなことに挫ける慶次ではなく、酒を運んだついでに政宗の正面に陣取った。

「・・・おい」
「いいじゃんかさぁ。今暇なんだよ」

不機嫌な政宗に笑って見せた慶次は不謹慎な理由を述べて離れる気はなさそうだ。
やれやれとすぐに諦めた政宗は酒で唇を湿らせた。

「女の子の名前間違えるなんて、政宗らしくないね。今月に入って何回目だい?」
「煩ぇ」

実際4回目だった。
残念なことにキープが4人いなくなった。
政宗は暗澹たる気持ちで喉に酒を滑らせる。
度のキツいアルコールが胃と喉を焼いたが、慣れた感触が逆に心地よかった。

「あんたさぁ、さつきちゃんて子が大事なんじゃないの?だから間違えるんじゃないかい?」
「大事じゃねぇよ、あんな女」
「喧嘩かい?」
「勝手に出ていってケータイは出ねぇしアパートも引き払ってやがった。挨拶は手紙一枚。嫌味な位だ古風な女だと思わねぇ?印象が強かっただけだ。どこにでもいる女だ」

二酸化炭素と紫煙を混ぜて顔面めがけて吹けば、慶次は予想に違わず盛大に咳き込んで涙目になる。
小気味良く肩を揺らせば、最後の咳を溢した慶次が存外真面目な顔つきで政宗を見つめ返した。

「心配じゃないのかい?不安じゃないのかい?そうじゃないならどうして名前を間違えるんだよ」
「チッ、るせぇな」

「なぁ政宗、ちゃんと考えなって」
「興冷めだ。帰る」
「政宗!」

万札をテーブルに置いて政宗は颯爽と立ち去る。後ろから聞こえる慶次の呼び声も無視して闊歩すれば「なくしてからじゃ遅いんだぞ!」と大声を背中に叩きつけられた。
振り向く事さえ面倒に感じた政宗は、右手を緩慢に振り上げ店を出た。


***


「おかえりなさい、政宗」

柔らかい声に瞼をしばたかせた。
暗い部屋の電気をつけるが誰も居ない。居るはずか無い。合鍵はふたつとも政宗が持っているからだ。

「おいおい・・・幻聴かよ」

たしかに今日も飲んだがそれ程の量ではなかったはずだ。
思わず頭を抱えてしまい、ガンガンと内側から響く痛みに閉口した。
ひとつ嘆息して冷蔵庫を開く。
しかしもうさつきのレモン水は底をついてしまった。
作ろうにも滲んだレシピは読めないし、本人のさつきには連絡がつかない。
解決出来ない苛立ちに苛まれながら市販の飲料水を飲む。相変わらずの不味さに、水もそこそこ政宗はソファに沈んだ。
さつきが居なくなって程なくして1ヶ月だ。
片手で携帯電話を持ち上げ、リダイアル画面を開いてみる。
最後に電話したのは今日の夕方だ。
どうせ出ないと判っていながら、政宗は通話ボタンを押す。
数秒のコールが続いても、電話がとられることはない。
せめと留守番電話になればいいのだが、政宗の願いが叶った日はなかった。

「ったく、なんなんだよ・・・」

返事が帰って来ない携帯電話をテーブルに置き、政宗はぶつぶつと文句を溢しながらふと壁の時計が無くなっていることに気付いた。
黒とシルバーのシックな壁掛け時計はさつきと一緒に買ったものだった。
瞬間、ひやりと背筋を駆け抜けた寒気に立ち上がる。足がぶつかった机から携帯電話が滑り落ちた。
携帯電話のストラップ、そこにあったはずの青い竜の小さな根付もない。買ったのはやはりさつきと一緒に居た時だ。
部屋を見回し政宗は浅い呼吸を繰り返す。
小さな花の置き鏡、窓辺のサボテン、犬の形のティッシュカバー、甘い香りのアロマキャンドル、冷蔵庫の動物磁石、深い色のクッション、二人の写真を納めていたガラスの写真立て。

「ない・・・」

さつきが買ったもの、自分が買ったもの。
この部屋にはいる事を許されたのは、許したのはさつきだけだった。だからこの部屋にあったはずのあらゆるものは、さつきと政宗のものだった。

さよなら、

そう書かれた最後の一文が、政宗の耳の奥で鳴り響いた。