さよなら、
最後の一文の後に名前を書いた。決別の意味を込めて合鍵を同封する。
少ない荷物を持って玄関に立ち、最後の供に壁掛け時計を手に取った。
はじめの携帯電話のストラップの青い竜の根付は随分前に政宗が眠っている間にこっそり外した。しかし翌朝気づくことはなかった。
なんとなく予感していたのに、さつきは酷く悲しかったことをまだ覚えている。
それから日に一つずつ、政宗との部屋から政宗との思い出の品を抜き取り始めた。
小さな花の置き鏡、窓辺のサボテン、犬の形のティッシュカバー、甘い香りのアロマキャンドル、冷蔵庫の動物磁石、深い色のクッション、二人の写真を納めていたガラスの写真立て。
政宗はいつも気がつかなかった。
さつきは気付いて欲しかった。
いつも酒と女の香りを匂わせて帰ってくる政宗に耐えられる筈がないことを。

「最初は、本当に私だけを好きでいてくれたのに・・・」

優しく笑う政宗の笑みが脳裏に焼き付いて離れない。
この部屋に入ることを許されたのは、さつきが知る限りば政宗と小十郎とさつきだけだ。
しかしいつからか、政宗は女の香りを連れて帰って来るようになっていた。
部屋に入れた形跡はなくても、政宗が誰がの部屋に入ったのは明白。
さつきは一体いくつの夜を泣いて過ごしただろう。
愛していたから許したかった。気付かないふりをしたかった。
それでも、限界は簡単に訪れる。
駅の側の小さなカフェ、朗らかに身を寄せ会う一組の男女。
もしもこの時、一緒にいた女性がとても派手で、美しく、背も高くスタイルも良い自分と対極の存在であればさつきはまだ自分を支えられた。
しかし、隣に居たのは?
大人しそうな女性。どちらかといえば、雰囲気は自分と近い。
次の瞬間、ふたりは唇を重ね、柔らかく微笑みあっていた。
その日、さつきは自分がどうやって家に帰ったかは覚えていない。


***


「さつきさん、」
「政宗には、内緒にしてください」

躊躇う小十郎に釘を差し、さつきは控えめに笑って見せた。
新しい部屋は駅三つ分向こう。
多少生活はしにくくなったが、その分学校が近くなった。家賃も前と変わらない。いい物件であった。

「しかし、」
「政宗は、私が居なくても平気です。今日まで一度も連絡をくれませんでした」

その言葉に小十郎は閉口し、そうして苦しそうに眉を寄せてつつ謝罪を述べる。

「小十郎さんが悪い訳じゃないんですから」

思わず漏れた苦笑に小十郎は益々眉を八の字に変える。
本当に優しい人だと思えば、勝手に政宗の優しさを思い出そうとする頭には驚いた。

「今日は友人が引越し祝いに集まってくれるんです。だから、もう大丈夫ですから」
「・・・なにか、あった時は連絡を下さい」

名刺の裏に書かれたアドレス。
政宗がさつきにアドレスを渡した時も、似た手法だった。

「さつきさん?」
「あ、ごめんなさい。ありがとうございます小十郎さん」

他意はない純粋な心配。
本当は政宗に心配して欲しい。
自分から飛び出したくせに、酷い願望だとさつきは口許歪める。
別れの挨拶もそこそこで、走り去る黒塗りの外車を見送る。
新居に戻ったさつきは、最後の段ボールにガムテープを張り付けた。
小さな花の置き鏡、窓辺のサボテン、犬の形のティッシュカバー、甘い香りのアロマキャンドル、冷蔵庫の動物磁石、深い色のクッション、二人の写真を納めていたガラスの写真立て。そして、黒とシルバーのシックな壁掛け時計と青い竜の小さな根付。
燃えないごみの日に、別れを告げるためさつきはその段ボールを部屋の奥にと押しやった。


***


ふと深夜、鳴り止まない携帯電話の音にさつきは瞳を開いた。
寝惚け眼で腕を伸ばす。ディスプレイには政宗、と名前が映されていた。
通話を切ることは容易い。そのはずなのに親指が動かない。
いつまでも響く呼び出し音に、さつきは思わず布団を被り直して携帯電話を視野から弾き出した。

「なんで今更っ・・・」

さつきが政宗の傍を飛び出して、ゆうに一ヶ月は過ぎている。
それなのに、今さらだ。
今まで連絡ひとつ寄越さなかったくせに。
さつきは必死に目を瞑り、携帯電話の音を頭から掻き消そうと躍起になった。

翌日、いつの間にか寝入っていたさつきはぼんやりとした頭で携帯電話をチェックする。
着信はひとつだけ。
非常識な時間帯だった事を思い出せば腹がたつ。
文句のひとつでも言ってやろうとリダイアルに親指をのせる。が、結局押さずに携帯電話を閉じた。
もう、他人なのだ。


***


あの深夜の電話から一週間程、毎日不定期に掛かってくる電話に嫌気がさしてきた。
段々と置かれる間の感覚が短くなってきたそれははっきり言って迷惑意外のなんでもない。 一度とってしまえばいい事なのに、さつきは一度も通話を押せたことはない。

まだ愛している。
でも、もう偽りの愛は嫌だ。
他のその他大勢に成り下がるが嫌だった。
だからいっそ、離れようと思った。
きっと声を聞いてしまえば、さつきは泣いてしまうと自分を嘲笑った。

再び電話が鳴る。
可愛いげの無い初期設定の電気音が無機質に鳴り響く。
震える携帯電話を横目に、さつきは目を伏せた。

声が聞きたい。聞きたくない。

深い吐息を吐き出せば、まるで二酸化炭素に溺れたように体が重くなる。
漸く鳴りやんだ携帯電話に流し目を送り、さつきはつまらない社会ニュースに視線を戻した。
とろとろとやって来る眠気があるのに何故だか眠りたくない。どうしてだろうと考えるさつきの思考を邪魔するように、当然玄関のチャイムが鳴った。

「はーい、」

誰だろう?かすがだろうか。ふと大学のノートを貸して欲しいと頼んだのを思い出す。
明日学校で渡してくれればいいのに、とさつきの玄関の鍵を開いてドアを開けた。

「かすが?」
「No.俺だ」

瞬間、眠気は吹き飛び思考は乱れ、反射で逃げるようにドアを閉めるが進路が絶たれる前にドアの隙間に政宗の足が滑り込む。

「逃げるな」

有無を言わせない政宗の声は懐かしい響きを孕んでいて、さつきはやはり予想通りに涙腺を緩ませた。

「帰って」
「さつき」
「帰ってよ・・・」
「話を聞いてくれ」
「話すことなんて無いっ」
「さつき」
「お願い帰ってっ!」

人気の無いマンションの廊下にさつきの痛切な声が大きく響く。
政宗はもう一度さつきの名前を呼んで、ドアの隙間から腕を伸ばしてドアノブを握るさつきの手に触れた。

「逃げないでくれ」

声に引き上げられ政宗の瞳を覗き込む。
憔悴した瞳。少し、痩せていた気がした。
緩んだ力を見逃さない政宗はそのままドアを開いて上がり込む。後ろ手でドアを閉じた後は、無言の瞳でさつきを見下ろす。
なにか、言わなければと言葉を探すさつきだが、結局なにを言えばいいかわからず閉口した。

「さつき」

先に沈黙を破ったのは政宗でさつきは訳もなく身構えた。心を硬くしなければ、流されてしまう自信がある。

「俺は、お前じゃねぇとダメだ」

そう言ってジーンズから取り出された紙。
あの日、さつきが残したレモン水のレシピ。文字は滲んで読めない。

「お前以外は、いらねぇ」
「・・・嘘、ばっかり」

言い返せば政宗の瞳が揺れる。弱りきった心。さつきと同じだった。すがりたい。終わらせたい。喧しくなる思考はさつきの涙腺を執拗に刺激した。

「愛してる」
「嘘」
「嘘じゃねぇ」
「嫌いよ」
「さつき」
「政宗なんかもう嫌いだもん」

溢れそうな涙を止めるためにきつく瞼を閉じた。瞬間、暗闇の向こうで政宗が笑う気配が届く。
「You are a liar.」

伸ばされた腕がさつきの頬に触れて涙をぬぐう。抵抗も出来ない心が勝手に腕を伸ばす。優しい胸、広い背中。気づけば両腕を背中まで回して、さつきは政宗に抱きついていた。

「小さな花の置き鏡、窓辺のサボテン、犬の形のティッシュカバー、甘い香りのアロマキャンドル、冷蔵庫の動物磁石、深い色のクッション、二人の写真を入れたガラスの写真立て・・・。それから黒とシルバーの壁掛け時計」

ひとつづつ、読み上げる政宗の声に迷いはない。

「嫌いなら捨てるだろ、バカ」
「捨てられないのよ、ばか」

ついに溢れた涙が政宗のシャツを濡らす。ぐずぐずとみっともなく鼻まで鳴らして泣き出したさつきを、政宗も強く抱き返して囁いていた。

「まだ嫌いきれないなら、俺も捨てないでくれよ、My honey.」

いつもの不遜な態度とは程遠い弱い声音。
さつきは声になら無い音をくぐもらせ、政宗との思い出の品々に囲まれながら、頷く代わりに回した腕に力を込めた。
胸いっばい吐息を吸い込めば、もう政宗からはアルコールと女物の香水の匂いはしなかった。


***


穏やかな朝、差し込む朝日。
静かに流れるお気に入りの音楽と天気予報士の声。
トーストにはジャムとバターをお好みで。スクランブルエッグと夏野菜のサラダ。グラスにレモン水を注げば二人分の朝食の完成だ。

「政宗、朝だよ」

軽く肩を揺すれば、政宗は子供の様に布団をかぶり直す。くすくす喉を鳴らしながら髪をかき混ぜれば、漸く政宗が目を開けた。

「おはよう、政宗」
「Goodmorning、さつき」

起き抜けの癖に流暢な発音の挨拶。さつきは政宗の髪をもう一度指通し、ご飯だよ、と笑った。

洗面所で顔を洗いやっと目覚めた政宗はテーブルでもう一度さつきに朝の挨拶を繰り返して席につく。懐かしのレモン水に鼻を鳴らし、満足げに甘く微笑んだ。

「さつき、」
「なに?」

手を会わせる前に政宗がさつきを呼ぶ。腕を出すよう言われ、差し出されたものは政宗の青い携帯電話だった。

「中身消した。確認したらあの竜、付けてくれよ」
「政宗、」
「もう二度と過ちを繰り返さない。あの竜の根付けに誓う」

すべらかな携帯電話の表面をなぞりながら、さつきはうん、と小さく頷いた。自分の携帯電話に付けていた竜を取り外す。全てのデータが消えた政宗の携帯電話にさつきのデータを打ち込み、そうして最後に、竜のストラップを通した。

「さつき」
「うん?」
「ずっと、一緒にいてくれ」

鮮やかな朝を彩る政宗の声と、机に顔を出した小さな小箱。
政宗は答えは聞かずにレモン水で喉を湿らせ、携帯電話を受け取ったその手でシンプルな黒い小箱を押し出した。

「ばか」

中身は見なくたってわかる。
思わず涙ぐむさつきに政宗は緩く微笑み、レモン水のレシピも机に乗せた。

「一生お前が作ってくれよ」


綺麗にはにかむ政宗の言葉に、とうとう溢れた涙が頬を濡らす。
政宗の指先によって開かれた小箱。現れる美しい白銀の煌めきが涙の光を吸ってさらに強く輝いていた。






蒼く満ちる