わたしは、しあわせだったのに、わたしのしあわせを、おにがうばってしまった。















鬼は三日と上げず私の体を抱いた。
酷く乱暴に抱く時もあれば、壊れものを抱くように優しく抱くこともあった。
鬼は気まぐれに中国の話をし、帰りたいと懇願する私を嘲笑った。

私は生まれも育ちも中国であり、安芸の主毛利元就様の妻。
たとえいくら身体を穢されようと、私がお慕いするのは元就様ただお一人。

「あいつはお前を見捨てたのさ」

幾ら鬼がそう嗤おうとも、私は元就様を信じている。
だって、元就様はいつも私にお優しく、そして大切にしてくださったから。
と、そう私の名を呼ぶ元就様のお声の記憶がある限り、私は鬼などには屈しはしない。

***

「今日はちょいと遊んでみるかい?」

そう笑った鬼の手には美しい銀の細工の鍵がある。
私をこの場所に縛る忌まわしい足枷の鍵だ。
鬼の口端を釣りあげた笑みは酷く下賤で、おぞましい。
逃げようとする私の足を掴み上げ、鬼は足枷の錠前に鍵を刺す。

「何を・・・」
「鬼事しようぜ。あんたは子で俺が鬼。捕まえたら喰っちまう。上手く逃げ切れたなら、あんたを中国に帰してやるぜ?」
「鬼の言葉は嘘ばかり。誠の約束ではないのでしょう」

そうやって、希望をちらつかせて私を奈落へ突き落とそうという鬼の魂胆など容易く読める。
逃げられる筈がない。
ここは海に浮かぶ離島。逃れられぬ鬼の牢獄。

「こいつを見な」
「!!」

差し出された文には懐かしい香の香りがした。

「元就様っ・・・!!」

差出人も、花押も見ずともわかる。
美しく流れる墨の筆遣いは、この世でたったお一人のもの。

「今港には毛利の水軍が来てやがる。うまく逃げられれば、あんたは中国に帰れるのさ」
「・・・二言はありませんね。鬼よ」
「はは!そうと決まりゃあさっそく始めるか!俺が百、いや二百数える間にあんたは逃げな。数え終えたら俺は追う。覚悟はいいな?」
「当り前よ。私が逃げおおせた暁には、お前をこの世で最も惨たらしい方法で殺してやる」
「相変わらず気が強ぇえな、は。ま、そういう所が可愛らしいってもんだ」

頬に手を滑らせ口付けようとする鬼の頬を叩きはらう。
ぱん、と響いた高い音に、鬼は楽しそうに舌なめずりをした。

「いい女だ。上手く逃げろよ?・・・」
「冥途への念仏とを唱えておくといい!鬼め・・・!!」

そして私はなけなしの肌襦袢を抱き寄せ逃げ出した。
鬼に捕らわれ、初めの頃は豪奢で煌びやかな着物を与えられたが、鬼はいつからか脱がすのが面倒だと私に着物を与えるのをやめた。
美しい簪、豪華な酒、南蛮菓子に数多の香。それと、残されたのは肌襦袢のみ。
毎夜続いた耐えがたい屈辱も、凌辱も、これで終わる。

「元就様っ・・・!!」

私が愛したのはあの御方だけ。
たとて、どれ程この身を貶められようとも、私の心のすべては元就様の心臓にお預けしている。
だから私は耐えられた。
あの御方があるからこそ私は生きている。
自害せず、再びあの御方の相まみえる希望が私を生かす。
元就様に会える。
今再び、あの御方のお傍にいられる。
私の頭はそればかりで、逸る気持ちが私の体を軽くさせた。
何日も何日も、抱かれ犯され縛られ痛めつけられ、自由を奪われ続けた体の重みが嘘のようだった。

途端、背後で壁や柱が壊れる音が聞こえた。

〜!!ここまで逃げたかー!?」
「ひっ・・・!!」

もう一度捕まれば、もう二度と日の目は拝めまい。
地の利は向こうにある。まともに逃げても追いつかれるはずだ。
私は仕方なく手近な部屋に駆け込み屏風の後ろに身を隠した。
膝を抱き、身体を丸め、息を殺し、目を閉じて神に祈る。

「元就様・・・!日輪よっ・・・鬼から私をお隠しくださいっ・・・!」

出来うる限り息を殺し、震えを止めようと歯を食いしばる。
乱暴な手つきで襖が開かれた音がする。
暗闇の瞼の奥で差し込む光に肝が冷えた。

「っち、ずいぶん遠くまで逃げやがったな・・・」

そのまま鬼の足音はどすどすと遠のいていく。
足音が完全に聞こえなくなるまで、私は自分が息を止めている事に気がついた。
酸欠で眩暈がする。吐きだした吐息は、細く長く、どこまでも徹底して気配を消す様に務める。
震えす指で畳を這いずり、無人の廊下に出る。
心臓が引っ切り無しに騒ぐので、呼吸が落ちつくまで随分かかった。
そうだ。速さを競う必要はない。
私は鬼に見つからないように毛利水軍まで逃げ伸びればいいのだ。

「莫迦な鬼め」

先を行く鬼はあちらこちらを破壊している様子だ。
物音に気をつけて進めばはちあうことはない。
私の勝ちだ。
私はそろりと足音を殺して廊下を統べる様に走り出した。

城内の作りはわからないが、大きく違う筈がない。
ともかく外へ。外へ。潮の香りのする方へ。
人気のないからくり製造所の隅を壁伝いに逃げる。
いつもはうるさい位に響く長曾我部の兵たちの姿はなかった。
鬼も遊びとはいえ無粋と思ってのことだろう。
愚かなことだ、その慢心が私を籠から解き放つというのに。
そうする間に波のさざ波の音が聞こえる。

「海・・・!」

浜辺か港か。ともかく毛利水軍が見えるはずだ。
私はしばらく呼吸を落ちつけながら、一文字三つ星の毛利紋を探すために駆けだした。
懐かしい日差しに目が眩んだ。
その光と肌を撫でる風。潮の香り、そして、若葉色の戦装束。

「元、なり・・・様ぁ・・・!」

あ、ああ、ああ。
眼頭が熱い。視界が滲む。
あの立ち姿、あの戦装束、決して見紛う筈がない。
私の、すべて。
私が愛したたった一人の御方。

「元就様っ・・・!!」

腕を伸ばし、指先が触れた。
待ちわびたこの瞬間を、一体何度夢見たことか。
振り向いて、私の名を呼んで、抱きしめてください、元就様。

「もとなり・・・さま・・・?」

そのお身体は前のめりに倒れ、海辺の砂浜に元就様の美しい御髪が散らばった。
私はなんとか元就様のお身体を支えようとするが、走り疲れた足が震えてその場に膝をつく。
抱きしめた元就様のそのお体は、胴と、首が、分かたれていた。

「え?」

血は、一向に流れない。
これは、精巧につくられた人形か。
顔を、見なければ。
腕を伸ばせば、座り込む私を覆う影が出来上がった。

「逃げねえのか?」

それは、鬼の声。
見上げた鬼の表情は逆光で見えない。
ただつり上がった口元の、私の肌に何度も牙を立てた八重歯だけは良く見えた。

「惜しかったなぁ、

そう囁いた鬼が人形の首を拾い上げる。
美しい、陶器の様な、それでいて死人の様な、血の気のない肌の色。
静かに閉ざされたままの瞼と、口端から流れる一筋の血。

「もとなりさま・・・?」

それは人形ではない。
それは人でもはない。
すでに生きてはいない。
首を討たれた、私の心臓。

「普通の鬼事かと思ったか?馬鹿だなぁ・・・さっさと逃げてりゃ、毛利も死なずに済んだのにな」
「か・・・え・・・して・・・元就様・・・かえしてぇ・・・っ」

この方が死んだなど。嘘だ。きっと影武者であらせられるのだから。確かめなければ、そのお顔に触れて、本物の元就様か確かめなければ。

「あんたがもっと早くここまで来てりゃ、毛利も、水軍も、無駄死にしなくて済んだのになぁ?」
「や、ぁ・・・!うそ・・・うそっ・・・!」

私の声をかき消すように、毛利の船が燃え上がる。
鼓膜を破る砲撃の音に、か細い悲鳴が反響しながら海へと沈もうとしていた。

「さぁ、これでお前を縛るものは何も残らないぜ?。これであんたの全部は、俺のものだ」
「うそ・・・うそよ・・・うそっ・・・」
、これでお前は俺のもんだ」

元就様の御首に腕を伸ばす。
私の腕を掴んだのは鬼の太い指先で、鬼は嬉しそうに嗤って私の唇に口付けた。
投げ落とされた元就様のお首。
開かれることのない瞼は、もう二度と私を映しはしない。

「鬼の名前を言ってみろ」

鬼の声音が耳元へ滑り込む。
記憶その底から今までの全ての記憶が巻き起こった。
鬼の理不尽な力に屈服させられた日々が。
記憶に、体に刻み込まれた蹂躙と数多の責苦。それらが私の四肢から力を奪う。
そして、私を照らす日輪はもう登らない。

「も、と・・・ちか・・・」

私の夜は、永遠に明けることはない。

「いい子だ、

醜く歪む鬼の笑み。
逆光で翳るその表情は、黒い太陽として私の頭上に君臨した。



残骸とぼくら


title by 月にユダ