昔々ある所に、神様が住んでいました。
大きな泉の中心に建てられた祠。神様は竜神であり土地神として崇められていました。
周辺の村の人間たちは雨が降らぬとあれば雨乞いをし、疫病が流行れば静めて欲しいと祈祷しました。
竜神は力ある神だったのでどんな願いも容易く叶えてくれたので、村人たちは竜神にとても感謝していました。
ですので、村人たとたちは竜神に感謝と畏怖の意を込めて一年に一度。贄を捧げることにしたのです。
うら若い少女や乙女、時には無垢な少年も。そうして何人もが泉の底に沈められたのです。
竜神様は言いました。

「なんて愚かなんだ、人間ってやつは」

***

そしてまた一人の少女が泉の底に沈められました。
神界に繋がる水底に落ちてきた少女は死んだように瞼を開きません。
竜神はほとほと呆れながら、この少女をどうしようかとしばし考えます。
元の村に戻しては贄が気に喰わなかったか粗相をしたか何やらで村人たちが勘違いするのは目に見えていました。なので竜神は贄の少女たちの望む土地、生まれた故郷以外に連れて行き、そこで新たな人生を歩ませるようにしていたのです。
今度もそうすべく少女の目覚めを待ってみますが、一考に目覚める気配がありません。

「おい」

竜神は少女に声をかけます。
しかし少女は目覚めません。

「おい」

竜神は再び声を放ちました。今度は言葉に力を乗せて、言霊として音を放ちます。
すると少女の瞼はふるりと震え、竜神が少女の顔を覗き込むと少女の瞼がゆっくり開かれました。
黒い真珠のような丸い瞳が竜神の姿を捉えます。

「目が覚めたか、人間」

尊大な態度で問いかける竜神を見つめたまま少女は固まっているようでした。
仕方がないでしょう。竜神の頭からは鹿の様な、しかしそれよりももっと立派で美しくつやつやと立派な角が左右対から生えており、右目から頬にかけては鱗がそびえ、尻のあたりからは逞しい竜の尾が生えているのです。
とても人間には見えません。人間が驚いてしまうのは当然だし、いままでの贄の少女たちもみな驚いたので竜神は特に気を悪くすることはありませんでした。

「おい人間。お前、名はなんだ」

竜神の声に我に返ったのでしょう。少女はびくりと大きく震えた後、二、三度と唇を動かします。
ですが声は聞こえません。竜神が不思議そうに眺める中、少女は自分の喉を押さえて頭を左右に振りました。

「聾唖か」

竜神は少女に向けて言いました。
ですが少女の耳は音を拾うようにできていなかったので、少女は竜神がなにを言ったのだろうと首をかしげるばかりでした。

「言葉も知らず、音のない世界で生きてきた娘。さぞ体のいい贄だったんだろうな」

竜神は嘲るようにそう笑い、それからすいと掌を少女の頭上に翳します。

「憐れだな。せめてもの慰めに、俺が教えてやろう」

するとどうでしょう。
突然少女の頭の中に湧水のように言葉が溢れ、知恵が魚のように泳ぎまわりました。「あ!」と驚いて喉を震わせれば、なんと少女は声を発していました。
生まれてこのかた一度も聞くことのなかった己の声。少女は驚きと興奮と感動でほろりと涙を一滴こぼしました。
すると涙は少女の頬から顎へと滑り落ちるとふわりと浮きあがって竜神の指先に浮かびます。
少女が涙の行方を視線で追う中、竜神は指先に浮かぶ涙の雫をこくりと飲み込んでしまいました。

「礼はこれでいい」

片方だけの瞳を細めて笑う竜神は「政宗だ」と短く自身の名を告げました。

「お前の名は?」

続けて投げかけられた言葉に少女は未だ驚きを抱えたまま、かぼそい声で「、」と名乗りました。
するとその言葉が合図だったかのように、の両目からポロポロと大粒の涙がとめどなくあふれだします。
今度は政宗が驚く番でした。
突然激しく涙する少女に竜神は威厳の欠片もなく「どうした!?」と尋ねます。
は政宗の姿を見るために、何度も何度も涙をぬぐい、それから使い慣れない喉で初めての言葉をいくつも舌に乗せました。

私は村で要らない子供でした。親もなく、ただ飯くらいとして生きていました。贄になるために生かされました。そんな私に竜神様は慈悲深く、声や言葉を与えてくださいました。このご恩は言葉にもなりません。
死ぬことは本当は怖かった。いくら初めて必要とされたとしても、死ぬことは、とてもとても怖かった。ですが、これ程までにお優しい竜神様の手で死ねるならなにも怖くありません。

本当の少女の言葉はもっと文法は乱れ支離滅裂な文章が続き、泣きじゃくっていて不恰好に途切れていたので政宗は自分がわかりやすいように理解しました。
それから政宗はやれやれと呆れいった風体で肩を竦めます。

「俺は別に贄なんて望んじゃなかった。あんたら人間が勝手に寄こしてきやがったんだ、捕って喰う気も殺す気もねぇ」
「じゃあ」
「ああ」
「わたしをここにおいてくださるんですね!」
「ああ・・・ん?」

ともかくして少女は竜神の住処に身を寄せ、初めは戸惑ったものの少女の好奇心をこのんだ竜神はそれを許したのでした。

***

竜神が人間の娘と暮らしている。
神界にその噂はすぐに駆け巡り、噂好きの鴉が一羽やってきました。

「コンニチワ、独眼竜」
「帰れ」

しかし鴉と竜神はとても仲が悪かったのです。
けれども鴉はニタニタと底意地の悪い笑みを浮かべたまま、竜神が飛ばす水鉄砲をひらりと旋回してかわします。

「巷じゃあんたが人間と暮らしてるって話でもちきりだぜ?一体どういう風の吹きまわしだい?」

空中回転から地面に飛び降りた鴉は政宗のように人の姿をとりました。
足のか鉤爪と背中の二対の黒い羽根が名残を残しています。

「煩ぇ。テメェには関係ねぇだろ佐助」

政宗はつっけんどんに言い放ち、雷を落としそうな形相で佐助を睨みつけました。

「やーこわいこわい!ちょっと聞いてみただけじゃーん。旦那も気にしてたからさ」

政宗は懇意にしている神の愛称に一瞬口を開けかけましたが、すぐに帰れと文句を言って佐助に向かって雷を落としました。

「ちょ!あぶなっ!!」

政宗は気にしません。

「ちぇっ、その子の顔を拝もうと思ったのに。今日は大人しく返るよ」

政宗はさよならの合図にまた雷を投げつけます。
佐助は怒るよりも呆れながらふわりと空に舞い上がりました。

「やめといたほうがいいぜ、独眼竜。みんなあんたを心配してる」
「黙れ、」
「人間と暮らすなんでどうかしてるぜ」

煩い!と政宗はありったけの雷で佐助を追い払いました。

「ま、政宗様?」

雷の音を聞きつけてようやく表に出てきたは、肩で息をする程荒れている政宗に恐る恐る声をかけました。

「な、なにかあったんですか?」

政宗は答えません。
困ったは子供のように政宗の袖を引きました。
ようやく振り向いた政宗は捨てられた犬の様な泣き出しそうな表情をしていたので、は驚いてしまいました。
誇り高く、威厳に満ち、それから悪戯好きのよく笑う政宗しか知らなかった聞かにとって、それは初めて見る表情でした。

「政宗様、あ、あの。が、がお傍にいますから、そんな顔しないでください」

ただの人間ですけど、と付け足せば、政宗は小さく吹き出し「馬鹿」との頭を小突きました。
もういつもの政宗に戻っています。
はなにがあったのかわからないままでしたが、政宗がまた笑ってくれてよかったと笑いました。

それからも泉の底には贄の少女たちが送られてきました。
そのたびに政宗は彼女らを遠い土地に運び、そしてそれをに話します。
するとは決まってこう言い政宗を喜ばせました。

「竜神様に会えて彼女たちは一生の幸せを得たことでしょう。ですが、竜神様の傍を選ばなかった彼女たちは一生の幸せを逃がしたのです。私は竜神様の傍を選んだ。私は世界で一等の幸せ者よ、政宗」

政宗との暮らしは毎日がとても輝いていました。
異国に興味があった政宗は水鏡で異国の地をに見せてやったり、さまざまな郷土料理を作って見せたり、竜の姿になったその背にを乗せ、空中遊泳を楽しんだりしました。
と政宗の笑みは耐えません。
喧嘩も何度かしましたが、そのたびに二人は仲直りをして過ごしました。
毎日が輝いていました。
不埒の暮らしは、本当に、毎日がきらきらと眩く淡い光に満ちていました。

「政宗さん、私、本当に政宗さんに会えて幸せでした。これ以上ない幸福でした。毎日が楽しくて、幸せで、嬉しくて、眩しくて。本当に。私、政宗さんの贄になれて良かった。あなたがくれた言葉も、知恵も、想いも、世界も。全部愛してる。愛してる。政宗さん。本当に、ありがとう。私を愛してくれて。あなたを愛させてくれて。私に、愛を教えてくれて」

その間も、贄の少女たちか沈んでこない年はありませんでした。



政宗は呼びなれた名を呼び彼女の傍へとすり寄ります。

「今日は何をする?詩を読むか?西海へ足を伸ばすか?それとも軍神の金の鳥を見に行くか?」


背に乗せてってやるよと笑う政宗ですが、が答える様子はありません。
政宗はの手を握りもう一度名を呼びます。すっかり大人になったの手は、それでも政宗の手よりも随分と小さくありました。

、なぁなんとか言えよ」

しかしは答えません。
政宗はの小さな体を抱きしめました。彼女と初めて会ったころを思い出します。
彼女は小さな少女でした。
言葉を知らない、小さく、無垢な少女でした。

「だから言ったんだよ独眼竜。人間と暮らすなんてやめておけって」

いつの間にやらふわりと黒い羽根が舞います。政宗は振り返らず佐助、と鴉の名を呼びました。
それと同時に「政宗殿、」と痛ましげな声も響き、佐助の主も来たのかと政宗はぼんやりと理解します。

「人間は、俺様たちとは生きる時間が違うんだよ。人間はたった五十年そこらしか生きられない。百年も生きられないだよ。あんたはいったいどれくらいの時を生きた?百年?千年?一万年だった?あんたが瞬き一つする間に、人間は老いて、死ぬ。あんたはわかってたはずだぜ」

腕の中のは小さかった。
やせ細り、衰えた、年老いた女でした。
しかし、政宗にとってでした。いとしくて、大切な、愛すべき存在でした。

「政宗殿、その方をお引き渡しくだされ。死者の香りは神界の空気を澱ませます。水は肉を腐らせますゆえ、某が」

政宗は炎を司る幸村がわざわざ出向いた理由を理解しました。
お節介めと佐助に雷を落としてもよかったが、の眠りを妨げる気にはならなかったのでそれは止めておきます。

「幸村・・・」
「はい」
「もう少し、待ってくれ・・・」
「・・・はい」

瞳を閉じて、を抱きしめてみても、彼女の体はすっかり冷え固まって温かくはありませんでした。
幼い頃の熱と柔らかさも、若き日の甘い香りも、熟れ始めたふくよかさも。もうには宿っていはいませんでした。
それでも、それでも。
政宗にとってなのでした。
瞼を閉ざせば、過ぎ去った時間の中に存在するの姿がいくつも思い出されました。
政宗は、瞬きの一瞬で失われてしまったの一生をすべて覚えていました。
政宗は神でした。人間よりもたくさんのことを知り、学び、記憶していたので、人間の一生を記憶することなど造作もないことでした。
の言葉、笑い方、ふとした仕種、髪の柔らかさ、涙の色、美しい声。
政宗はすべて覚えていました。すべての記憶を、一つも溢さず全て抱きしめていました。

・・・」

は答えませんでした。
ただ、幸せそうに。眠るように、息を止めていました、

「政宗殿」
「ああ」

急くように声をかけた幸村に、政宗はゆっくりとの体を差し出しました。
答えるように幸村が両手を掲げる。焔玉がいくつも生まれ、の体を包んで燃えます。
の体は黒く燃え尽き、さらさらと灰になって政宗の掌から零れ落ちて行き、の灰は熱風に煽られて舞い上がり、政宗の水に溶けて形を無くしてしまいました。

・・・」
『政宗さん』

するとどうしたことでしょう。水の中から、の声がするのです。
政宗ははっと顔をあげました。の姿はありません。ですがしっかりと、その声が政宗の耳に届くのです。

『政宗さん、政宗さん。私幸せですよ。愛してくれて、想ってくれてうれしくてうれしくて、本当にうれしくて』
?どうして、」
「こりゃ驚いた。あの子は独眼龍の眷属になったんだ」
「神界に長く留まったこと、それと、神の力に身を焼かれた故か」

の姿はありませんが、の魂は残っているのです。
彼女は政宗の力である水にその魂を宿し、泡沫の言葉を産み落とします。



政宗がすいと腕を伸ばせば、水は気泡を吐き出して形を作り、たおやかな肢体を持った水の乙女の姿になりました。
も驚いているようでした。
どうして自分の命が続いているのか、わからないようでした。
しかしその驚きは、再び愛しい人とともに時間を刻めるという幸福の前にすっかりしぼんでいるようです。

『政宗さん!私、私、またずっと一緒にいられるんですか・・・!?』

透き通る体を震わせるの頬に、政宗の掌がそっと添えられます。
の水の体は冷たく、温かい。命の熱がともっていて、まるで、羊水のように政宗の心を包み込みました。

「ああ、一緒だ。ずっと。ずっと一緒だ」

政宗はの水の体を抱きしめます。
心臓の音はさざ波のように愛らしく、答えるように脈打ちました。

『政宗さん、私、あなたが好きなんです。ずっとずっと、離れたくない』
「馬鹿、お前は俺のものになったんだ。一生、俺が死ぬまではなさねーよ」

***

昔々ある所に、神様が住んでいました。
大きな泉の中心に建てられた祠。神様は竜神であり土地神として崇められていました。
周辺の村の人間たちは雨が降らぬとあれば雨乞いをし、疫病が流行れば静めて欲しいと祈祷しました。
竜神は力ある神だったのでどんな願いも容易く叶えてくれたので、村人たちは竜神にとても感謝していました。
ですので、村人たとたちは竜神に感謝と畏怖の意を込めて一年に一度。贄を捧げることにしたのです。
うら若い少女や乙女、時には無垢な少年も。そうして何人もが泉の底に沈められたのです。
竜神様は言いました。

「なんて愚かなんだ、人間ってやつは。・・・だが、俺とを巡り合わせたことは、感謝してやるか」





これが君の神か


title by 首路