きつく引き結ばれた唇。
前を見据える瞳は鋭く、放たれる雰囲気はいくらか刺々しい。
かつかつと足早に進む歩みは淀みなく、その足取りは大理石の廊下に高く響いてあたりのものたちを威嚇していた。
「真田殿?どちらへ?もうすぐ会議だが」
「欠席とお伝えくだされ!」
声を掛けてきた勝頼に幸村は目もくれず、それこそ怒鳴るように返事をする。
その様子を訝しんだ勝頼だが、追求を躊躇してしまう幸村の表情にあえなく口をつぐんだ。
そうしてあたりの者たちは幸村の威嚇に恐れをなしたか、わらわらと道の端へと身を寄せては幸村の歩みを邪魔をすることもない。
懐から懐中時計を取り出す幸村は、針の位置を確認し、はじめのようにかつかつと鋭い音を立てながら軍部を後にするのだった。
***
普段ならば静かに扉を開け、使用人達に「今帰った」と穏やかに帰宅を告げ、それから幸村はの元へと向かう。
だが今日はそうもいかない。
幸村はまるで嵐のように扉を殴り開け、「はどこにいる!」と雷鳴のように吼えたて使用人達を怯えさせた。
「幸村?」
何事かと向かえば、幸村はの腕を掴んで部屋の中へと引きずり込む。
余りに唐突で文句も言えず、ぱちりとひとつ瞬く合間に幸村はを椅子に座らせその華奢な肩に手を乗せた。
痛みを感じるほどの力だった。
「幸村?どうしたの?」
問いかけに荒い息をついていた幸村は泣き出しそうに表情を歪めさせる。
「、お主の生まれは北だったな」
「生まれと言っても一年も居ませんでしたが」
「それでもかまわぬ。、お主は帝都を出て北へゆけ」
「どうしてまた?」
釈然としない思いを舌に乗せれば、肩を掴む幸村の掌の力が増した。
痛いと言おうにも幸村の方が痛そうな表情をしていて、は大人しく口を噤む。
「内密であるが、今暫くすれば帝都に爆撃の雨が降る。外国の攻撃があるのだ」
「まぁ、幸村!嘘はいけないわ。日本軍は連日勝利を収めているのよ?どうして爆撃など受けましょう」
勝利だと!
政府が報道規制を敷いているのだ。軍部上層の妻さえ真相は知らない。
真実この国は劣勢の極みに立たされ、降伏を推す者もいる。しかしもののふ達は命を捨てても戦うと言うのだ。
直滅びる。
この大日本帝国などという、小さな島国は欧米諸国の軍事力を前に、平伏すのだろう。
「、これは負け戦なのだ。直に俺も死ぬために前線に召集されるだろう。おまえは逃げろ。逃げて、生きてくれ」
「幸村、」
「佐助は居るかっ!」
の言葉を遮り幸村は佐助を呼ぶ。
幸村が子供の頃からこの真田に使える男だ。
佐助と呼ばれた蜜柑色の髪の男は「ここに、」と答えて頭を下げた。
「話は聞いていただろう。今すぐの荷を纏めてくれ」
「・・・御意」
一瞬だけ言葉を詰まらせた佐助だがすぐにいつものように頭を下げる。
足早に部屋を出て行く佐助の背に、は「佐助!」と咎めるように声を荒げ、それからゆっくり幸村に視線を戻した。
「嘘、でしょう?」
「・・・時間がない。早く支度を」
幸村はを見ずに佐助を促す。
は幸村の妻だ。この男が嘘をつけないのは誰よりもよく知っていた。
「嫌よ!嫌です幸村!どうして私ひとりっ!」
「案ずるな、ひとりではない。供には佐助を付ける。心配はない」
「そうじゃありません!」
は幸村の腕を振り払い、今度は逆にが掴みかかる。
「この国が戦地になるなら何処へ逃げたって同じです!」
「、屁理屈を言うな!」
「屁理屈ではありませんわ!事実じゃあないですか!あなたはそれでも日本男児ですか?どうして私ひとりに逃げろなんてっ!私ひとりにすべて見捨てて逃げろだなんて!」
噛みつくように叫ぶの声は甲高さも相まって脳に響く。
苦渋に顔をしかめる幸村は「っ!」と荒っぽく名を呼んで声を遮った。だが興奮状態のがそれで大人しくなるはずもない。
「私だって日本国民のひとりなんです。ひとりだけ逃げるだなんて汚名はこうむりますわ!」
「なにを言う!包丁も握れぬくせにっ!」
「そんなことは関係ありません!幸村には見損ないましたわっ!」
幸村の胸を突き飛ばすように弾いた。
油断していた幸村は思わずよろけ、驚く瞳でを見る。
は、泣いていた。
「あんまりです・・・。私は、あなたの妻なのに」
「だからこそ!生きて欲しいとっ」
「どうして供に戦えと言ってくださらないの?どうして供に死ねと言ってくださらないの!?」
鬼気迫るの声音に幸村は息を飲んだ。
からりと渇いていた喉は呼吸の度にひゅうひゅうと鳴り痛む。
余りある衝撃を受けた脳は考えることを放棄して、幸村はただただ頭中での言葉を反読した。
「たとえ一人逃げ延びたとして、傍にあなたが居てくださらなければなんの意味がありませんっ。私にはあなたしかないというのに!」
「・・・」
悲しみか、怒りか、悔しさか。
そのすべてかもしれない。涙にくれるは、髪を振り乱して顔を覆った。
「あんまりですっ。私には、あなた以外なにもないというのに!私をひとり遠くに追いやり、孤独に死ねというのですね…」
「違う、・・・」
肩を振るわすを抱きしめれば、いつも以上に小さく感じた。
それと同時に、己の矮小さも突きつけられ、羞恥と痛みが手を組んだ。
「俺はただ、おまえに死んでほしくないのだ」
「あなたと同じように、私もそう思っているのです」
涙に濡れた、震える声がそう責める。
口惜しさに強く抱きしめれば、の体が痛みに強ばった。
「俺は、逃げられぬ」
男として、軍人として。逃げるなどと言うことは甚だ考えつかない。
戦って死ぬことが誉れと教えられながら、その実死にたくないと切に思う。
腕の中の妻は、苦労を知らない美しい女だ。
きっと幸村が守ってやらなければ、簡単に死んでしまうか弱い女なのだ。
一人にしてしまえばこれは忽ち死に絶えるだろう。
「存じています。だから、ただ一言。私に供に死ねと言ってください」
その癖、心根は誰よりも強く美しかった。
幸村以上の懐で畏れもなく生きている。
幸村は、熱くなる目頭を自覚して、の甘い香りのする首筋に顔を埋めた。
母に抱かれるような心地よさ。
幸村はか細く震える喉で、と何度もの名を呼んだ。
「俺は何を憎めばいいのだろう。国か?時代か?己れ自身か?俺はお前を守って死ぬことも許されない。国と言う大きなものを守って朽ちねばならない。それが何より腹立たしい。俺は、お前を守りたくてここまできたのに」
武を極めたかった理由は幾つもあった。
家柄や、師に追い付きたくてなど。だが今や、大部分を占める理由はすべてだった。
を守りたくて、精神も肉体も高めたというのに。
幸村は、ではないなにかを守って死ぬことを、神でもない人間によって運命付けられてしまったのだ。
「私は、死なんて恐れてはいませんわ」
は幸村の温もりにを甘受しながらそう言う。
横顔は窺えない。
幸村は口をつぐんでの言葉を待った。
「死ぬことに恐怖など感じません。ただひとつ恐ろしいことは、あなたと別たれることよ。幸村」
の声は、涙に濡れていたがやはり芯はしっかりとしているようで、弱さなどは感じさせない声だった。
幸村は涙を堪えようときつくまぶたを閉ざしたのだが、の優しい腕がそれを邪魔する。
小さく柔らかい指先が幸村の首筋に絡み、ほのかな熱が心地よかった。
「幸村。私、ずっとあなたといるわ」
戦争もなにも、あなたと一緒なら何一つとして恐ろしいものなどないのだから。
そういって微笑んで見せた。
目尻は涙に濡れて、声は隠された怯えに微かに揺れた。
いっそを連れ出して逃げられたならば、この痛みは払拭されただろうか?
その答えは一生わかることはない。
幸村は逃げることが出来ない。
逃げたくはないのだ。
己の曲げられぬ愚かな信条を持ってして、幸村の死は決定付けられる。
「、」
「はい・・・」
幸村は漸くから離れ、ゆっくりと名を呼び視線を絡ませた。
はただただ幸村の言葉を待っている。
「俺はいずれ戦地で死ぬだろう。その時は、お前を迎えに来てもいいだろうか?」
共に黄泉をと誘う言葉に、はどうしようもなく美しい泣き顔で頷いた。
何度も何度も頷く合間、幸村はただ、何があろうと、この妻を一人にはしまいと誓うのであった。
前を見据える瞳は鋭く、放たれる雰囲気はいくらか刺々しい。
かつかつと足早に進む歩みは淀みなく、その足取りは大理石の廊下に高く響いてあたりのものたちを威嚇していた。
「真田殿?どちらへ?もうすぐ会議だが」
「欠席とお伝えくだされ!」
声を掛けてきた勝頼に幸村は目もくれず、それこそ怒鳴るように返事をする。
その様子を訝しんだ勝頼だが、追求を躊躇してしまう幸村の表情にあえなく口をつぐんだ。
そうしてあたりの者たちは幸村の威嚇に恐れをなしたか、わらわらと道の端へと身を寄せては幸村の歩みを邪魔をすることもない。
懐から懐中時計を取り出す幸村は、針の位置を確認し、はじめのようにかつかつと鋭い音を立てながら軍部を後にするのだった。
***
普段ならば静かに扉を開け、使用人達に「今帰った」と穏やかに帰宅を告げ、それから幸村はの元へと向かう。
だが今日はそうもいかない。
幸村はまるで嵐のように扉を殴り開け、「はどこにいる!」と雷鳴のように吼えたて使用人達を怯えさせた。
「幸村?」
何事かと向かえば、幸村はの腕を掴んで部屋の中へと引きずり込む。
余りに唐突で文句も言えず、ぱちりとひとつ瞬く合間に幸村はを椅子に座らせその華奢な肩に手を乗せた。
痛みを感じるほどの力だった。
「幸村?どうしたの?」
問いかけに荒い息をついていた幸村は泣き出しそうに表情を歪めさせる。
「、お主の生まれは北だったな」
「生まれと言っても一年も居ませんでしたが」
「それでもかまわぬ。、お主は帝都を出て北へゆけ」
「どうしてまた?」
釈然としない思いを舌に乗せれば、肩を掴む幸村の掌の力が増した。
痛いと言おうにも幸村の方が痛そうな表情をしていて、は大人しく口を噤む。
「内密であるが、今暫くすれば帝都に爆撃の雨が降る。外国の攻撃があるのだ」
「まぁ、幸村!嘘はいけないわ。日本軍は連日勝利を収めているのよ?どうして爆撃など受けましょう」
勝利だと!
政府が報道規制を敷いているのだ。軍部上層の妻さえ真相は知らない。
真実この国は劣勢の極みに立たされ、降伏を推す者もいる。しかしもののふ達は命を捨てても戦うと言うのだ。
直滅びる。
この大日本帝国などという、小さな島国は欧米諸国の軍事力を前に、平伏すのだろう。
「、これは負け戦なのだ。直に俺も死ぬために前線に召集されるだろう。おまえは逃げろ。逃げて、生きてくれ」
「幸村、」
「佐助は居るかっ!」
の言葉を遮り幸村は佐助を呼ぶ。
幸村が子供の頃からこの真田に使える男だ。
佐助と呼ばれた蜜柑色の髪の男は「ここに、」と答えて頭を下げた。
「話は聞いていただろう。今すぐの荷を纏めてくれ」
「・・・御意」
一瞬だけ言葉を詰まらせた佐助だがすぐにいつものように頭を下げる。
足早に部屋を出て行く佐助の背に、は「佐助!」と咎めるように声を荒げ、それからゆっくり幸村に視線を戻した。
「嘘、でしょう?」
「・・・時間がない。早く支度を」
幸村はを見ずに佐助を促す。
は幸村の妻だ。この男が嘘をつけないのは誰よりもよく知っていた。
「嫌よ!嫌です幸村!どうして私ひとりっ!」
「案ずるな、ひとりではない。供には佐助を付ける。心配はない」
「そうじゃありません!」
は幸村の腕を振り払い、今度は逆にが掴みかかる。
「この国が戦地になるなら何処へ逃げたって同じです!」
「、屁理屈を言うな!」
「屁理屈ではありませんわ!事実じゃあないですか!あなたはそれでも日本男児ですか?どうして私ひとりに逃げろなんてっ!私ひとりにすべて見捨てて逃げろだなんて!」
噛みつくように叫ぶの声は甲高さも相まって脳に響く。
苦渋に顔をしかめる幸村は「っ!」と荒っぽく名を呼んで声を遮った。だが興奮状態のがそれで大人しくなるはずもない。
「私だって日本国民のひとりなんです。ひとりだけ逃げるだなんて汚名はこうむりますわ!」
「なにを言う!包丁も握れぬくせにっ!」
「そんなことは関係ありません!幸村には見損ないましたわっ!」
幸村の胸を突き飛ばすように弾いた。
油断していた幸村は思わずよろけ、驚く瞳でを見る。
は、泣いていた。
「あんまりです・・・。私は、あなたの妻なのに」
「だからこそ!生きて欲しいとっ」
「どうして供に戦えと言ってくださらないの?どうして供に死ねと言ってくださらないの!?」
鬼気迫るの声音に幸村は息を飲んだ。
からりと渇いていた喉は呼吸の度にひゅうひゅうと鳴り痛む。
余りある衝撃を受けた脳は考えることを放棄して、幸村はただただ頭中での言葉を反読した。
「たとえ一人逃げ延びたとして、傍にあなたが居てくださらなければなんの意味がありませんっ。私にはあなたしかないというのに!」
「・・・」
悲しみか、怒りか、悔しさか。
そのすべてかもしれない。涙にくれるは、髪を振り乱して顔を覆った。
「あんまりですっ。私には、あなた以外なにもないというのに!私をひとり遠くに追いやり、孤独に死ねというのですね…」
「違う、・・・」
肩を振るわすを抱きしめれば、いつも以上に小さく感じた。
それと同時に、己の矮小さも突きつけられ、羞恥と痛みが手を組んだ。
「俺はただ、おまえに死んでほしくないのだ」
「あなたと同じように、私もそう思っているのです」
涙に濡れた、震える声がそう責める。
口惜しさに強く抱きしめれば、の体が痛みに強ばった。
「俺は、逃げられぬ」
男として、軍人として。逃げるなどと言うことは甚だ考えつかない。
戦って死ぬことが誉れと教えられながら、その実死にたくないと切に思う。
腕の中の妻は、苦労を知らない美しい女だ。
きっと幸村が守ってやらなければ、簡単に死んでしまうか弱い女なのだ。
一人にしてしまえばこれは忽ち死に絶えるだろう。
「存じています。だから、ただ一言。私に供に死ねと言ってください」
その癖、心根は誰よりも強く美しかった。
幸村以上の懐で畏れもなく生きている。
幸村は、熱くなる目頭を自覚して、の甘い香りのする首筋に顔を埋めた。
母に抱かれるような心地よさ。
幸村はか細く震える喉で、と何度もの名を呼んだ。
「俺は何を憎めばいいのだろう。国か?時代か?己れ自身か?俺はお前を守って死ぬことも許されない。国と言う大きなものを守って朽ちねばならない。それが何より腹立たしい。俺は、お前を守りたくてここまできたのに」
武を極めたかった理由は幾つもあった。
家柄や、師に追い付きたくてなど。だが今や、大部分を占める理由はすべてだった。
を守りたくて、精神も肉体も高めたというのに。
幸村は、ではないなにかを守って死ぬことを、神でもない人間によって運命付けられてしまったのだ。
「私は、死なんて恐れてはいませんわ」
は幸村の温もりにを甘受しながらそう言う。
横顔は窺えない。
幸村は口をつぐんでの言葉を待った。
「死ぬことに恐怖など感じません。ただひとつ恐ろしいことは、あなたと別たれることよ。幸村」
の声は、涙に濡れていたがやはり芯はしっかりとしているようで、弱さなどは感じさせない声だった。
幸村は涙を堪えようときつくまぶたを閉ざしたのだが、の優しい腕がそれを邪魔する。
小さく柔らかい指先が幸村の首筋に絡み、ほのかな熱が心地よかった。
「幸村。私、ずっとあなたといるわ」
戦争もなにも、あなたと一緒なら何一つとして恐ろしいものなどないのだから。
そういって微笑んで見せた。
目尻は涙に濡れて、声は隠された怯えに微かに揺れた。
いっそを連れ出して逃げられたならば、この痛みは払拭されただろうか?
その答えは一生わかることはない。
幸村は逃げることが出来ない。
逃げたくはないのだ。
己の曲げられぬ愚かな信条を持ってして、幸村の死は決定付けられる。
「、」
「はい・・・」
幸村は漸くから離れ、ゆっくりと名を呼び視線を絡ませた。
はただただ幸村の言葉を待っている。
「俺はいずれ戦地で死ぬだろう。その時は、お前を迎えに来てもいいだろうか?」
共に黄泉をと誘う言葉に、はどうしようもなく美しい泣き顔で頷いた。
何度も何度も頷く合間、幸村はただ、何があろうと、この妻を一人にはしまいと誓うのであった。
灰色の雨の群れ
title by まよい庭火