日も高々、燦々と照る太陽の光。
からりと晴れた空は冬にしては暖かく、まるで早い春を連れてきたように陽気な日差しが降り注ぐ。
草木は萌えて心地よい。
だがここには獣一匹いやしない。冬眠しているものを他にしたって、鳥や虫の姿もない。
耳に痛いほどの静寂は、命を感じさせない空間を不気味に彩る。
そんな中を、ひとりの忍が駆けていた。
鉄の防具から覗く腕は鍛えぬかれた鋼のようで、駆ける足はまるで疲れ知らずの天馬のよう。
頬に走る紋様は朱色が引かれ、兜からはみ出た髪もまた見事に赤い。
面立ちは額当てに隠されて窺い知れぬが、すっと通った鼻筋や輪郭は、均衡が取れていて美しいと評してもよいだろう。
風魔小太郎。
それが忍の名であったが、多くの者は彼の男をこう呼んだ。
伝説
と。
そうして駆ける伝説の忍は、隠された眼で一点のみ睨み付け、迷いない様子で木々の合間を掻い潜り走る。
風を切る音さえ残さないその術こそが、男を伝説とも言わしめる業。
一旦大樹の枝に止まり、一寸耳を傾け気配を探る。
音を捉えた風魔の耳は、次の瞬間にはもう影さえ残してはいない。
段々と縮まる距離の中、風魔は暗器の所在を確かめながら、それを握る右手に力を込めた。
(見つけた)
地を走る黒い影五つ。
標準を定める時間は必要ない。
放った苦無はひとつの影を地上に縫い付けた。
寸分の狂いなく心の臓を突き破いた苦無いは勢いを殺さず地に突き刺さる。
追跡者の存在に気付いた残る四つの影、さ迷う八つの瞳はまだこちらに気づいていない。
愛刀を背から抜き放ち、重力の助けを得ながら風魔は地に向かって飛び降りた。
死の香りを匂わす黒翼が広がり、暖かな日の光を遮り地面に大きな影を落とす。
「伝説のっ・・・!!!」
誰が叫んだだろう。
確認が取れぬまま、ひとつ頭が中を舞う。
まるで紙芝居のように、一瞬の時間の中で忍の血が弾け飛んだ。
道具に流るる液も赤い。
血を避け身を屈めた風魔は、倒れてくる忍の体を盾に苦無の雨を掻い潜る。
次にだらんと動かない忍の体を一人に投げつけ、もう一人に苦無いを飛ばし、残る一人は顎を蹴りつけ骨を砕いてやった。
やり過ぎたか。
思いの外、脆い。
「囲め!」
「怯むなっ!」
飛び交う号令に三点は崩れない。
良く調教されているらしいが、敵ではない。
風魔は伝説と言わしめられる男であった。
視線を一点に定め、風魔はひとつ、息を吐く。
「返してもらう」
誰がが息を飲んだ。
伝説の忍の声を、一体誰が聞いたことがあるだろう。
伝説の忍。
それは音もなく駆け、素早く殺し、どんな任務もこなす道具。
その術は人ならざる者の業。
姿形を知るものはないとされるの。
それが伝説と呼ばれる由縁。
自分たちはかの伝説と対峙し、肉薄し、あまつさえ声を聞いてしまった。
戦慄く忍を前に、風魔がすいと刀をもたげる。
瞬間、死の翼が世界を覆った。
すべては一瞬、接触致死の力。
天地の他に光と闇の狭間が産み落とされる。
瞬いたのは光か、闇か、刃か風か。
三人の忍は、なにもわからぬままに絶命していた。
伝説の忍の姿を、声を、術を知るものはない。
何故なら、伝説と対峙して、生き延びられた者など居ないのだから。
それが風魔小太郎を伝説の忍と呼ばれる理由。
地に転がる五つの元、命。
風魔は愛刀に付着した血を払い、鞘に納めて倒れる少女の傍に寄った。
移動や戦闘の最中にも気づかないとは、随分深く昏倒したか薬を盛られたか。
脈を図り安否を知る。
血まみれのそこから少女を抱き上げ風魔は天狗の様に空を駆けた。
寝覚めが彼処では酷だろう。
北条氏政の孫娘であるは誰がどう見ても頷く箱入り娘。
城の外もろくに知らぬ少女なのだ。
あの死体と血を見てはまた気絶してしまうだろう。
手頃な水場で血の臭いを払い、の為に気付薬を煎じてやる。
薬湯を小さな椀に移しながら、なかなか起きぬに風魔はそっとひとつ息を吐く。
氏政にバレると面倒だ。
だが気絶したまま連れて帰るのもまた面倒である。
無垢で穢れ知らずの少女には申し訳ないが、意を決して風魔はの体を抱き寄せた。
椀の中身を口に含み、の小さな唇に重ねる。
乱れない呼吸に合わせて薬湯を注ぎ込んだ。
苦いはずのそれが、何故か甘く感じた。
「・・・っ、」
思い切りしかめられた眉に、の可愛らしい顔が歪む。
やはり苦いらしい。
先程の甘さはなんだったのだろうと小首を傾げる風魔の腕の中で、の陶磁のような瞼がふるると震えた。
「ん・・・こた、ろ、さん?」
鈴を転がすようなの声。
苦味を消すための川の水を差しだせば、はぼんやりとした面持ちでそれを受け取った。
「私、浚われたんじゃありませんでしたっけ?」
こくり、と水を飲み下した喉が小さく震える。
なんて細い首だろう。
思わず凝視してしまったが、額当てのお陰で怪しまれることはなかった。
(助けた。今から城へ帰る)
そう唇を動かせば、は心得た、と言わんばかりに頷く。
渡した椀を川で濯ぎながら、は少し目を伏せていた。
「ごめんなさいね、小太郎さん。きっと私が強ければ、あなたにこんな迷惑はかけないのに」
その言葉に風魔はまた首を傾げる。
何故が謝るのだろう。
悪いのはを浚う敵方であるし、風魔は氏政に雇われる身。迷惑云々は仕事には関係がない。
不思議がる風魔を余所に、は手拭いで椀を拭いて風魔の前へと差し出した。
「お待たせしました。お祖父様が心配していらっしゃいますでしょうから、城までお願いできますか?小太郎さん」
力なく笑うの手を取り、風魔は細いその体を抱き上げた。
戦うための技量を知らない体だ。
触れただけでわかる。
には戦う力は備わってはいない。
か弱く無力な深窓の姫なのだから、守られて当然だ。
それなのにはいつも助けられる度に申し訳なさそうに視線を落とす。
そんなものは御門違いだった。
風魔は飛び立つ前に、の視線を絡めとる。
気付いたはなんだろうと風魔を見上げた。
(は俺が守るから、要らぬ心配はしなくていい。はこれからも大人しく、俺に守られていればいい)
迷惑なぞ感じた事はないし、強くならなくてもいいのだ。
伝説と、最強と謳われる自分がいるのだからと風魔は思う。
はいつまでも、無力な姫でいればいい。
風魔はそう心で繰り返しながら、高く跳躍をして地を別れて空を舞った。
「・・・っはい、」
頷くの、首に回された腕に力が籠る。
腕力のないはずの腕は、何故かいつも風魔を縛る力が込められていた。
風魔はその不可解な力が命ずるままに、か弱いを落とさぬように強く抱き止め空を進んで小田原を目指すのだった。
からりと晴れた空は冬にしては暖かく、まるで早い春を連れてきたように陽気な日差しが降り注ぐ。
草木は萌えて心地よい。
だがここには獣一匹いやしない。冬眠しているものを他にしたって、鳥や虫の姿もない。
耳に痛いほどの静寂は、命を感じさせない空間を不気味に彩る。
そんな中を、ひとりの忍が駆けていた。
鉄の防具から覗く腕は鍛えぬかれた鋼のようで、駆ける足はまるで疲れ知らずの天馬のよう。
頬に走る紋様は朱色が引かれ、兜からはみ出た髪もまた見事に赤い。
面立ちは額当てに隠されて窺い知れぬが、すっと通った鼻筋や輪郭は、均衡が取れていて美しいと評してもよいだろう。
風魔小太郎。
それが忍の名であったが、多くの者は彼の男をこう呼んだ。
伝説
と。
そうして駆ける伝説の忍は、隠された眼で一点のみ睨み付け、迷いない様子で木々の合間を掻い潜り走る。
風を切る音さえ残さないその術こそが、男を伝説とも言わしめる業。
一旦大樹の枝に止まり、一寸耳を傾け気配を探る。
音を捉えた風魔の耳は、次の瞬間にはもう影さえ残してはいない。
段々と縮まる距離の中、風魔は暗器の所在を確かめながら、それを握る右手に力を込めた。
(見つけた)
地を走る黒い影五つ。
標準を定める時間は必要ない。
放った苦無はひとつの影を地上に縫い付けた。
寸分の狂いなく心の臓を突き破いた苦無いは勢いを殺さず地に突き刺さる。
追跡者の存在に気付いた残る四つの影、さ迷う八つの瞳はまだこちらに気づいていない。
愛刀を背から抜き放ち、重力の助けを得ながら風魔は地に向かって飛び降りた。
死の香りを匂わす黒翼が広がり、暖かな日の光を遮り地面に大きな影を落とす。
「伝説のっ・・・!!!」
誰が叫んだだろう。
確認が取れぬまま、ひとつ頭が中を舞う。
まるで紙芝居のように、一瞬の時間の中で忍の血が弾け飛んだ。
道具に流るる液も赤い。
血を避け身を屈めた風魔は、倒れてくる忍の体を盾に苦無の雨を掻い潜る。
次にだらんと動かない忍の体を一人に投げつけ、もう一人に苦無いを飛ばし、残る一人は顎を蹴りつけ骨を砕いてやった。
やり過ぎたか。
思いの外、脆い。
「囲め!」
「怯むなっ!」
飛び交う号令に三点は崩れない。
良く調教されているらしいが、敵ではない。
風魔は伝説と言わしめられる男であった。
視線を一点に定め、風魔はひとつ、息を吐く。
「返してもらう」
誰がが息を飲んだ。
伝説の忍の声を、一体誰が聞いたことがあるだろう。
伝説の忍。
それは音もなく駆け、素早く殺し、どんな任務もこなす道具。
その術は人ならざる者の業。
姿形を知るものはないとされるの。
それが伝説と呼ばれる由縁。
自分たちはかの伝説と対峙し、肉薄し、あまつさえ声を聞いてしまった。
戦慄く忍を前に、風魔がすいと刀をもたげる。
瞬間、死の翼が世界を覆った。
すべては一瞬、接触致死の力。
天地の他に光と闇の狭間が産み落とされる。
瞬いたのは光か、闇か、刃か風か。
三人の忍は、なにもわからぬままに絶命していた。
伝説の忍の姿を、声を、術を知るものはない。
何故なら、伝説と対峙して、生き延びられた者など居ないのだから。
それが風魔小太郎を伝説の忍と呼ばれる理由。
地に転がる五つの元、命。
風魔は愛刀に付着した血を払い、鞘に納めて倒れる少女の傍に寄った。
移動や戦闘の最中にも気づかないとは、随分深く昏倒したか薬を盛られたか。
脈を図り安否を知る。
血まみれのそこから少女を抱き上げ風魔は天狗の様に空を駆けた。
寝覚めが彼処では酷だろう。
北条氏政の孫娘であるは誰がどう見ても頷く箱入り娘。
城の外もろくに知らぬ少女なのだ。
あの死体と血を見てはまた気絶してしまうだろう。
手頃な水場で血の臭いを払い、の為に気付薬を煎じてやる。
薬湯を小さな椀に移しながら、なかなか起きぬに風魔はそっとひとつ息を吐く。
氏政にバレると面倒だ。
だが気絶したまま連れて帰るのもまた面倒である。
無垢で穢れ知らずの少女には申し訳ないが、意を決して風魔はの体を抱き寄せた。
椀の中身を口に含み、の小さな唇に重ねる。
乱れない呼吸に合わせて薬湯を注ぎ込んだ。
苦いはずのそれが、何故か甘く感じた。
「・・・っ、」
思い切りしかめられた眉に、の可愛らしい顔が歪む。
やはり苦いらしい。
先程の甘さはなんだったのだろうと小首を傾げる風魔の腕の中で、の陶磁のような瞼がふるると震えた。
「ん・・・こた、ろ、さん?」
鈴を転がすようなの声。
苦味を消すための川の水を差しだせば、はぼんやりとした面持ちでそれを受け取った。
「私、浚われたんじゃありませんでしたっけ?」
こくり、と水を飲み下した喉が小さく震える。
なんて細い首だろう。
思わず凝視してしまったが、額当てのお陰で怪しまれることはなかった。
(助けた。今から城へ帰る)
そう唇を動かせば、は心得た、と言わんばかりに頷く。
渡した椀を川で濯ぎながら、は少し目を伏せていた。
「ごめんなさいね、小太郎さん。きっと私が強ければ、あなたにこんな迷惑はかけないのに」
その言葉に風魔はまた首を傾げる。
何故が謝るのだろう。
悪いのはを浚う敵方であるし、風魔は氏政に雇われる身。迷惑云々は仕事には関係がない。
不思議がる風魔を余所に、は手拭いで椀を拭いて風魔の前へと差し出した。
「お待たせしました。お祖父様が心配していらっしゃいますでしょうから、城までお願いできますか?小太郎さん」
力なく笑うの手を取り、風魔は細いその体を抱き上げた。
戦うための技量を知らない体だ。
触れただけでわかる。
には戦う力は備わってはいない。
か弱く無力な深窓の姫なのだから、守られて当然だ。
それなのにはいつも助けられる度に申し訳なさそうに視線を落とす。
そんなものは御門違いだった。
風魔は飛び立つ前に、の視線を絡めとる。
気付いたはなんだろうと風魔を見上げた。
(は俺が守るから、要らぬ心配はしなくていい。はこれからも大人しく、俺に守られていればいい)
迷惑なぞ感じた事はないし、強くならなくてもいいのだ。
伝説と、最強と謳われる自分がいるのだからと風魔は思う。
はいつまでも、無力な姫でいればいい。
風魔はそう心で繰り返しながら、高く跳躍をして地を別れて空を舞った。
「・・・っはい、」
頷くの、首に回された腕に力が籠る。
腕力のないはずの腕は、何故かいつも風魔を縛る力が込められていた。
風魔はその不可解な力が命ずるままに、か弱いを落とさぬように強く抱き止め空を進んで小田原を目指すのだった。
蝶に夢を
title by まよい庭火