「海、行きてぇなぁ」

ついて出た言葉に顔をあげれば、こちらを見てはいない元親の瞳は窓の外に向けられていた。

「馬鹿。今冬だよ?」

南方に位置する四国とはいえ、ハワイみたいに年中常夏の季節なわけもなく、寒くないわけがない。
今だってコタツにストーブにエアコンに、暖房器具がかかせない。
その寒さのなかで海だなんて、理解しきれないとため息をついた。

「いいじゃねぇかよぅ」
「風邪引く」
「馬鹿は風邪引かねー」
「我慢しろ」
「なぁいいだろ?」

低く響く声を出されてしまえ弱ってしまう。
元親の甘いテノールはにとって鬼門だ。
それを知りつつ悪用する元親は、確信犯以外の何者でもない。卑怯だ。

「元親、」
「なぁ、頼む」

ずるい。
そんな甘い声で、優しい瞳でおねだりだなんて。ずるい。
はぁ、と吐いた吐息に了承の意思を汲み取った元親は、ぱっと顔色を喜色に変えて早く行こうとを囃し立てた。

外は雪が降り積もっている。
はらはらとふるのは牡丹雪。冷たい風が首筋を駆け抜け、はぶるりとみを震わせた。
淡い色のマフラーをきつく巻き、だらしなく垂らす元親のマフラーもきつめに巻いてやる。

「おいおい、苦しいだろ」
「うるさい馬鹿、風邪ひくっつってんでしょ」

ぎゅ、と軽く結んだマフラーなのだが、空きっぱなしのブルゾンのジッパーまで気になってそのまま閉めた。
海沿いの堤防は潮風に去らされてさらに寒い。
知りつつ頓着する元親にはため息が漏れる。
悪ぃな、と悪びれない様子でからからと笑う元親には文句もでなかった。

冬の海はどこか物悲しい。
雪雲が広がる空は暗く灰色の雲が広がり、視界は白く、海の向こうは霞んででよく見えない。
雪は積もることなく海水に溶け、凍ることのない海面は冷たい小波を繰り返すばかり。
真夏に見た海の面影もない。
それなのに、元親はただじっと海を見ていた。

潮の香りを孕む風は身を切るように冷たい。
は車に積んでいた毛布と水筒を下ろして元親の隣に運んだ。
食い入るように海を見つめる元親を包むように毛布を被せる。
傘は手が疲れるから嫌だと言う子供っぽい理由で却下されていた。
温かみのあるオレンジ色の毛布な中に、元親の銀色の髪が隠される。
まったく気にしない元親の脇で、は家で準備した水筒から熱湯気味のコーヒーを注いだ。

「元親、コーヒー」
「ん、さんきゅ」


マグに注がれたコーヒーは湯気を立てる。元親は両手でそれを包み込み、はぁ、とため息か吐息かわからない呼吸を溢した。

「寒くない?」
「ああ」

蒼色の瞳は暗澹とした不安を煽るような灰色の海を見ている。
手持ち無沙汰になったは、仕方なく元親に倣って海を見ることにした。
生命の息吹を感じさせない冬の海は、ただただ、冷たい。

、」
「うん?」
「悪かったなぁ」

それが、今日海へ連れ出した事に対する謝罪なのかはわからなかった。
複雑な感情を匂わせた元親の謝罪の声。
どう受けとるべわからずに口をつぐんでいれば、元親は視線を海に縫い付けたままへの言葉を続けた。

「今まで、独りにしてよ」
「元、親っ・・・?」
「思い出したぜ。昨日。だから、お前と海に来たかったんだけどよ・・・思ったより、寒いな」

にっ、と歯を見せて笑った元親がを見上げる。
深く座り込んでいた元親の隣に立っていたは、足元から力が失せるのを自覚した。

「お前、ずっと傍に居たんだよな。悪かった、独りにさせて」
「・・・もとちか、さま」
「今まで、ずっと居てくれたのにな。漸く思い出したんだぜ」

笑う元親。香る磯の香り。吹く風に熱を感じれば、500年前の情景が合わさった。

「ありがとよ、待っててくれて」

輪廻の度に、の傍にはいつも元親がいた。
数代に渡る人生の中で、元親が戦国の記憶を保持していたことは一度もなかった。
戦のない世だ、それが当然だしはそれでよしとしていた。
だが、寂しくなかったと言えば嘘になる。
痛い程涙腺を焼く涙。
あまりの熱に、視界が滲んだ。

「元、親っ、さまぁ」

溢れた涙が雪を溶かす。
そんな音が聞こえたような錯覚を感じながら、は元親の胸に倒れ込んだ。
痩せ細り、筋肉の薄い体。
車イスがふたり分の体重に、ぎしりと高い悲鳴を上げた。

「・・・本当は、思い出さなかった方が幸せだったかもな」
「そんなっ!」
「永くねぇ命だ。お前に無駄な期待をさせた」
「元親様・・・」

を抱き締めながら元親は言う。
日の光を知らない白い肌。
長い闘病生活でその色は血管が透けるほど薄く頼りなかった。
戦国であれば片手で巨大な錨槍を操り、その片手間にを抱き上げて海を陸をと駆けたものだったが、今ではそれが嘘のよう。
元親は冬の海と同じだ。
同じ顔を持ちながら、その面影はまるでない。
もう一人で歩くことも叶わない元親は、車椅子との介護がなければ用も足せない位衰弱しきっていた。

「後三ヶ月持つかどうかの命だ。お前を困らせたくなかったのになぁ」
「・・・弱気なこと。元親様らしくない」
「らしくない、か」

すうと目を細めて元親は海を見る。振り続ける雪が邪魔をして、視界は一向に晴れなかった。

「海が見たかったんだ。あの時、お前と見た夏の海をよ」

小さく呟いた声は、気を抜けばすぐに雪と潮風に浚われそう。
は必死に耳を研ぎ澄ませ、元親の体から熱が逃げないように毛布ごときつく体を抱き締めた。

「海が見たかったんだ。俺とお前が愛した瀬戸内の海を」

だが、元親はこれが限界の音量だった。
筋肉は衰え、臓器も弱り、神経は疲弊し全身が慢性的な痛みに喘いでいた。
加えてこの寒さ。
元親の限界は、こんなにも弱いものになってしまっていた。
そして命は、恐らく夏まで保たぬだろう。

、」
「元親様、私はずっと、これからさきもあなたの傍にいますよ」

美しいの忠節と愛情。
だが元親がすべてを覚えていなければそれは悲しいほど無意味に近い。
次があるかも確かではない。
元親は何度の生をないがしろにしたのか覚えはなかった。

ああ、と元親の喉が震える。

「死にたくねぇな」

こんなにも愛しているのに、元親はになにもしてやれない。
美しい着物も、華奢な簪も、逞しい駿馬もなにも。
あの頃は簡単に与えてやれたものなのに、今の元親はなにも持っていない。
この崩れ去ろうとする肉体以外はなにも、そう何一つ持ってはいないのだ。

「死にたく、ねぇなぁ・・・」

熱くなる目頭。
流れ落ちたふたりの涙は、瀬戸内の海から吹き付ける風が、乱暴なまでの力で拭い去るのだった。






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