耳を裂く人の喧騒。喉を焼く排気ガス。肺に貯まるのは塵まみれの薄い空気。 赤と青の信号機。人が行き交う横断歩道。走り去るバス、タクシー、電車の波。けたたましく忙しない光景、足音、飛び交う電子音と車の騒音。そこには立っていた。 黒い革の指定バック。少しよれたローファー。黒のハイソックスと白と紺のセーラー服。学校の制服。は呆然と自らの姿を見下ろしていた。 「?どうしたの忘れもの?」 「・・・おか、さ・・・?」 「ちょっと、あなた真っ青よ!?大丈夫?」 背後のドアが開く。 あれ程に焦がれた我が家。家族。現代。目前に広がる日常だったすべて。 はふらふらと母親の腕に寄りかかりその顔を見つめた。 「ほ、ほんとうに、お母さんっ?」 「お母さん以外のなんなの?そんな幽霊でも見たような顔して」 心配して額に掌を重ねる母親から伝わる熱が現実だと告げている。随分忘れていた母親の体温。安堵の呼吸を繰り返したは、次の瞬間、弾かれるように辺りを見回した。 「五郎八!五郎八はどこ!?」 「ごろーはち?」 「赤ちゃん、私の赤ちゃん!私の子供なの!五郎八はどこ!?」 「子供って、落ち着きなさい、妙な白昼夢でも見たの?」 「夢じゃない!五郎八は?あの人は!?」 「と、とにかく家にはいって!」 まくしたてるの腕を引いて玄関に戻る。突き刺さる好奇の視線は閉められたドアにより弾かれた。 「五郎八は?ねぇお母さん!」 「落ち着きなさい!深呼吸して。あなたに子供なんていないでしょ?」 「いるよ!私が産んだの!私と、私とあの人の子供なの!」 「・・・日射病でなにかで悪い夢を見たのよ。熱もあるかもしれないし、ちょっと待ってなさい。ね?」 母親は隠すことなく溜め息を吐き、玄関口で靴を脱ぐと電話に向かっていった。 残されたは忙しなく体を揺らし必死に記憶を探る。 政宗の指先の温度。五郎八の声。どれもあやふやで不確かで、確証にはならない。 だが、あの日々が夢や幻ではないことも確かなのだ。 はきつく体を抱き締め、瞼を閉ざす。 「夢なら覚めてっ・・・!」 あんなに帰りたかった現代。 でもここには五郎八がいない。政宗がいない。 が生んだ、の子供。 政宗とと、ふたりのこども。 「やだっ・・・五郎八・・・政、宗、さんっ」 ぽろりと流れた大粒の涙がの頬に沿って流れ落ちた。 こんなのはあんまりだ。 はやっと、政宗を受け入れることが出来たのに。 はやっと、あの世界を受け入れることが出来たのに。 「やだよ・・・まだ、まだ一緒にいたかったのに・・・」 どくどくと地が巡り心臓がうるさい。 部屋の中に響く母親の声と秒針が刻むリズム。 風の音、花の香り、虫の声さえ聞こえない。 ここはあの場所とは違いすぎる。 は、帰りたいと呟いた瞬間、ようやく全てを理解した。 「側に居て欲しかったんじゃない・・・側に、居たかったんだ・・・」 今さら理解しても遅すぎる。 自分達の間に聳える、見えない巨大な壁がふたりを阻む。 手を伸ばすべき方向さえわからないまま、はわっ、と声を上げて泣き出した。 あの低く響く声も、熱の滲む指先も、切なくなるほど隻眼も。 もう二度と見られない。手に入らない。 つらい、くるしい、かなしい。 は酷く後悔していた。 もっとちゃんと、政宗の声を聞いておけばよかった。 もっとちゃんと、政宗の事を知っておけばよかった。 中途半端に取り残された心が、政宗の側に忘れられて痛みを放つ。大切なものを忘れてきてしまった。 名前のない感情が脹れ上がって張り裂け存在を知らしめる。 爆発してしまったそれが好きだいう感情であったとと自覚してしまえば、もう二度と手に入らない幸福がを苦しめた。どうやったってふたりはもう永遠に会えるはずがないのだ。 二人は住む時間が違いすぎた。 結ばれるはずは元からなかった。 では何故、二人は出会わされたのだろう? この痛みを知るために、ふたりは出会い、引き裂かれたとでも言うのだろうか? 「あんまりだよっ・・・!そんなのってないよ・・・!」 大粒の涙がひっきりなしに溢れて零れて、の制服を雨のように濡らした。 政宗が燃やしたと言った制服も、靴も、鞄もこうしてここに存在する。 まるですべてが夢だったと嘲笑うように。 夢じゃなかったと証明してくれるものは何処にもない。 五郎八も、政宗も、ここには居ない。どこにも居ない。だけがここにいる。まるですべて夢だとでも言うように、あの歳月は涙に滲んでよく思い出せなかった。 制服も、靴も、鞄も。いっそ本当にすべて燃えてしまっていたならはどれ程救われただろう。 「、学校、お休みの電話入れたから、今日はもう休みなさい。ゆっくり寝ればすっきりするから」 「違う、そんなんじゃないよっ・・・」 心配する母親の顔も見られずはただ膝を抱えて玄関に座り込む。二、三声をかけた母親だったが、突然意味不明なことを言い出した娘にはお手上げだった。 とにかくリビングに運ぼうと、母親はの腕を引く。 しかし無気力に座り込むは動くことを拒否し、ぐずぐずと鼻を啜りながら頭を降った。 「じゃあ、先に鞄を部屋に運ぶから、自分で部屋に上がりなさい。いい?」 その言葉にはゆるく首を降り、母親の足音は階段を登って行く。 残されたは、形にならない思考の渦の中心で、ただただ失ったものへ想いを馳せるしかなかった。 何もかもが憎いくらい、心臓が抉られる様な喪失だった。 もしも願いが叶うならば、はあの世界に戻ることを望んだし、それが出来ないのならば、あの自分にもっと政宗に歩み寄るべきだったと忠告しただろう。 でもそれも、ただ一人が望む妄想だ、夢想だ、叶うはずのない願いだ。 自分はあそこがどこか知らないし、きっと政宗も自分がこことは知らないだろう。 ふたりを阻む時間、世界、あらゆるすべて。 心臓が焼けるように痛みを放つ。 この痛みを、誰にぶつければいいのかなんて、にはわからなかった。 その時、ふいにトントン、とリズミカルに戸口わ叩く音。 今日日インターホンを鳴らさないのは珍しい。 だがにそんなことは関係ない。 ひくつく喉で嗚咽を上げ続けるは、来訪者を無視してひたすらに泣き続けた。きっと、世界で以上に不幸な人間はいやしない。 だが無遠慮なノックはまた続く。トン、トン、トン、トン、と。 まるで誰かいるのをわかっていると言わんばかりのノック。 はこんなに悲しいのに。 そう思うと腹が立ってきて、怒りに任せて立ち上がり、鍵を開けて勢いを殺さずにドアを開く。新聞の勧誘でも、セールスでも、誰でもいい。今なら殴っても許されるような気がしてしまった。 文句を叫ぼうと肺いっぱいに空気を含んだ。 視界の先には見知らぬ男が立っていた。 「Hey、。急に居なくなるなよ」 にやり、とシニカルに笑った男の髪が揺れる。 少し鳶色の混じる明るい黒髪に、右目を覆う医療用の眼帯。 学ランと白いカッターシャツの下には紺碧のシャツ。 年の頃は同じか上か。 立ち尽くすに、男は優しくの頬を撫でながら美しく笑うのだった。 「お前が急にいなくなるから、今までずっと忘れられなかったんだぜ?責任はとってもらうからな。You See?」 心臓に響く低い声。優しいくらい熱い指先。胸が締め付けられるような隻眼。 暫く呼吸を忘れていただが、ようやくゆるりと息を吐いた瞬間に同じタイミングで涙が頬を伝った。 「ま、さ・・・ね、さ?」 「It is so. I wanted to see you and came to here. I can meet you and am very glad. How about you? I think that I am very happy if your feeling is same as me.」 「わっ、わかん、ない、よっ・・・ちゃ、ちゃんと、いっ、言って、」 しゃくりで震える喉のせいで言葉は不格好に揺れる。 それを聞いていた政宗は困ったように、それでもあの頃のままの優しい笑顔を浮かべたまま、あの頃よりも少し薄く、柔らかい掌での頬を挟んだ。 「お前が好きだ。500年、の事だけを考えて人生を繰り返してきたんだ。なぁ、俺の名前、呼んでくれよ。やっとお前の気持ちが聞けたんだ。一回こっきりなんて酷ぇ話だろ?」 どうしようもない程、涙は止めどなく流れ落ちる。 名前を、呼びたいのに喉は不規則に息を吸う。それにつられて肺は上手く機能せず、息を吸うのも吐くのもままならない。 それが歯がゆくてまた涙が流れた。こんなにも、今、自分が声を必要としているのに。 は自分の両頬を挟む政宗の掌に自分の物を重ね、逃げられないように、夢が覚めないように必死にすがり付く。 それに答えるように、政宗の唇がの涙を拭った。 「ま、まさ、む、っさん、政、む、ね、さ」 「、、好きだ。」 骨の髄にまで届く、低く響く声が体の中で反響する声。 涙が出る位に心地よい痺れ。永遠に失いかけた幸福が今ここにある。 心臓を締め付ける程の喜びには涙を幾筋も流した。 「ど、しよう。わ、私、」 「ん?」 「す、き、政、宗さんが、すき、」 刹那、政宗の身体中の力が抜け、それでも次の瞬間には現実を確かめるようにきつくを抱き締めていた。 ぎゅうと音がする程強く掻き抱かれる。 服と肌が邪魔しなけれは、境界線を失わせるほど力だっただろう。 「言うの、遅ぇよ」 耳元で囁かれた言葉は責めるような声音よりも、呆れながら、でも待ちわびたと言わんばかりの喜色に染まっていた。 堪らず政宗の首に腕を絡め、もう一度政宗さん、と喉を震わせる。 肌を伝って脳を揺らす声音に政宗は何度も好きだと囁き答えた。 そうして漸くの呼吸が落ち着いた頃、腕の力を抜いた政宗は右手での顎を捉え口付ける。 唇が触れ合うだけの稚拙なキス。それでもふたりには十分だった。 なにせ500年越しのキスなのだ。 触れ合うだけで、心が潤み、言い表しがたい感情に胸が震える。 政宗は、その気が遠くなるほどの時間の中で、に会いに来てくれたのだ。 それを愛しく思わないはずがない。 思えばまた涙が溢れて、政宗は困ったように肩を揺らした。 「お前、よく泣くな」 「だっ、だって、」 ひくつく喉に声が震える。 政宗はもう一度触れるだけのキスをして、の涙を親指で拭った。 「なぁ、。今からまた、俺と一緒に生きてくれねぇか?」 掠れながら響いた甘い声、不安に小さく震えた指先、そして泣き出しそうな綺麗な隻眼。 一体誰が首を横に触れただろう。 こんなにも、全身が好きだと告げてくれているのに。 一体誰が、嫌だなんて言うんだろう。 は頬に触れる政宗の手を包み出来るだけ綺麗に笑った。 言葉にならない、言葉に出来ない想いを伝えようにも、これが精一杯だった。 「一生、傍に居てくれ」 もう一方の手での髪を撫でる政宗に、は我慢できずに俯いた。 この人は、なんて愛しいんだろう。 こんなにも簡単に、の心を浚ってしまう。 思うままに首を降れば、その反動でまた涙が流れ落ちた。 政宗はの後頭部を優しく捉え、強制させない柔らかな力での顔を上げさせる。 三度目のキス。 優しくて、ふわふわとした心地。とても幸せになるキスだった。 「愛してる、」 「わたし、も」 溢れるほどに満たされる心。 きっと、世界で以上に幸せな人間はいやしない。 500年にも渡る大恋愛の成就だなんて、きっと他の誰にも成せやしないだろう。 は、失くしかけた大切な人に抱かれながら余りある幸福にゆっくりと最後の涙を流した。 それはまるで |
そう、運命だったのだ