小十郎たちと合流した政宗は、一個小体を残し兵治の遺体の回収を命じ、すぐさま城へと帰還した。 城につくなり薬師や医師を集めの治療に言い渡し、成実の部屋へと向かう。護衛の兵を下がらせ、そうして極力音を立てずに襖を開いた。 煩い雨の所為か、真夜中だと言うのに眠ってもいない成実の枕元に腰を下ろす。毒はまだ抜けきらないらしく、昼間よりましとは言えまだ青い。 「成実」 「ぼ、ん。ちゃんは」 「無事見つかった。桜井は娘が責任をとったから不問だ」 「そか、無事でよかった」 「あぁ・・・」 兵治は。 以外にも聞き返してこない成実に政宗はどうしたものかと思案する。 兵治は成実の隊で、取り分け手塩をかけて育ててきたことを政宗は知っていた。成実の右腕たる男だった。だか成実はそのことには何も聞かず、政宗の隻眼を見てつめ相変わらずの子供の様な笑みをニヤリと浮かべる。 「成実、」 「梵、ちゃんのところ、行きなよ」 「・・・」 「俺、もう大丈夫だぜ?ほら、痩せ我慢しなさんな」 そうして邪魔者を払うように右手を振り政宗を無理矢理部屋から追い払う仕草をしてみせる。病人にまで気を遣われるとはなんとも情けない。それでも、従兄弟の有難いほどの気遣いに政宗は成実に小さく礼を言い、の部屋へと足を向けた。 一人取り残された成実は、天井に向かって一言ぽつりと呟く。 「・・・兵治。ちゃん守ってくれて、ありがとな」 なんとなく、こうなるかもとは思っていたが、それでもやはり悲しみは拭えなかった。成実は見えぬ痛みをやり過ごすために、ようやく眠りを甘受し始めた。 医師たちの頑張りで漸く体温を人肌にまで取り戻したらしいは、今は風邪の処方箋を飲んで眠りについたらしい。 「全身打撲で左足の捻挫。特に酷いのは右腕ですな。少しひびが入ったようです。頭を打っていないのが奇跡ですよ。しかし暫くは安静ですな。見たところ、崖から落ちられたときに体を庇われたのでしょうね。いやぁ姫様は真に素晴らしい母親になりますでしょう」 控えめに笑ういつも世話になっている医師に頭を下げると「母子共に命に別状はありませんので、どうぞお大事に」と一礼し部屋を退室した。 残された政宗と女中数名だが、喜多が指示を出したのか、彼女らはしずしずと部屋を立ち去りすぐにと政宗二人きりの空間となる。 政宗は静かに眠るの顔を見て、朱の射した頬と穏やかに上気する胸を見て泣きそうになった。 「無事でっ・・・よかった・・・」 答えはない。だが、がここにいる、ただそれだけで十分だった。 伊達政宗の半生は、肉親の血を拭わずしては語れない程に、壮絶なものであった。 幼少期、政宗がまだ梵天丸と言う名の幼子であった頃、伊達家を継ぐ嫡男としての教育を受けることを義務付けられていた梵天丸は厳しくも優しい両親に愛されていた。 だがしかし、突如としとその幸福な日々は目の病により奪われる。疱瘡だった。右目の肉が爛れ、眼球が腐り、目玉が飛び出しそうになるその姿はこの世のものとは到底思えず、母である義姫は梵天丸を拒絶し、近寄ることも触れることもせず、そして許さなかった。まだ年も片手程の梵天丸にはまだ母の愛が必要であったが、それを得られない梵天丸は目に見えて衰弱していく。第一に疱瘡は死の病だった。治療法も薬もない。死は目前でもあったその頃、丁度奥州は重なる自然災害に輝宗が城を空けることが多かった。一人病に臥せ、小さな命が掻き消されそうになる梵天丸を救ったのは、今こそ竜の右目とも呼ばれる小十郎である。 その腐った右目を切り落とし、小十郎自らが梵天丸の目になるといったのだった。 両親の腕を得られなかった小さな梵天丸は、その小十郎の腕から肉親にも勝る愛と温もりを得たのだ。 病を克服し、快活な少年へと変貌した梵天丸ではあったが、その頃政宗は漸くして弟の竺丸。小次郎の存在を知る。 自分が得られなかった母義姫の愛を一身に受ける弟に、政宗はどうしようもないほどに傷付いた。 梵天丸を見れば辛辣な言葉を吐き、侮蔑の視線を持って梵天丸を射抜く。暴言と共に手を(直接ではなく、扇子などの物理的なもので)上げる事もあった。しかし竺丸には優しく腕を伸ばし、その小さな体を抱いてやり、愛おしそうに微笑み肌に口づける。政宗は義姫のその姿を、自分には与えられなかった愛を、襖の陰から見ることしかできなかった。 輝宗は伊達家を継ぐに相応しい当主たれと、梵天丸を甘やかすことはなく、父として、家督を継ぐ者としての優しさと厳しさをもって梵天丸に接した。 梵天丸は甘やかされる竺丸を見る度に、伊達家は自分でなくても竺丸が継ぐほうが良いのではないだろうかと考えた。あんなにも愛される子供なら、きっと自分よりももっと立派な君主になるのではないかと、幼心にそう感じていた。 しかし、そんな梵天丸の心情を知る由もない周囲は、梵天丸の家督相続の基盤を整える為に奥州内部の同盟を図る。 梵天丸、十一歳。彼は藤次郎政宗と名を改め元服。その二年後、梵天丸の妻にと召し上げられた田村家が姫、愛。 お互い年は十三と近かったこともあり、二人は直ぐに打ち解け合いそうして己らの立場を理解しているからこそ手を取り支え合った。 そうして、齢十五を越える頃、政宗は正式に父輝宗からの家督を相続する。 年若い国主であった。背負う責務は計り知れず、寄せられる期待は常に絶えず大きかった。しかし政宗は何一つとして不満はなく、満たされていたとも言える。 傍らには愛する妻と、信頼できる忠臣が。相変わらず疎まれているものの、義姫と小次郎は大事なく息災で、輝宗は隠居後も政宗を援護してくれていた。 政宗は、これ以上にないほどに満たされているはずだった。 だが、運命の日は巡る。 畠山氏の反逆。 和議による五村安堵では飽きたらず、再び奥州制覇を夢見てか父輝宗を拉致。 争いが長引くことを恐れた輝宗は政宗に自らもろとも敵を伐つよう命じた。 これが、肉親の血を浴びる政宗の業の始まりであった。 弟と母親の有らん限りの罵倒を受けながらも気丈に振る舞う政宗。輝宗の弔い合戦に向かう政宗に、愛姫は御武運をと、泣き笑いを見せた。その愛姫の祈りもあってか、辛くも得たのは勝利。しかし失った代償は大きかった。 重鎮数名を失ったことを詰り憤る義姫は、政宗に伊達ひいては奥州を統べる能はなしと判断。その後政宗暗殺、弟の小次郎への家督相続を画策する。 そして、会合の席にて、義姫は政宗の盃に毒を盛った。 致死量の毒。それを実の母から送られる政宗の心は未だ誰にもわからないだろう。 二度目の運命の日、その盃を奪ったのは愛姫であった。 「あなたがこんなものを飲む必要は、何処にもありはしないわ」 そう言って政宗の盃を奪った愛姫は、ごくりと飲み干すと同時に血を吐き悶え苦しみ息を引き取った。 二人の明確な殺意が露になった瞬間、政宗は血走る瞳で吼えていた。まるで手負いの獣の様に。ただ激情のままに小次郎を粛正していた。 血を分けた弟を手に掛け、その首を討ち取る。二度目の肉親殺しに、理性など伴っていなかった。ただ果てのない怒りと憎悪の激情が、政宗の腕を引いていた。 次いで響く怒りと悲しみと憎しみを織り混ぜた義姫の絶叫を耳にしながら政宗は母であるひとを見下ろし、その美しい黒髪を乱暴に切り刻んだ。出家を命じ、伊達からの追放。そして兄の最上家に与することは許さなかった。 しかし高い教示を持つ義姫がその命を大人しく受ける筈もなく、その場で絶縁を申立て、無いような血の絆を断ち切った後に行方を眩ませた。 政宗は、ただひとり、伊達に残された。 そうして緩やかに壊れていく。 政宗はがらんどうになった。 耐え難い程の空虚であった。 信頼できる部下。守るべき民。地位に名誉に名声に、富も権力も武力も持っていた。 それでも、政宗は空っぽであった。 肉親を殺めた腕で他人の幸福を祈り国の幸せを願う人を殺してまわる。 政宗の耳にはいつまでも義姫の言葉が木霊していた。 「この化け物っ!!」 政宗は、空っぽだった。 怒りも悲しみも遠くなる程に。 小さな梵天丸は、小十郎がすべてを掛けてその存在を肯定してくれた。 伊達の当主である政宗は、愛姫が常傍らに居てその存在を愛してくれた。 それでは自分はなんなのだろう。 政宗は、伊達の名を持たねばなにも持っていないことが知らしめられた。 地位も名誉も名声も、富も権力も妻も部下も土地も民も、みんな伊達政宗のものなのだ。 政宗には、なにも残されていなかった。 否、はじめからなにもない。 義姫の愛を失った時点で、政宗には何もなかったのだ。 望まれるままに国を統治し戦を繰り返す。伊達を、奥州を統べる王であれと言った輝宗の言葉のままに政宗は生きてきた。 政宗になにも持ってはいなかった!なにひとつ! 政宗自身は奥州筆頭として生かされてきた。では奥州筆頭でなくなったとき、政宗はどうなるのか。何も持たない政宗を、一体誰が必要とするというのだろう。 部下や敵は強さを求め、女は権力と富を求めて政宗に媚を売った。奥州筆頭たる付属を失えば、政宗は自分が存在しないに等しいのだと感じていた。 虚ろな生。 そうして、三度目の運命が巡る。 異国の着物に身を包んだ少女は奇しくも愛姫と寸分変わらない顔立ちをしていた。生き別れた双子と言っても差し支えないほどに。 だから政宗はを愛と呼んだ。 空っぽの伊達政宗を満たすためには愛姫が必要だった。肉親の血で汚れながらも政宗は家族と呼べる絆が欲しかったのだ。部下や他人では駄目だ。家族が、何者も断ち切れないはずの血の絆が欲しかった。 しかし、は愛姫であることを拒絶し否定した。 それは義姫が行ったことと同じで、政宗の心の幼い部分、小さな梵天丸は耳を塞いだ。ただ妄信的にを愛姫だと信じ込んだのは、愛姫や義姫のように失いたくなかったから。手を離せば掌からこぼれ落ちてしまいそうで、だから政宗はを執拗に縛り付け拘束した。 幼い狂気滲む、彼の愛だった。 だが、政宗の幻想は成実によって打ち砕かれる。未来人。の正体を打ち明けられ、政宗は漸くその目隠しを外すことにした。 わかっていたはずだったからだ。死者は蘇らないし自分は許されない。一度納得してしまえばあとは容易い。美しく聰明だった愛。可愛らしく儚い。相容れないと分け隔てればなんてことはなかった。奥州筆頭伊達政宗は、愛姫に愛された記憶だけで生きられる。いままでも、これからも。 そうして残されたのは未だ空っぽの政宗だ。 何も持たない政宗。そして何も知らない。 はこの世でただ一人、政宗を政宗として見ることのできる人間だった。 広がりすぎた地位や名声に誰もが政宗に傅き、愛想を売り、刀を向ける。だがは政宗の地位や名声など知らなかった。目の前にいる政宗自身を見ていた。 それに気づいてしまえば、止めどない激情が政宗の中を駆け巡る。は、空っぽの政宗をこの世で唯一満たしうる人間だった。 だからこそ一層手放したくなかった。側に居てほしかった。打算も思惑も駆け引きもない。ただ側に居てほしかった。だから抱いた。必要だった。遠くに行けないように繋ぎ止めた。政宗が政宗として生きていくためには、が必要だったのだ。守りたかった。慈しみたかった。がいてくれれば、これ以上の幸福はないしさらに強くなれると思っていた。 愛していた。 政宗は、を強く想っていた。 だから妊娠がわかった瞬間、誰よりも嬉しかったし少しだが泣いた。肉親の血で汚れた自分が子を成すことを許されたのは、まるで輝宗や義姫に許された心地であったからだった。 名実共に自分のものになったという幸福感。 は梵天丸でも伊達政宗でもない。政宗の子を宿したのだ。 だからこそ側室達はみんな家に戻らせた。 以外必要なかった。 満たされていた。 そうしてまた失いかけた。 静かに眠るの腕を取り、政宗様は震える呼吸をなんとか抑える。 「、頼む。俺ひとりにしないでくれっ・・・」 眠りを邪魔しないように静かに囁く。 愛している。失いたくなんてなかった。 地位も名誉も名声も、この左目も心臓も捧げたっていい。 「俺からを奪わないでくれ」 見えない神とやらに懇願する。 政宗はただ静かに、の眠る横顔を見守った。 |