「・・・ぅ」

緩やかな意識の覚醒と土の肌触り。少しだけ瞼を開けば、すぐ目の前に土や小石が散らばっていた。咄嗟に体を守るようにして巻き付けた腕には擦り傷が広がり、血を流す傷が幾つもある。

「わ、たし・・・」

くらくらと平衡感覚が足りない視界で辺りを見回せば、遥か頭上に切り立った木々の森の端が見えた。

「あそこから落ちたのっ・・・?」

今生きていることが不思議なほどの高さにはぞっと身を震わせる。
それと同時に全身に走った鋭い痛み。骨身に染みるそれには声を抑えて呻いた。

「へい、じ、さん」

一緒に落ちた兵治はどうなったのだろう。あの崖崩れの直後、は確かに兵治に庇われる様に抱きしめられたのを覚えている。痛む体を擦りつつ周囲を探せば、そう遠くないところに横たわる兵治の後ろ姿が目に入った。

「兵治さん、兵治さん大丈夫ですか?」

立ち上がろうとした瞬間、熱と電流を一気に流されるような感覚には思わず悲鳴を上げた。
着物の裾を捲ればすっかり白くなった肌には不気味な紫の花が咲く。折れてはなさそうだが暫くは使えない。右腕は奇妙に痺れる。こちらはもしかしたら折れたのかもしれない。
身動きも録に取れず、痛みに泣きそうになるものの、生きているだけで儲けものだ。
は素早く思考を切り替え、這うようにして兵治の傍に接近した。

「兵治さん、兵治さん!」

なんとか傍らに到着し、横たわる体を乱暴にならないように揺すった。
随分深く気絶しているのか、反応を返さない兵治に痺れをきらしたは、もう少し強く兵治を揺すろうとする。その時だった。
鎧から剥き出しの腕にの指が触れる。
ぐに、と弾力のないゴムの様な肌触りとそれに伴う肌の冷たさ。

「ひ!?」

思わず勢い良く腕を引けば、着物の袖が鎧の金具に引っ掛かって兵治の体が大きく揺れた。

「・・・っ!!!」

見開かれたままの瞳は血走っていて、紫に変色した唇からはだらしなく舌が飛び出し、口端からは泡が溢れていた。

「あ・・・ぁ・・・いや、いやっ・・・!!」

冷たく動かない兵治からあとざする様に離れるが視線はそこから外せない。
叫び出してしまいたい衝動なのに、は両手で口を覆いその悲鳴を押し殺した。
一気に体が震える、涙が溢れて頬を伝う。それがやけに熱く感じるほど、の体もまた冷えきっていた。
恐慌に呑まれるの精神。耐え難い恐怖には背後の岩場にすり寄り、己の肩を抱いて限界まで体を縮めて震えるしかできなかった。

「いや!いや!いや!やだ!!なんで?どうして!?私が何したって言うの?なんで殺されなきゃならないの!?なんで命を狙われなきゃならないの!?私は何もしてない!なにも悪くない!なのになんで!?嫌、いやだ!誰が助けてっ、お父さん・・・!お母さん・・・!助けて・・・!助けてっ!恐い・・・!いや!・・・やだ・・・こわい・・・誰かっ・・・!」

歯の根が合わない程には震え、がちがちと響く不協和音が更にを追い込んでいく。
成実も兵治も居ない。体はまともに動けない。地理もわからないし武器もないのだ。
もしまた忍が現れれば、今度こその命はない。
助けがくるのがいつになるかは分からない。第一助けが来る前にの命は奪われる可能性もあるのだ。

「成実さんっ、兵治さんっ、・・・誰でもいいっ、助けてっ」

脳裏に浮かんだ隻眼が、と優しく名前を呼ぶ。はそれには答えられず、ただ踞り冷えていく体を抱いて助けて、と繰り返すのみだった。

段々と曇天が広がり、灰色の雲が空一面を覆う。季節は冬だ。雪はまだとはいえ奥州の北風は刺すように冷たい。
は何度も両手や爪先を擦り合わせ、精一杯の暖かな空気を吐き出す。
先の見えない恐怖に、は自分も死ぬのだろうかと兵治の死体を見ながら考えた。
兵治はきっと忍の毒で苦しんで死んだ。はどうなるのだろう?凍死か餓死か。
どちらにしても苦しいだろう。枯れない涙がまた目尻を濡らした。

「死にたくないっ・・・」

寒さと恐怖に震える声で呟けば、それを嘲笑うように風が一陣吹き抜ける。骨にまで染みる風の冷たさには膝を抱えた。

「死にたくない、死にたくない、怖いよ。寒い、辛い、もうやだ。帰りたい。家に帰りたい。お父さん、お母さん。死にたくないよ、怖い、こわい・・・」

瞼を閉じてすべてを拒絶すれば、世界から隔離されたの心音だけが耳に響いた。どくどくと煩いそれは、緊張と恐怖に早鐘を打つ。

ひとりきりだ。

は最初から最後までひとりぼっちで孤独に死ぬのだ。
あまりにも救いのないエンディングにまた涙が浮かぶ。なんて救いのないストーリーだ。B級映画のほうがまだましな話を用意してくれるだろう。

「死にたくないよっ・・・!」

ぎゅうときつく体を縮めて風を凌ぐ。膝を抱え体を丸め、目を閉じ口を塞ぎ世界を拒絶したは、その瞬間、微かに響く鼓動を確かに聞いた。

「え、」

とく、とく、と早鐘を打つの心臓に合わせて小さな心音が体の中に響く。
本当に小さなその音だけが、今に寄り添っていた。

「あか、ちゃん?」

開けた視界には膨れた帯に守られた大きな腹がある。随分と成長した腹の中には命があるのだ。そこ感じる小さな鼓動。
はその腹に両手を宛てれば、掌越しに確かな鼓動が伝わった。
自分の心音とかぶるその命の鼓動、は唐突に自分が一人ではないことを理解した。ようやく、実感したのだ

「赤ちゃん、ここに、いるんだね。そうだよね、私はひとりじゃ、ないんだね・・・」

抱えていた体を解し、両腕を腹に回して抱き締めた。着物越しに感じた暖かさ。それはのものだが、同時にお腹の子供のものでもある。は寒さに震えながら下唇を噛み、なんども腹を擦りそこだけは暖かさを与えようと試みた。

「大丈夫よ、赤ちゃん。あなたは絶対、守ってあげる」

認めてしまえば簡単だ。
体の中に眠る無力な命。それを守れるのは世界中を探したってただ一人しかいない。だけが守れる。だけしか守れない。
この世界はちっとも優しくない。辛くて悲しくて、怖くて痛い。
生きることが難しく、ままならない。
それでも、生まれるより先に死んでしまいたい程の無価値な世界でもないのだ。
蒼く栄えた奥州の光景を思い出しながら、は腹の中の子供に小さくもはっきりと囁いた。

「ママが、絶対守ってあげるからね」

深くなる夜に次第に太陽は姿を隠し闇を呼び込む。吹き抜けた北風を睨みながら、は意を決して再び兵治へと近寄った。
動かない兵治。その顔を見ないようにしながら、は震える指で鎧の金具を外す。露になった兵治の上半身に謝罪を告げて、は兵治の着物を剥ぎ取った。

山の夜は冷える。
は奪った着物を羽織り、死の香りが染み付いたそれで暖をとり、子供に向かって子守唄を歌うように何度も何度も、大丈夫よ。と柔らかな声音で繰り返した。









孤独がらないで

(ぼくはここにいる)