「全員配置に付け!オラオラさっさと行く!」

廊下に響く成実の声に、は何事かと思いながら書物から顔を上げた。
最近の暇つぶしはもっぱら読書だ。殆ど読めたものではなかったが、なにもしないよりましだった。

「なにか、あったんですか?」

世話役の女中に問いかければ、女中は困ったように笑う。

「甲斐の虎若子が来ているようで。昨今戦がござりませぬから、よく手合わせにとやってまいるのです」
「ふぅん」

甲斐の虎若子、とは一体なんだろう?独眼竜の様な二つ名なのだろうと考えて、はまた書物に視線を落とした。

敵を迎え撃つなら、城の警備が手薄になるかもしれない。

閃光の如く駆け巡った案は、にとって二つの意味合いを持っていた。
ひとつは、上手くいけば逃げられる。
もうひとつは、もしかした政宗を殺せるかもしれない。
荒唐無稽の浅はかな案であったが、思考が麻痺しつつあるにしてみれば、これ以上にない程素晴らしく素敵な案に思えた。
最近逃げる素振りを見せなかったせいか、忍も付いていない気がする。
はぼんやりと天井を見上げ、そして女中に視線を向けた。

「危なくなるから、部屋に居た方がいいですか?」
「はい、手合わせとは言え、お二人とも手練れでございますから」
「そうですか、じゃあ。先に厠へ行ってきます。読書も休憩にするので、お茶を頼んでもいいですか?」
「もちろんです、お待ちくださいませ」

一礼して退出した女中を見送り、は棚に隠しておいた小刀を胸元に忍ばせた。そうしていくつか呼吸を置いても部屋を抜け出す。
だが怪しまれぬように堂々とだ。
やはり直ぐに忍が現れる様子はない。
は履物を履き、逸る気持ちを押さえながら門を目指した。

お見送りや出迎えで、門がある場所は覚えている。門を開かす理由は適当に作ればいい。はいつの間にか小走りで駆けており、少し息を乱した。
門までの最後の角を曲がれば不意の人影に急いで立ち止まる。
門番ではない。
伊達軍らしからぬ衣装は驚く事に迷彩柄で、髪はド派手な橙だった。もしやこの男が甲斐の虎若子なのだろうかとは固唾を飲む。
男は馬をひいていて、恐らく馬小屋へ連れていくのだろう。

「馬・・・」

逃げるならば、足が必要だ。
の足ではきっと直ぐに捕まってしまう。はごくりと生唾を飲み、胸元に忍ばせていた小刀を取り出して握りしめた。
意を決し小刀を鞘から抜く。
迷彩柄の男に一歩踏み出せば、直ぐに気付いた男はに向けて視線を見やった。
驚きに丸く見開かれた目は男の表情を幾ばくか幼く見せる。それでも出来上がった細身の体躯はよりもずっと年上に見えた。

「そ、その馬を寄越しなさい」

両手で小刀を握り男に突きつける。切っ先は情けなくも震えているが、は怯えを押し退け声を放った。
男は二三度周囲を見回し、最後に自分を指差し「俺?」と心底驚いた風にに問い返す。

「あなたよ。その馬を頂戴」
「いやー、頂戴って言われてもこれ真田の旦那の馬だからねぇ」
「誰のでもいいから寄越しなさい!」

鋭くいい放ち、更に小刀で距離を詰めれば男はさっと両手を上げての進行を止める。

「ちょっとちょっとお嬢さん、そんなの人に向けちゃ危ないだろう?」
「お願いします。馬をくれたらなにもしませんから」

一分一秒さえ惜しいのだ。は忍の追ってに恐々しつつ、男に懇願するようにもう一度馬を寄越せと刀を突き付けた。

「うーん、俺様の判断じゃどうにもできないしねぇ。ところで、君何者?」
「っ私の事はいいでしょ!」

思わず叫んでしまったは自分自身に舌を打った。
愛姫と名乗るべきだったか、と名乗るべきだったか。その判断が出来なかったのだ。
男はふぅん、と短く相槌を打ち、鋭い籠手の爪先で頬を掻く。
頭の天辺から足先までを検分し、緩い笑みを見せて男は瞬時にとの距離を詰めた。
急な男の接近には思わず刀を退く。男は血の通わない冷たい籠手での手を取り小さく囁いた。

「俺様は猿飛佐助。甲斐の忍さ。君は竜の旦那の側室かな?」
「かいのしのび、」
「そ、君は馬なんてどうしたいの?乗れるのかい?こんなに震えちゃってさぁ」

包まれた掌から伝わる震えに佐助は小さく口角を吊り上げた。
小刀に刻まれた家紋は見覚えがある。記憶のなかのそれと照合しようとすれば、が消え入りそうな音で呟いた。

「お願い、私をここから連れ出して」

細い声音は二人にしか届かない。佐助はどういうことかと器用に片眉を上げての瞳を覗き込んだ。

「わ、私、無理矢理連れてこられたんです。ここに居たくないんです。このままじゃきっと殺されるっ。お願いします、馬をください。見逃してください。お願いしますっ」

焦燥が涙腺を焼く。じわりと潤む黒耀色の瞳に佐助は程なくして頷いた。
優秀な忍は大抵読心術を心得ている。例にも漏れずそれを会得していた佐助はの瞳に真実を見たのだ。

「馬には乗れる?」
「乗れません・・・で、でも乗ります」
「豪気だねぇ。ま、ちょっと旦那に掛け合ってみるからさ、それまで待って貰えるかい?」
「・・・助けて、くれるんですか?」

瞬いた刹那に涙が溢れる。
佐助は我知らずその涙を見つめていた。同郷の忍びは美しい女だ。対するは愛らしい女である。否、女であり少女でもあるその危うい容姿は随分食指をそそるものがあった。
到来する欲情の念に佐助は小さく苦笑しての手を握り直す。仕事に私情は挟まない主義だった。

「とりあえずは旦那の所に行かなきゃなんでね。お姫様、お手を拝借」

そのままぐいと腰を引き寄せ跳躍の体勢に入れば、思わぬ密着には小さな悲鳴を上げる。
その声に気を取られた二人は気づいてはいなかった。

「めご」

底冷えする洞窟に反響するような、冷たく鋭い、痛みを伴う呼び声。遅い掛かる殺気に佐助はから距離を取り、バランスを崩したはその場に膝をつく。
振り返らずとも声の主はわかっている。
正面の佐助の渋い表情を見つめながら、は凍っていく背筋に恐怖した。









キュートな誘惑