政宗に浚われて早数週間。うっかり過ぎた一ヶ月は、信じがたい真実の羅列を持ってしての気力を打ち砕いていた。
まずひとつ、諸悪の根元である政宗。彼の名は伊達藤次郎政宗らしい。つまり、あの男は戦国武将、独眼流と名高い歴史の偉人と考えられる。時代錯誤な同姓同名と一蹴してもよかったが、あの時見た袴や刀、それから髷を結わえた男たち。なりきりヤクザといってもやはり苦しい。
そうして古めかしい言葉の端々が時代を肯定してまわる。
つまりこの世界は、この時代はがいた平成ではないのだった。

拉致軟禁されて逃げ出そうにも帰る手立てがない。
は憔悴しきり、完全に事態に抗える心を失ってしまった。
唯一の救いは本当に衣食住の保証がされているという位だ。
にこの世界の事はなにも分からない。ただめごがしていたようにお茶や華を習って時間を潰すしかない。
もう一つは、夜も夜で政宗が毎日求めてこないのも心に余裕を生む事が出来た。
ただ拙い子供のような触れ合いを望んだり、猫の戯れるのように口付けられたり。最終的に喰われることはかなりの数あったが、暴力を翳してくることはなかった。
それでもの精神は、崩壊一歩手前で踏み止まっているに過ぎない。

「政宗様は近頃いたく機嫌が良い様子です。一重に愛姫様のお陰かと」

頬に傷を持つ偉丈夫がにこやか、とは言い難いが落ち着いたら調子でに声を掛ける。
丁度朝餉を終えていたは鋭い視線を小十郎に投げ掛けた。
小十郎は怖い。
政宗とは違う意味で恐ろしいが、小十郎は政宗の部下であるのでに手をあげたりは出来ない。だから睨む程度の反抗は許される。
これはがここ最近仕入れた知識の一端であった。

「政務も滞りなく、民らも無事田植えを終えまして今年の年貢の納めも宜しいでしょうな」

には関係ないが、正室の愛姫には必要だろうことを小十郎はつらつらと述べる。
さらに深くなる眉間のシワは小十郎のそれに匹敵するものだ。

「これから政宗様と私は幾つかの農村を回りますので、数日城を空けることになります」

その言葉には思わずはっと表情を変えてしまう。
正面の小十郎はたしなめるように眉を潜めた。
これでは「じゃあ脱走します」と言っているようなものだ。
いくら諦めたといってもやはり諦められないのだ。甚だしい矛盾であるが、自分の帰るべき場所はここではないのだから仕方がない。
内心舌を打つを余所に、小十郎はやれやれといった感じの溜め息を溢した。

「愛姫様の周辺の警護は成実が勤めます。どうか自重なさいますように」

暗に妙な事をするなと釘を指す小十郎に、は意地を張って顔を逸らす。
只警護が成実と言うのも頂けない。言葉を交わしたことはないが、遠目で見たことはある。政宗の従兄弟らしくなかなかに顔の作りが似て兄弟といっても差し支えがない。あの顔がまた近くにあると思うと自然と溜め息が出てしまった。

「・・・テメェのまわりには忍を張り付かせてある。武器以外は許可してあるからな」

ひやりと刃物のような声音が胸を刺す。
実際の刃を突きつけられるような錯覚の中、は小十郎の方を見ずに両手を耳に押し当てた。
小十郎は怖い。
この男はきっと眉ひとつ動かさずを殺してしまうだろう。
視線も声も存在も、その全てが凶器染みていての殺生与奪を握っている。
瞼も閉ざし現実をを拒絶すれば、暫くして小十郎が部屋を出ていったのを感じ取った。
そうしてはやっと息を吹き返す。

忍、時代錯誤なそれは人ではない。
姿形は人間であるが、感情を覗かせない瞳は硝子玉だ。否、そんな良いものではない。闇や死の、負の色を内包した眼は濁っている。
は以前一度手習い事の最中に廁に立ち、無謀にも逃げ出そうと試みたのだ。
着物で動き辛い上に裸足が痛い。それでも懸命に駆けるを兵卒たちが不思議そうに見ていた。
出口なんて知らなかった。
ただ逃げることしか考えていなかった。

「愛姫様」

暗く、平坦な声が耳元で響いた。ぞっとする、深淵の音にの体が一瞬硬直する。
その一瞬の内に、三つの何かが飛来した。
耳元を掠め、ひゅ、と風を切る音を聴いたかと思えば、それは地面に突き刺さっていた。
くない、
漫画やテレビでしか拝めないような、凶器。

「愛姫様、先生がお待ちです。お戻りを」

全身黒ずくめの、恐らく男だろう。感情の無い声と瞳がを貫いた。固まるを余所に、忍はクナイを一本拾う。そのまま左手の籠手を外したかと思えば、おもむろに自分の皮膚に刃を突き立てていた。

「ひっ!」

ぶつ、と肉を裂く音には竦み上がり、血を流している忍は悲鳴ひとつ上げはしない。
黒光りする凶器の上を、鮮血が怪しく光っていた。

「次は、手元が狂ってしまうかもしましません」

平坦な声で忍が言う。
次は殺す、と忍ばされた意味には力なく座り込んだ。土や砂利が痛い。だが忍は血を流しても痛がる素振りも見せない。
人形の様に、筋肉が動かない表情は能面だ。
次の瞬間には忍はおらず、心配して探し始めていた琴の教師の声が響いたのだった。

はその時の事を思い出し、自分の両肩を抱いた。
あんな恐ろしいものがそばにいるとわかれば、逃げ出す気力は削がれていく。
結局小十郎は傍におらずともを殺すことができるのだ。
そしてその時は、やはり眉ひとつ動かしはしないのだろうと思うと自分の命の軽さに苦笑が漏れた。

小十郎や政宗に必要なのは愛姫であってではない。
もまた人形なのだ。愛姫の身代わりに過ぎない。の命はのものでなく、愛姫のものなのだ。
だから政宗は手放さないし、小十郎や忍はを簡単には殺せない。だがすでには殺されている。
今此処にいるのは愛姫と呼ばれる者なのだから。









鈍くなった哀しみへ