奥州の夜は冷える。 凛とした冷たさを孕む夜風が頬を撫で、小さく吐いた吐息だが白くはなかった。 冷えた夜空は澄んで雲一つない。 冴え冴えとした夜を飾る月の光に目を細め、私はそっと縁側に腰を下ろした。 「Hey、。こんな夜分にどうした?」 音もなく現れた政宗公。 武人らしい身のこなしだと思うと同時に、忍の真似事のようだと感心する。 「今宵は月が美しいので、月見酒でもと」 「いいねぇ。俺も混ぜてくれよ」 そしてどかりと隣に胡座をかいた政宗公は、不思議そうに酒瓶を見た。 「先日いらした貿易商の方に。無理を言って譲って頂いたんです」 そう説明しながら蓋を開け、盃に注いで政宗公に手渡す。 政宗公は緩やかに匂いを楽しみ、くいと煽って隻眼を輝かせた。 「美味い・・・!」 空の盃を差し出す政宗公に、もう一杯注ぐ。 今度は殊更ゆっくり、味を楽しみ舌鼓を打つ。 「美味しゅうございますか?」 「ああ、堪んねぇ程の美酒だ」 酒を楽しむ政宗公の隻眼は、新しい玩具を得た幼子のようだった。 「お気に召していただき嬉しく思います。これは、甲斐の名産品でございました故」 わざと余韻を残す様にゆったりと言葉を紡ぐ。 「今や甲斐は過去の産物。そしてこの酒も。もう二度と世に姿を現すこともないでしょう。しかし、これは甲斐が存在した証。だからどうか、政宗公。この酒の味を忘れないでくださいまし」 「…Ok」 言いつつ三杯目を盃に注ぐ。 政宗公は流暢な異国語で返事を返した。 そう、甲斐はもうない。 武田も真田も、ない。居ない。存在しない。 「、」 「はい」 「俺が憎いか?」 こちらをまっすぐ見つめる政宗公の隻眼からは感情が読めなかった。 それでも私は、笑みを絶やしてやらずに頷く。 「もちろん憎いです。今だって、殺してしまいたい程に」 「恐ろしい女だ。酒に毒でも混ぜたか?」 「まさか!折角の甲斐の美酒に、そんな不粋な真似は致しません」 にこり、と一つ微笑みを落とし、次いで政宗公の手の平に自分のものを重ねる。 そして、そのまま腕を引き、不安定な体勢となった政宗公を縁側に縫い付けた。 同時に髪を結上げていた簪を引き抜く。 ばさり、と広がった私の黒髪は、夜の簾のように政宗公から光を遮った。 「殺すなら私の手で。そう決めておりましたもの」 極上の微笑みと黒光りする漆の簪。 「佐助に昔教わりましたの。数刻で死に至らせる毒。これを一突きすれば政宗公。あなたは終わりです」 自分でも感情のない冷たい声だと思う。 護身にと、なにかと教えてくれた佐助に感謝だ。 それなのに、何故か手が動かない。 「・・・抵抗をしないのですか?」 政宗公は紛れもなく強い武将だ。父や幸村を討ったのだ。 決して弱いはずがない。 非力な女一人跳ね返す位、雑作ないはず。 「抵抗されたいのか?」 「しなければ死にますよ」 「あぁ、そうだな」 なにを、 きつく睨み付けながらそう問う。 簪を握る右手が微かに震えた。 「私に殺されてしまえば、天下統一は果たせませぬよ」 「別に構わねぇ。あんたに殺されるなら」 思わず目を見張る。 この人は、いま、なんと? 「俺の願いは誰しもが笑って暮らせる世界だ。農民も武士も。だが、愛した女一人笑わせられないなら、天下統一なんざ意味がねぇ」 皮肉ぶった笑を浮かべる政宗公。 それでもその隻眼に嘘はなく、それが竜の本心なのだてひしひしと感じてしまった。 馬 鹿 に す る な ! 簪をかなぐり捨て、左手で胸ぐらを掴みあげ、右手に総ての力と感情をのせて振りきる。 肉同士がぶつかる高い悲鳴。 政宗公は大層驚いたらしく、片方しかない目を白黒させた。 「っふざけるな!あなたは天下を目指す多くの人間の命を葬りながら、自分は容易く命を投げ出すのか!? 多くの命を貪って、多くの夢を踏みにじって、そうしてここまで来たくせに! 多くの人間の夢を無碍にして、秤にかけるのが私の願いだと!?」 口惜しい、口惜しい! こんな男に!父は!幸村は! 殺されたというのか!? 「愚かで傲慢な竜よ。私はお前を殺してはやらない。決して殺してなどやるものか!」 す、と立ち上がり、政宗公を見下ろす。 ちりちりと怒りと憎しみが心臓で爆ぜた。 完全に呆けた政宗公のその顔に、こちらは自然に嘲笑が漏れた。 「生き永らえよ、竜よ。そしてこの現し世の地獄で腐るがいい」 「、?」 「あなたは父を殺した。上洛を夢見た父の命を奪った。あなたは生きて贖わなければならない。父達に、多くの命に」 政宗公に背を向け、月を見上げる。 寒々しい夜に浮かぶ満ち足りた満月。 「戦いなさい、政宗公。あなたは奪ってきた多くの命の為に、天下を取らねばならない。容易く死ぬことなぞこの甲斐の虎の娘が赦しません」 そうでなくては、父の奪われた命が意味を失う。 幸村や佐助が、何のため殺されたのかわからなくなる。 切っ掛けは私だったかもしれない。 されど政宗公。 あなたの心には天下統一の夢があっただろう。 「無為に死ぬなど許しません。 天下統一の後。 その時まで、決してあなたを楽には死なせません」 殺してなんかさしあげません。 冷たく言葉を降らせれば、固まっていた政宗公が小さく口許を歪めた。 「恐ろしい女だ」 「虎の娘にございますもの」 そうして、政宗公は苦笑を漏らしながら酒を煽る。 新しく酒を注いだ盃を空に掲げ、水面に写る月に微笑んだ。 「、俺は天下を取る。必ずだ」 約束しよう。 誰に、と言わぬまま政宗公が酒を飲み下す。 私は唯静かにええ、と相槌を打ち、受け取った盃に口を付けた。 嗚呼、なんと懐かしき、父の愛した甲斐の酒か。 |
前 だ け を 見 据 え て