「?」 「ん、ごめん。ぼーっとしてたみたい」 問いかけには柔らかく答えて頭を振った。 懐かしい記憶を夢に見たせいだ。 あれからもう3年経つ。 は教職に戻ることはなく、地元の専門学校に通い家業を継ぐことにした。 生活に変化もあった。 彼氏が出来た。随分久しぶりで、付き合いは一年半となり今日、結婚する。 ふたりとも三十路手前ということで両親が早くしておけと言ったせいだった。 長政の職業は奇しくも教師で、初めはどうしたものかと思ったが長政はの事件を知っていても気にするなと笑った。噂には尾鰭が付くものだとを信頼してくれた長政を好きになった。いや、好きになろうとしたのだろう。 事件を否定してくれる人を好きになって、忘れようとしたのだ。 は結局いつまでたっても自分が第一の汚い人間だった。 反対に長政は熱血教師で家族恋人生徒、誰にでもわけ隔てなく手を差し伸べる人間で、の自慢の恋人だった。強く眩しい人。 は、長政に甘えていた。 「緊張しているのか?」 「そうかも」 シンプルなウェディングドレス。 長政は和装を希望したがの希望を通してくれた。両親族だけが集まる小さな結婚式。いい年して友人を呼ぶのが少し気恥ずかしかったせいである。 それさえも長政は許してくれた。彼の優しさは人を堕落させる。は時折そんな風に思う。 「昔の夢を見たの。私が教師だった時の」 「そうか」 「長政はどう思う?教師と生徒の恋愛って」 短い沈黙の後、長政は後悔する様な苦い表情で呟いく。 「構わないと思う」 ただ一言。 *** パイプオルガンの音が響き、牧師が十字架を背負うようにして二人を待つ。 は父の腕から離れて長政の手を取ると、牧師が経典を開いて深く息を吸い込んだ。 「ちょっと待ったぁあああ!!」 突如、バン!と扉を吹き飛ばすような勢いでドアが開かれる。 逆光で姿は見えないが、影は一つ・・・いや、二つだ。 「市っ」 「え?」 長政の震える声に顔を上げる。だが、ちがう。そんなはずがない。あれは、あの声は。 「先生!その結婚ちょっと待った!!」 「けい・・・じ・・・」 喜びの名だ。 荒く息をつき、乱れたスーツ姿で現れた慶次の隣には、小柄な長い黒髪を持つ美少女が立っていた。 「長政様・・・ごめんなさい」 「市、どうして」 「お市ちゃん。ちゃんと言ってやんな」 ぐいと背を押され前に出た市と呼ばれた少女は長政が勤める高校の制服を着ていた。 はわけがわからず市と長政を見比べる。 「市・・・市・・・長政様が好きなの。長政様、結婚しないで・・・市、お腹に赤ちゃんがいるの。長政様の、赤ちゃんが」 「ほ、本当か!?」 は鈍器で頭を殴られるような心地だった。 市の腹はそう大きくは膨れてはいない。それでも四カ月程だろう。その関係性は、一時の過ちなのか、それとも継続されていたのか。 は長政の表情に戦慄いた。 驚きの次に染まった彼の表情は、歓喜だった。 ざわめく親族たちとの視線に気づいて、長政ははっとの方を振りむき表情を改めようとするが、しかしもう遅い。 「長政・・・」 「、これは」 「ずっとあの子と付き合ってたのに・・・私と結婚するつもりだったの?」 「ちがう、私は」 「この浮気者っ!!」 は叫ぶと同時にブーケを長政にぶつけた。淡い色の花が散る。長政は避けることはなく、白いタキシードが花粉に汚れて惨めだった。 「浮気なんかじゃ生ぬるいわよこれは裏切りよ!!分かってんの!?結婚相手よりも先に浮気相手孕ませるとかどうかしてるわよあんた馬鹿じゃないの!?今まで私に心底優しかったのも全部後ろめたかったから!?よくもまあ一年半も人の事騙せたものね!!気付かなかった私も馬鹿ですけど!?あの子の方が大切ならどうしてもっと私を早く捨てなかったのよこのグズ!!」 「、話を」 「話なんてないわよ!!いますぐ消えて!!こんな・・・あんまりよ・・・あなたなんかと結婚できるわけない・・・!信じられない・・・ふざけないで・・・!こんなこと・・・!子供って・・・消えて!!今!!すぐ!!私の目の前から!!どこかに行ってしまって!!」 ヒステリックな程のの罵声は天井高い後悔に高らかに響いた。誰しもが息を飲む。 は泣きだしそうになるのを必死に我慢して長政を見上げた。 「あなたは最低だわ。浮気のことじゃない。今まで黙ってたこと。それと・・・一番好きな相手を蔑にしたことよ」 本当は、一発殴ってやろうと思ったがやめた。 長政の方が泣きそうな顔をしていたからだ。 どうやったって長政が加害者なはずなのに、先に涙を見せたほうがまるで被害者だ。 は拳を握りしめ、全身の酸素を吐き出して長政に背を向けた。 長政は暫く茫然と立ち尽くした後、酒を帯びた様な力ない千鳥足で市という少女の下に向かう。 細く小柄で、弱弱しく可憐な美少女だ。普段勝ち気で亭主関白な長政にはぴったりだろう。今だって並ぶとこんなにも絵になる。 長政は泣きじゃくって何度も謝る市を静かに抱きしめていた。 はあまりの惨めさに、今すぐ蹲って顔を追って泣いてしまいたかった。 「・・・満足?」 は棘が生えた様な声音を慶次に投げる。 息を飲む慶次。あれから少し、大人になった。輪郭の丸みは消え、体はがっしりとしていた。大きくなったなぁとまるで場違いな考えが浮かんで消えた。 「先生。俺・・・」 「もう十分でしょう?帰りなさい。よかったわね、お望みのものが見れて」 「お望みの、もの・・・?」 「私が憎かったんでしょ?復讐のひとつくらいしたかったわよね。家族親戚の目の前で、結婚相手に本命がいて、捨てられる三十路の女なんて随分滑稽よね。B級映画だってありはしないわよ。少しはすっきりした?生憎これ以上笑えるようなことはしてあげられないわ・・・」 「なに、言ってんのさ・・・」 小首を傾げる慶次の髪が揺れた。 今はもう短く切りそろえられて、あの頃のように愛らしく揺れたりはしない。 それにしても、どうしてどいつもこいつも泣きそうな顔をするのだろう。これではが悪役だ。一番の被害者はなのに。 「あの時、あなたの気持を踏み躙った私に復讐しに来たんでしょ?それ以外に何があるって言うのよ!!」 突き刺さる視線。まるで世界中が敵だ。は苛立ちに任せてヴェールを床に叩きつける。髪が乱れて痛かったが、胸の痛みには遠く及ばない。 慶次は口をへの字にまげて眉を潜める。癇癪を起こす子供の様な表情には一瞬わけがわからなくなった。 「・・・っ先生のばか!!なんで俺の言ったことちゃんと覚えててくれないんだよ!俺は、先生が好きだって言ったのに!!次はちゃんと俺と恋しようって、そう言ったじゃないか!!」 「けい、じ・・・」 「俺は!今までずっと先生が好きで!一日だって先生のこと忘れたことなかった!先生に追いつきたくて、先生に似合う男になりたくて!!馬鹿だけど勉強すごい頑張ったよ!!大学行ってパリに留学して製菓の勉強した!おっきなコンクールで賞も取った!全部、全部先生に見合う男になりたくて!!」 ずっ、と鼻をすする。 涙で充血した目元をスーツの袖で擦りながら、慶次はの手を取った。 「俺・・・先生が好きだよ。今だって、あの時よりもずっと好きだ。頭がよくて、物静かで、束縛しない男にはなれなかったけど・・・先生が好きな気持ちは、世界中の誰よりも負けないよ」 泣きだす顔でゆっくりと弧を描く慶次の口元。 ああ。眩しい程のきらきら。 は目頭が熱くなるのを感じながら、星を散りばめた様な煌く慶次の瞳に吸いこまれる。 「さん、俺と、結婚を前提にお付き合いしてください。絶対絶対、幸せにするからさ」 慶次はの左の手の指を包み込み、薬指にそっと指輪を通す。 しかしそれは第二関節であえなく引っかかり、の指の付け根に収まることはなかった。 「あ、あれ?!先生指太った!?」 「太ってないわよ馬鹿!製菓作りしてたら関節が太くなったの!」 「やっぱり太ったんじゃん」 かんらかんらと笑う慶次の声がホールに満ちる。があげた怒鳴り声を掻き消すように。満ちる。 「ね、答えは?」 「・・・って呼んだら教えてあげる」 もう先生じゃないの。そう笑うの頬に涙が伝った。 慶次はを包み込むように抱きしめて、あの日のを真似るように耳元でそっと甘く囁いた。 「」 「馬鹿、こっちはもう後がないんだから・・・絶対に幸せにしないと承知しないんだから」 「大船に乗ったつもりで任せてよ」 快活に笑う慶次の笑みはあの日の少年の面影を残して、随分逞しく、そして男らしくなっていた。 きゅうと胸を締め付ける甘い痛み。 はウォータープルーフのマスカラとアイラインに感謝して、溢れる涙を止めようとはしなかった。 「私、あなたのこと好きよ。慶次」 3年越しに伝えた言葉は、想像よりもずっと甘く、優しく、ふたりの心を包み込んだ。 周りを置いてきぼりにして、ふたりは幸せだった。 ハッピーエンドではない。 これはなんてハッピーなスタートなのだろう。 そう笑って、3年ぶりに触れる愛しい命を精一杯の力で掻き抱いた。 |