結局その日姫は、昼過ぎまで泣き続けてはそのまま泣き疲れて眠り、目が覚めた頃には日が暮れ始めていた。 目が覚めれば元親の緩い微笑みがそこにあり、少し早い夕食をとって他愛ない雑談をしていれば夜になった。 なんだか眠ってばかりな気がすると言えば、元親は「疲れてんのさ」て笑いながら姫の頭を撫でた。 大きな手のひらは簡単に姫の頭を包み込む。 子猫を撫でるような仕草でくすぐったい。 その夜、ふたりはまた一組の布団で眠った。 元親は姫に手を出さなかったし、姫は元親をまるで男として意識しないようでいた。 元親としては姫があの約束を覚えていなくとも、ことを性急に進める気はなかったので、元親はただ姫をやんわりと抱き締めながら眠った。 遥か昔、お気に入りの玩具を抱いて眠った夜を思い出す。 その玩具は、未だ部屋の中で息づいていていた。 そして三度目の朝がやって来る。 ふたりが向かい合いながら瀬戸の幸が盛り込まれた朝食を取る最中、ふと姫は箸を止めて城下の煌めく海を見た。 「私、尻軽なのかしら」 「ぶっ!!?」 「やだ!長曾我部殿きったない!」 思わずあさりの味噌汁を吹き出す元親に、姫は急いで手拭いを渡す。 受け取ったそれで掃除をする元親は咳き込みながらなんでまた、と返した。 「だ、だってたった三日足らずでこんな打ち解けちゃって。敵対国ではなかったとはいえ私たち誘拐犯と被害者じゃないですか」 「まぁ、そうだな」 「だから、そうかなぁ?って思って・・・」 世間知らずの巫女は言葉知らずでもあるのかもしれない。 苦笑を隠した元親は、食事を再開して味噌汁を啜った。 「問題ねぇよ。時間なんざ大した問題じゃねぇ。俺とお前がお互いをどう思うか。それが一番でいいじゃねぇか」 「長曾我部殿・・・」 何故こうも元親の言葉は胸に染みるのだろうと姫は思う。 暖かな言葉は胸の中で膨らみ喉につかえる。 これでは食事もままならないて、姫はぼんやりため息を吐いて橋を置いた。その瞬間。 「兄貴!敵襲です!!」 「なにぃ!?こんな朝っぱらからか!?旗は?」 「それがっ、」 家臣の視線が姫に向けられる。 来たか。 姫は一瞬身構え、誰に言われるでもなく立ち上がった。 「河野の兵が来たんですね」 「・・・はい、」 「、」 元親の視線はいかにも気遣わしげで、後ろ髪を引く。しかし姫が行かねばならない。 「無駄に血を流す必要はないでしょう?長曾我部殿、ありがとうございました」 「おい!」 元親は急いで姫の細い手首を捕まえた。 振り向いた姫の瞳が、少し濡れていた。 「俺も行く」 「ですが」 「国主の俺が行かねぇなんて話、ねぇだろ?支度するから待ってろ」 そう言い元親は部屋を出る。 淡い藤色の着流しから戦鎧に着替えるのだろう。 姫は部屋に飛び込んできた家臣に目を向ける。 「私を外へ」 「けど兄貴は待てって」 「待ってる間にこの国の人が傷つけられるのはあの人も本意ではないでしょう。さ、早く」 元親は、誰よりも姫に優しくしてくれた。 父よりも、母よりも、姫に大切に触れてくれた。 ならばこそ、姫は元親の為にしてやれることをしたい。 無血停戦。 姫は迷う家臣を鋭く睨む、早足に廊下を駆け出した。 「私は鶴姫!鬼はどーんと退治します☆」 白と赤の衣を纏う少女は足場を凍らせまさしく滑るように戦場を駆け巡る。 疾風の如く飛び交う弓は寸分違わず敵にぶつかり、武器を弾きその動きを止めた。 「鶴!!」 「お姉さま!!」 城門から飛び出した姫は血の気が失せたのを感じた。 傷付き膝をつく長曾我部軍の人間達と、彼らに向けて矢をつがえる伊予の兵。 「なんてことっ・・・」 長曾我部軍は鎧を着込んでさえいない軽装だった。 それに自分を気遣ってだろう河野の兵に大して武装をしていなかったのだ。 「お姉さま!鶴姫が助けに参りましたよ!」 まるで、誉めてくれと尾を振る子犬のように鶴姫は駆けてくる。 姫は直ぐに足元の矢を拾い上げ鶴姫に投げつけた。 鋭い放物線を描いて矢は鶴姫の足元に突き刺さる。 「お姉さま?」 「これは・・・誰の命令なの?鶴」 「命令?いいえ、鶴がひとりで考えたんです!一緒に鬼をやっつけましょう!」 くらり、目眩を感じる。 鬼? そんなもどこにいるのだ。この国に住まうのは善良な人間ばかりだ。鬼などいない。言うなれば鬼は侵略者だった。 「・・・鶴、長曾我部殿は河野になにか文を出しましたか?」 「? いいえ?」 「なにか金銭を要求しましたか?」 「いいえ」 「では、領土を要求しましたか?」 「いいえ」 「では何故、お前はこの国の人々を傷つけたのですか?」 「だってお姉さま。長曾我部軍は悪い鬼でしょう?鬼退治は当然のこと」 鶴姫は自信に満ちた笑みでそう言いはなった。 そうだ。 領地を襲い、領民を殺し、宝を奪う鬼ならば退治されて当然だ。 しかし長曾我部軍は、国主も部下も、誰も殺さなかったしなにも奪わなかった。 姫をひとり浚っただけではないか! 「お姉さま?」 ことりと首を傾げる姫は、清廉潔癖純真無垢。汚れなく神に愛された先見の巫女。 だからといって 「私はお前が許せない、鶴」 「お嬢!」 背後の兵が止める前に姫は鶴姫に向かって飛び出した。 途中地面に転がること弓を取る。手に馴染む獲物を引き絞りつつ姫は鶴姫と対峙した。 「鶴、お前はただの巫女であって国の主ではないの。それなのにお前は父の許しもなく挙兵して他国を蹂躙している。わかっているの?」 「でもお姉さまを助けるためです!」 「では何故父に頼んで文を出さなかったの!?挙兵するにもお金がかかる。わたし一人のために起こすべきことではないから父はお前になにも言わなかったのよ!」 「でも」 「でもじゃない!」 しん、とあたりは静寂に満ちる。 河野の兵も、四国の兵も。みながふたりの巫女を見ていた。 「私はお前と同じ価値のある巫女ではないの。父上が私を見捨てたならば、私はそれに従うわ」 ぎりぎりと指を絞る腕の痺れ。 肺が震えて、訳もなく叫び出したくなる。 おかしなことだ。みんなわかっていたはずなのに。 「・・・です」 「鶴?」 「嫌です!私はお姉さまをぜーったい連れて帰ります!鬼になにか弱味を握られたのなら、鬼も私が退治しちゃいます!」 「このっ、わからず屋っ・・・!!」 鶴姫の弓の標準は倒れ伏す長曾我部軍に定められる。 軽傷でただ休んでいた彼らだが、婆娑羅の力で凍った地面では逃げられない。 弓が放たれるその数瞬前に、姫は自らも弓を放った。 姫の婆娑羅は風だ。 鶴姫のような鋭さには欠けるが速さはどんな名手の追随もゆるさない。 姫の弓は空で鶴姫の弓を打ち砕き、一体にばらばらと木の雨を降らせた。 「お姉さま!」 「鶴、神力はお前が勝っても、武力は私の方が上だったのは覚えてる?」 「〜〜〜お姉さまは間違ってます!」 「熨斗つけてその言葉返すわ!」 互いの神力が高まり婆娑羅の力に変換される。 空気はいっそう冷えてあらゆる水を凍らせ、風はそれに合わせて肌を切る刃のように唸った。 「お姉さまはおかしいです!鬼は悪いやつらです!やっつけるのが当然です!」 「何故なにも知らないうちに相手を否定するの!?お前はなにもわかっていない!」 向かってくる鶴姫の矢は氷のつぶてを纏って大地を抉る。 相対する姫の矢は風を纏って空気を切り裂く。 力は鶴姫の方が勝っているように見えた。だが素早く打ち放たれる矢は姫の方が手数が多い。 だんだんと押される鶴姫は、とうとう自ら産み出した足場で足を滑らせた。 「きゃん!」 大勢を崩した鶴姫に姫はさらに矢を打ち放ち、鶴姫が立ち上がれないように巫女服を氷に縫い付ける。 「鶴、今は帰りなさい」 「お姉さま!」 「お前は本当に言うことを聞かないんだから・・・いい子だから帰って。私を困らせないで。ね?」 「でも!」 「鶴。いい子だから。お前は国に帰りなさい。父は私を救う気なんてなかったのよ。あの人はお前がいればそれでいいの。ここはなんとか私が納めますから。鶴、お前は伊予に帰りなさい」 その声音は母のような労りと、父のような威厳を込めて見せた。 鶴姫の丸い瞳が揺らぐ。 父の愛する、先見の瞳。 自分が持ち得なかった神の寵愛。 そこに移る自らの顔は、気持ち悪いくらい歪んで醜悪に見えた。 「ーーーーっらぁああっ!!」 「鬼っ!?」 「長曾我部殿!?」 突然ふたりの頭上に影がさし、碇槍を掲げた元親が飛び込んでくる。 重量のあるそれは簡単に地面一体の氷を一気に砕き、纏う炎が氷を溶かした。 元親は碇槍を鶴姫に突き付け、崩れそうになった姫の腰を抱く。 「おい、鶴の字。これ以上鬼の住処で勝手されちゃあ困るぜ?」 「お姉さまを離しなさい!」 「おいおい、物騒なもん向けるなよ」 かんらかんらと笑う元親は鶴姫の矢を恐れる様子はない。 それもそのはず、氷が溶け自由を取り戻した長曾我部軍が伊予の兵質を取り囲んでいた。 「鬼を怒らせるのは得策じゃあねぇな」 「っ・・・」 「姫御前、ここは分が悪うございます」 「でもお姉さまが!」 「構いません。あなたの身に何かあっては伊予はおしまいです」 言うや否や、男はまるで忍のように煙幕を張って鶴姫を引き連れ脱兎のごとく逃げ出した。 河野の兵たちもそれに続く。 姫は、見えなくなる河野の兵たちの背をただ見送った。 元親は後を追う指示は出さず、負傷者の手当てのみを命令する。 「」 わかっていたはずなのに、涙が止まらない。 父が自分を愛さないのも、民が自分を必要としないのも。 みんな、すべて、わかっていたはずだったのに。 それなのに、これ程までに心臓が潰れるように痛む。 胸を掻きむしりたくなるような孤独の痛み。 悲鳴は耳の奥で木霊する。随分昔から共に生きてきた悲鳴の音。 「、あんま、自分を追い詰めんな」 「わ、た・・・し・・・」 「なぁ、俺じゃあ駄目か?」 ひくり、と喉をしゃくりあげれば元親の大きな両手が姫のほほに添えられる。 「お前を必要とするのが、俺じゃ、駄目か?」 暖かい声音。 少しかすれた空気。 まっすぐに見つめる蒼い瞳。 「ちょ、そ、かべ、どっ、の」 次から次へと溢れていく涙は元親の太い指を濡らした。 暖かい肌の温度と、溶けそうな程熱い涙の熱。 「俺にはお前が必要だ。それじゃあ、駄目か?」 胸の奥の深い場所。 極寒の闇に凍える心は、湯立つような海に拐われる。 「俺は、お前が必要だ」 な、と甘い声が足元を崩す。 姫は堪らず元親の腕に爪を立て、赤子のように泣きわめいた。 鼓膜を揺さぶる悲鳴は高く、潰された嗚咽はひしゃげて苦しそうだった。 不規則に喉が震え、涙ばかりは止めどない。 元親は姫の細い肩を抱き、隙間なく姫を抱き込んだ。 ややが産声をあげるのは、生まれてしまった絶望に泣いていたのかもしれない。 元親は、ふとそんな風に悲しくなった。 |