逃げ出した姫の行方をあたりの女中に聞けば、どうやら逃げ込んだ先は寝所らしい。
それもそうだろう、姫はまだこの城はあの寝所しかわからないのだから。
苦笑を隠しもしない上機嫌の主につられ、女中たちも随分初な姫に微笑ましさが隠せなかった。
着いた寝所の襖に手をかけるが、部屋の中の気配は固い。
声もかけずに襖を開けば、敷かれたままだった布団に大きな山がひとつできていた。

「おーい、の字」

布団に無理矢理剥がそうと思ったが、これ以上機嫌を損ねられても困る。
布団からすこしだけ離れた位置で胡座をかいた元親は、のんびりとした声音で姫の名前を呼んだ。
びくりと跳ねた布団に元親はたまらずにやにやと表情を崩す。
まだかまだかと待ちわびれば、密閉空間に息が続かなくなった姫の顔が布団から飛び出した。

「おう、」
「・・・・・・・どうも」

憎々しげに元親を睨む姫だが羞恥と酸欠で赤くなった顔などやはり、恐ろしくともなんともない。

「ほら、湯上がりでおてんとうさんも随分高いじゃねえか。んなあちぃとこに入らないで出てこいよ」

言えば確かに暑かったのだろう。しかしそれを気取られないようにしながら姫は布団を出て元親から少し離れて座る。

「なんか遠くねぇ?」
「ふ、普通です!普通!」

噛みつくように吠える姫に苦笑を溢す元親。
姫は恥ずかしそうに乱れた髪を手櫛で直した。

「・・・ここの人は皆変わっています」
「そおかぁ?」

大きく首をかしげる様はやはり国を預かる殿というより野を駆ける幼子に近い。
この国の人間は誰も彼もが噂と違う。

「・・・この国の人は・・・みんな変です」
「変って・・・なにが変なんだ?」

益々不思議そうに顔をしかめる元親に姫は視線が会わせられない。
膝の上で指を遊び、無意味に畳の目など数えてみる。

「みんな、私みたいなのにやれ可愛らしい、やれ美しい。そんなこと、国ではまったく言われませんでした」
「・・・」
「私は、美しくなんかないです」

神事をとりしきる身でありながら姫の心は清いままで入られなかった。
妬み、嫉妬、羨望。無い物ねだりの負の感情。
姫は自分がたまらなく嫌いだった。
すると少し間の空いた隣で胡座をかいていた元親の肩が震える。
なにかと見やれば元親は笑い出すのを我慢した、なんとも勘に触る表情をしていた。

「・・・なにか?」

自然刺々しくなる声音に怯むことなく元親は「いやぁ、」と笑う。

「あんたも十分変わってるぜ」

いうなり元親は部屋のに備えられていた小さな鏡台を引き寄せる。
埃避けの布を引けば、細かい細工が施されたみたことがないほど上等の鏡が顔を出した。

「南蛮ものさ」

姫の視線に答え、元親は手を降って姫に近づくよう合図する。
すこし渋った姫だったが、最後は諦めて元親の隣に近寄った。

「正面来いって」
「きゃっ!?」

ひょいと姫の腰を抱き上げ、胡座をかく自分の膝の上にのせられる。
まるで犬や猫にするように元親は姫の頭を撫でて、逃げられないように腰を抱いた。

「ちょっと!」
「大人しくしろって」

からからと笑いながら元親は軽く姫の顎を捉えて鏡を見るように固定する。
強すぎる力ではないが、強制されるとますます見たいものではない。
顔を背けようとする姫の頬に己の顔を寄せて、元親は鏡を見る。

「あんた、すげぇ美人だ」
「だからっ・・・!」

噛みつくように言い返そうとすれば、元親の指に力が籠り顔の角度を矯正された。
痛いと文句を言おうとすれば、夏の海面の色をした隻眼が姫を射抜く。

「お前、別嬪だぜ。

低く掠れた音に全身が震えた。
耳孔から脊髄に滑り込んだ音がすべての神経を掻き鳴らす。

「目はでかいし、黒い真珠みたいだ。まつげは長ぇし、肌も雪みたいだぜ。唇はさくらんぼみたいに旨そうだし、髪は艶っぽくて指通りがいいじゃねぇか。どこもかしこもやわらかくて抱き締めたくなる。お前は最高だぜ?」

甘く響く声が耳元をなぜる。
気恥ずかしさに全身の血が暑く煮えた。
みるみるうちに紅くなる頬にて羞恥で瞳が潤む。

「そんな、こと・・・ない、目はキツくて、怖がられるし・・・それになにより、私は・・・鶴みたいに、神様に愛されていないっ」

伊予の国で重要なのはいかに神力に長けているかどうかだ。
なので美醜はほぼ関係がない。
しかし姫を上回る神力と愛らしい容貌を持った鶴姫。
姫は、鶴姫を守る盾としか居場所がなかった。

「そういうのは、涼しげな目許っていうんだよ。それに鶴の字が神さんに愛されてて別嬪で、の字は神さんに愛されなくても別嬪なんだろ?あんたは十分、価値があるんだぜ?」
「価値・・・?」

お前には先見の目がない。
神力は低く、なにも予見できない。
お前程度はいくらでもいる。
ならばせめて、鶴姫を守れ。

「私の・・・価値・・・?」
「そうだ。俺にとって、お前は何物にも変えがたい財宝だ。最高の宝だ」
「宝・・・?私、が・・・?」

乾いた大地に降る雨のように、元親の言葉が姫の一番深い場所まで浸透していく。

「神力だとか、先見の目とか。そんなもん別になくてもいいじゃねえか。鶴の字だって関係ねぇ。俺は、あんたに惚れた。姫ってお前が欲しいんだ」

そう言って元親は腕をほどき、柔らかく姫を抱きしめる。
暖かい拘束。涙が出そうな人肌。
鏡の向こうの男は幸せそうに笑う。
抱き締められる女は、くしゃくしゃの顔で泣き出す寸前だった。

「不細工だわ・・・」
「ばぁか、かわいいってんだよ」

溢れ出そうな涙を唇で拭い、元親は喉を鳴らす。
姫は抵抗をしなかった。
ただ、自分を抱き締めてくれる腕に触れて、小さく泣きじゃくる。

「本当に、私に価値はあるの・・・?」

軋む声音は辛いと告げる。
元親は姫を抱き込む腕に少し力を込めて、さらに密接に抱きしめた。

「きっと、俺はお前を手放したら死んぢまう。それくらいの価値がある」

それはなんて甘美で優しい呪い。
必要であると。
生きる為には、姫が必要だと。
鶴姫の代わりではない。姫がいいのだと。

それはなんて幸福の滲む言葉。
姫のままでいいのだと。
姫が望み続けた、たったひとつの言葉。

「ここにいろ。な?」

甘い、甘い、この世のすべての幸を集めたような美しい誘惑の鎖が姫の心を絡めとる。
太い腕をした鉄格子。
逃げる決意をするには、この牢屋はあまりに暖かすぎる。
子供のように泣きじゃくりはじめてしまった姫は、否定も肯定もできないまま、ただただその腕にすがり付いた。