朝の空気を震わせる海鳴りの音に、姫の意識はだんだんと覚醒に近づいていく。
まだ春の面影の遠い冷えた風に、姫は布団をたくしよせ暖をとった。
炬燵で眠る猫のように、熱を熱をと寒さに縮こまる。だが響く海鳴りが眠りの邪魔をして、あまりの音が近さに眉をしかめた。
海鳴りに合わせて頭が痛い。
体調を崩したのだろうか。もっと眠ろうと姫は体を丸める。
丁度心地よい熱を見つけた。暖をとるには申し分ない。

(鶴・・・?)

甘えたな妹を思い浮かべるがそれはごつごつとした岩のような固さ。
布団の中で薄目を開いた姫は、暗闇にあるそれに触れる。
くすぐったそうに身じろぎする肌。硬い筋肉に姫の意識はゆるゆると目覚めた。
布団と知らない誰か。
急速に動き出す脳が命じるままに布団をどければ、「あ?」と間の抜けた声をこぼす半裸の鬼がそこにいた。

「〜〜〜〜っ、きゃあああああぁぁぁぁあああ!!!」

姫は閉鎖的な伊予の国で生まれた。
鶴姫が生まれるまでは姫が神事を取り仕切れるよう徹底的な教育を受けていた。
神社には神に仕える者ばかり。色恋に励むものなどいない。男女の交わりなど、まるで絵空事にしか思えない。
だが今ほぼ裸の異性と一組の布団の中。
例え知識があったとて、そういった方面のことに免疫のあるはずのない姫。
まさか自分の身にそんな状況が降り注ぐなど考えた事もなかった。
しかしそんな心のをいざ知らず、叫んだ本人が一番その声の大きさに呻く。
頭の中で大鐘が反響するような痛み。
あまりの痛みに姫は思わず頭を抱えて布団に突っ伏した。

「おいおい、大丈夫かぁ?」
「だ、大丈夫なものですかっ・・・いったい私になにをしたの・・・!?」

噛みつくように言いながら、それでも声音は小さく頭に響かないようにすれば、元親はくつくつと笑いながら寝癖の付いた髪を掻く。

「俺はなにもしちゃいねぇよ。あんたが好きなだけ酒を飲んだのさ。ただの二日酔いだ。一日大人しくしてりゃすぐよくなるぜ」
「ふ、ふつかよい・・・」

言われてみればそうだ。
確か最後の晩餐と勇んで今までの質素な食事を忘れるように酒と馳走を平らげたのだ。
体調を崩していても致し方ない。

「あとで水と着替えを運んでやるよ。ついでに湯あみでもするか?昨日のままだから埃やら汗やらそのままだろ」
「ち、長曾我部殿?」
「ん?」
「わ、わたし、何を言いましたか?ぜ、全然記憶が・・・」

昨晩の醜態をすっかり忘れてしまったらしい姫に、元親はくつくつと肩を揺らす。

「可愛かったぜ?」
「〜〜〜!?」

何も覚えていないが元親の笑みからなにかしらを感じ取った姫は言葉も紡げず、手近な枕を投げつけた。

そのまま逃げるようにというか部屋を追い出された元親は、一杯の水と供に帰ってきた。
差し出されたそれを複雑な心境で受け取り飲み下す姫。
きん、と冷えた水の心地よさに、まだ痛む頭もあったが体内を清浄された気分であった。

「湯あみの準備はできてるぜ?」
「では姫様こちらへ」

しずしずと進み出る女中に導かれるまま姫は勝手につれていかれる。
布団に胡座をかいてひらひらと手を降る元親に一瞥をくれ、姫は前を先導する女中の後を追った。

「しかし、喜ばしいことです」
「え?」
「殿がやっとお嫁様をお連れしたことですわ」
「よ、よめ!?」
「あらあら、昨晩の宴は姫様と殿のご婚姻の宴と聞き及んでおりますが?」
「違いますっ!!」

確かに捕虜にしては破格の待遇だ。しかし嫁になれとも言われたが承諾はしていない。
真っ赤になって否定する姫に女中はまたまたぁと、年若の乙女のように笑った。

「このように痕をつけておられますれば、昨晩は添い遂げたのでしょうに」
「え!?」

訳がわからずも慌てる姫に微笑ましさを覚える女中は、その後湯殿の水面にそれを写して見せれば、ますます赤くなる姫に女中は柔らかく笑うだけだった。

「長曾我部元親っ!なんて卑劣な破廉恥漢なの!?信じられないっ・・・!!」

湯上がりで火照った肌にさらに怒りの朱色が混じる。
怒り心頭に潤む瞳にすれ違う女中たちの甘いため息。
姫はそんな事には気付きはせず、大股で元親がいるだろう広間に向かった。

「あ、お嬢!おはようございますっ!!」
「お、お嬢?」
「馬鹿!おまえお嬢なんて失礼だろ!?兄貴の嫁さんだぞ?」
「そうか!じゃあ姉貴って呼べばいいっすかね?」
「あ、姉貴!?」

不意に声をかけてきた元親の部下たちに、姫は驚いて一歩下がる。
気分はどうですか?昨日の宴はどうでした?
屈託なく問いかける二人は姫が聞き及んでいた粗野で乱暴な海賊とは大違いで、どうすればいいのかわからない。
存外丁寧で無邪気な様は若い子供か青い武士だ。
仕方なく当たり障りないよう曖昧に微笑めば、ふたりは「おおおお!!」と何故だか吠えたてた。

「な、なにか?」
「お嬢さん、笑うと更にかわいいっすねぇ!!」

大きな声で何をいうのだ。
姫はわなわなと体を震わせながら否応なく上がる体温に死にたくなる。

「か、かわ、かわいっ・・・!?」
「はい!もともとすげぇ美人だと思ってましたけど笑うとかわいいっす!!なっ!!」

とふたり笑い合う部下に姫はただただ赤くなるばかりで思考が纏まらない。
容姿を、誉められたことはあまりなかった。
父も母も、たしかに姫を大切に可愛がってくれた。
だがそれは、鶴姫が生まれるまでに過ぎない。
先見の瞳を持ち神に通ずることのできる鶴姫は見目は愛くるしく誰からも愛されたが、徐々に嫉妬に鋭くなる目付きの姫には人が寄り付かなくなった。
姫は鶴姫が愛しく、同時に憎らしかった。
今まで生きてきた年月の分の修練の成果を、鶴姫はたった数年足らずで追い抜いた。
誰からも愛される優しい鶴姫。
姫は、鶴姫を憎みきれなかった。だから守った。けれどやはり、心の底では愛せなかった。
閑話休題
つまり姫は、常に鶴姫の影に立たされていたせいでどうにも誉められることに慣れてはいないのだ。
ああ、だかうぅ、だか。
もごもごと口ごもる姫にふたりの相顔は緩みっぱなしであった。

「お、おめぇら。なにやってんだぁ?」
「あ、兄貴!」

どかりどかりと大股で歩いていた元親は俯く姫とふたりの部下に声をかけた。
俯く姫は肩を震わせており、元親は慌ててふたりに詰め寄った。

「おいお前らっ、に何言いやがったんだ!?」
「ええ!?俺らはただお嬢に」

主君の声に驚くふたりがなにか言葉を繋ぐ前に、姫が勢いよく顔をあげてふたりと元親を睨み付ける。

「ほ、誉められても嬉しくなんかありませんしっ!!ほ、ほだされたりなんかしませんからねっ!!!」
「あ?」
「そ、そんなこと言われたって、う、嬉しくなんかないんですからねっ!!喜んだりしないしっ、それから、それからっ・・・」

ほとんど一息にそう叫んだ姫は茹蛸のような赤い顔で、羞恥に涙を溜めて肩を怒らせた。
しかしとうとう言葉をつまらせた姫は、そのまま勢いよく駆け出しふたりと元親の間を風のように駆け抜ける。
湯上がりの甘い香りを残して脱兎の如くその場を逃げ出した。

残された三人はぽかんと口を開いたままお互い顔を見つめ、示し合わせたかのように揃って「かわいいなぁ」と呟いたのだった。