嗅ぎ馴れぬ磯の香りが鼻につく。
目蓋の裏まで浸透する光に姫は小さく身じろいだ。

「ぅ、み・・・?」

波の音、潮の香り、眩しい太陽とすべてを調和する風。

「ああ、もうちょい寝てろ」

逆光の向こうで誰かが笑う。
大きな体、父のようだ。

「まだ着かねえからな。眩しかったか?」

笑いながら大きな手が姫の目許を覆った。
即席の日影に目を瞬かせるが、漏れる日輪の光には敵わない。

「寝てて構わねぇぜ」

大きな手はそのまま姫の目蓋に重なり、光のない世界が広がる。

「・・・うん・・・」

暖かな闇に包まれながら、姫は自分の目を覆う手に己の手を重ねた。

「ここに・・・いてね・・・」

甘く絡まる指先の、滑らかな肌が元親の手を撫でた。
そうして意識は微睡む暖かな闇に滲む。
数分足らずで呼吸は寝息に代わり、姫の体は脱力した。

「・・・」
「兄貴ー、もうすぐ城が見えますぜ!・・・って兄貴?」

船頭から向かってきた部下が元親に声を掛けるが、呼ばれた元親は微動だにしない。
いぶかしむ部下が元親の正面に回り込み、片手を姫に、空いたもう片手で顔を覆う元親を見る。

「兄貴?どうかしたんすか?」
「やべぇ・・・ぐっときた」
「はい?」

訳がわからず小首をかしげる部下を追いやり、耳まで赤くなってしまった元親はやれやれと嘆息を溢しつつも満足げに笑った。

そうして船が長曾我部軍本拠地土佐に帰還してもなお、姫はすぅすぅと穏やかな寝息を繰り返しており、最後は元親が抱いて船から下ろした。
姫が目覚めたのは、長曾我部軍の宴会準備が万端整った頃だった。

「・・・?」

寝起きではっきりしない思考で辺りを見回した姫は、ずらりと並ぶ人影に何事かと思いながらも丁度自分の腹辺りを抱える腕のほうが気にかかった。

「んん・・・?」
「お、起きたか?」
「うー?」
「可愛いなぁ、あんた」

頬を指の背で撫でる手は大きく、姫は父のようなそれに思わず擦り寄った。
姫の乳飲み子の様な振る舞いに元親は思わず頬を緩める。
つい先刻まで険しい表情で弓を構えていた少女は、今はこんなにも大人しく愛らしい。
ふわふわと手触りの良い長い栗色の髪を撫でれば、姫はますます嬉しそうに笑った。

「でもま、せっかくの宴なんでそろそろ起きて欲しいんだけどよ」
「んー・・・」
「ほら、起きな」

軽く体を揺すられ、姫は渋々といった風体で目を手の甲で拭う。
年に合わない小さな子供の様な仕草には、やはりどうにも愛しさが沸いた。
二三目を瞬いた姫は、ぼんやりとした目に元親をおさめる。
次に瞳の中にじわじわと、理性と混乱の色が湧き出た。

「ちょ、長曾我部元親っ!?」

立ち上がろうにも暴れようにも、元親の太い丸太のような腕がしっかりと姫を押さえている。
周囲に座す長曾我部軍の数。武器もなく大将の膝元にいる自分に姫の混乱は計り知れない。

「は、離してっ!!」
「嫌だね。離したら、あんた逃げちまうだろう?」

な、と低く耳元に囁けば、姫は蛇に睨まれた蛙のように硬直した。
大人しくなった姫に満足した元親は、愛鳥にするように数度その小さな頭を撫でる。
部下たちのほのぼのした視線にか困れながら、突如姫の小さな肩が震えた。

「どうした?」
「ふ、ふふ・・・あはははは!!」

けたけたと高笑いを始める姫だが元親の腕の中では幼子が笑っているようにしか見えない。
威厳などないが、みなどうしたのだろうと姫を見た。

「馬鹿ね!私を浚っても意味などないのに。私は伊予の隠し巫女ではないわ。あなたの目論見は叶わなかったのよ!」

勝ち誇る姫の笑みだがやはり威厳はない。
元親は指先で頬を掻きながら、姫に向かってそうでもねぇぜ?と返す。

「私を人質にしようとしても無駄よ。鶴は伊予の国を支える巫女。私の命ひとつくらいで、父上が差し出すはずもない。あなたの敗けだ、長曾我部」

ふん、と毅然とした態度で鼻を鳴らす姿はとても神事を司る巫女には見えない。
だがやはり元親の腕の中では恐ろしくともなんともない。

「宝なら手にいれたぜ?」
「なに?」
「あんたが宝だ」
「なっ・・・!?」

どういうことだと言わんばかりに姫が目を見開く。
元々大きな目は瞼から零れ落ちそうだ。
元親はなだめるように姫を抱き込み、その耳元で優しく囁く。

「あんた、すげぇ別嬪だぜ」
「なっ、なに、ななにをいってる!!」

真っ赤になってわなわなと震える姫は益々可愛らしい。
そんな初な反応に元親はにやにやと笑いながら姫の頬に口付けた。

「あんた、鬼の嫁にならねぇか?」
「なななな、なぁっ!?」

元親の求婚に慌てふためく姫だが、そんな声を掻き消すように、長曽我部軍の者たちの雄々しい歓声が部屋を包み込んだのだった。

「野郎共っ!今晩は無礼講だぜっ!!しっかり飲んで暴れやがれぃ!」
「「「「うぉぉぉぉぉおおお!!!」」」」

鼓膜を破られそうな男たち声は、嵐の夜の荒波ののように姫の意識を押し流してしまう。
これまでに嗅いだことのない量の酒の臭い、南蛮ものの菓子、豪華な活け作り。
目まぐるしく回る世界の中心で鬼が笑う。

「なぁ、あんたの名前、なんてぇんだ?」

瀬戸の海によく似た蒼い瞳が波打って揺らぐ。
姫は遠く離れた故郷を思いながら、芳しい磯の香りに酔っていた。

。皆は、姫と呼びます・・・」
か、いい名だな」

優しい声の響きが姫の名を呼ぶ。
姫は居心地悪げに身動ぎしつつ、緊張と混乱を飲み込むように近くの酒に手を出した。