豊臣が天下を掌握し、名実共に太閤を名乗り上げて日の本を制した豊臣秀吉。 その忠臣石田三成。彼に寄越された婚姻の話。 話自体は新しいものではない。相手は同じ豊臣傘下でその実力を発揮してきた。 ふたりが許嫁と定められたのはずいぶん昔からだった。 こうして今ようやくその約束が実を結ぼうとするのは、全ては豊臣秀吉が天下を制したからであった。 豊臣軍師竹中半兵衛の愛弟子であり、豊臣秀吉の左腕と呼ばれる石田三成。 同じく豊臣軍師黒田官兵衛の親戚筋であり、一軍を任される実力を持つ九条。 どちらも心身共に豊臣に捧げ、その忠誠はいっそ信仰と言っていい程硬く気高い。 己らの幸不幸など、何時だって後回しだったのだ。 そうしてひと段落がついたところで、主君直々に婚姻の話が挙げられたというわけだ。 「それにしたって、今更だわ」 「婚姻を結んだとて私たちは一重に秀吉様の力だ」 「違いないわ。別に、急く必要なんてないのにね?」 「しかし秀吉様の許可が出た以上、婚姻を結ばないわけには行かない!」 「本当に、三成は秀吉様が大好きねぇ」 ふたりは三成が元服する前からの知り合いだった。 体が弱く、文字ばかりを追っていたと、愛想が悪く、竹刀ばかり振っていた三成。 出会いはなんだったか思い出せないほど些細なことだ。 いつからかふたりはともに勉学に励み、武を鍛えた。 互が互を鍛え合い、おかげで三成は冶部少輔の地位を戴き、は侍大将としての地位まで上り詰めた。 今では豊臣を担う一角となって、これ以上の幸福などない。 敬愛する師と大将に仕え、そしてその天下でまたその手となり足となり働くことができる。 これが一番の幸せだ。 自分たちは、一等幸せだ。 「でも婚姻って面倒だわあ。馬鹿みたいに着飾って、お迎え役呼んでのろのろのろのろ。時間の無駄だわ。略式じゃあ駄目かしら?」 「馬鹿なことを言うな。私たちの振る舞いは秀吉様の沽券に係わる」 「じゃあきちんとしなきゃね。でも私白無垢嫌い。あんなのうまく戦えないわ」 「貴様は馬鹿か、何故婚姻の式の場で戦うことを考える」 「嫌だわ。私をそんな女にしたのは、三成のくせに」 は、体が弱く、引っ込み思案の小さな娘だった。 父が戦に亡くなり、母は尼となって仏に帰依した。残された娘は家督を告げるほど齢ではなく、領土は一時的に官兵衛の預かりとなり、は官兵衛と共に暮らすこととなった。 可愛がってくれた親はもうおらず、馴染みの女中たちも新しい城主の受け入れに忙しい。養い親は戦と軍議と忙しく、子供ながら不平不満を言える立場ではないと知っていたはますます部屋に引き籠もり、時折官兵衛の兵法書を盗み見ては暇を潰した。 腐っても軍師黒田の血を引いていたおかげか、は軍略への好奇心と知識欲はなかなかのもので、三成と出会ってからはそれは武芸にも向けられた。 三成はの太刀筋がいいと一度褒めたことがある。 三成が人を褒めることは珍しい。彼が認めるのはその頃から秀吉、半兵衛、吉継が認めたものしか認めない傾向があったからだ。 まだその三人と面識がないを褒めるということは、今思えば非常に珍しく、奇特なことだっただろう。 そしてにしても、亡くなった親以外に初めて自分を認めてくれた相手ということに、胸が高鳴ったのを未だに忘れられないことだった。 その頃からだろう。が変わり始めたのは。 三成が元服し、初陣を済ませた後、も後を追うように自らの知略と武功を磨き、女だてらに戦場で功績を立てた。 戦うことで居場所を確立した。誰にも文句を言わせない。が自ら手に入れた場所。 もう部屋の隅で小さくなる必要もなく、女は花を愛で歌を詠んでいろと言われることもない。 は立派な豊臣の戦力であり、要となった。 そうすれば三成はまたを褒めた。は何度でも戦に赴いた。 戦場で功績を上げるはわざわざ他国に出向き、人質や交渉材料としてのおしとやかな姫としての役目を免除されたといってもいい。 然らば三成との婚姻はさらなる豊臣内部の結束を固めるにふさわしいことなのだろう。 軍師と主君の意向を汲み取り、は三成を見つめる。 おそらく三成も同じことを考えているだろう。 案外穏やかな表情で青く晴れ渡る空を見上げていた。 「日取りは秀吉様と半兵衛様にお伺いを建てるぞ」 「それと、吉継様にもね」 ここで官兵衛の名前が出ないあたり、自分もすっかり三成に毒されたものだとは温かい気持ちで笑んでいた。 **** 「っ!!死ぬなっ!!!裏切りは許さない!!」 「みつなり、ばかっ、はやく、にげ、なさい」 「巫山戯るなっ!!貴様と刑部を置いていけるものかっ!!」 天下分け目の大戦。関ヶ原の戦い。 西軍大将石田三成と東軍大将徳川家康。 かつて同じ豊臣の名のもとに双璧をなした二人が、今、こうして戦場にて殺し合う。 かなしいことだとは思った。 あれから暫くして半兵衛が病に倒れた。 病を患って随分長く、先も長くないと官兵衛から話を聞いた時、は訳が分からずただ首をかしげるばかりだった。 ただの風邪とばかり信じ込んでいたのに。 日に日に咳は増し、赤い血が寝巻きを汚す。 夢が叶ったその時、張り詰めて糸がどうにも緩んでしまったらしい。半兵衛の体調は好転することはなく、そのまま天才軍師は眠るように逝ってしまった。 残された秀吉は官兵衛の静止も聞かず、外界の海の向こうの敵との戦の準備を始めた。 無論、と三成もそれに続く。ふたりは秀吉の手足だ。豊臣の力であり、意志だ。 そこに反旗を翻したのが家康だった。 彼は一時とは言え主君でもあった秀吉を討ち、再び天下に乱世を呼び寄せた。 三成は復讐を吠え、はただただ三成に付き従った。 進み、戦い、同盟を組み。そうして迎えた最終局面。 結果は大敗。敗走の陣。捨て奸に消えていった部下たちの命と、風前の灯となったの鼓動。 そういえば、婚姻の式は結局まだだったとは朧ろげな思考の端でそう思いだした。 あの時は、あの穏やかな時代がいつまでも続くと信じていた。だから、婚姻などすぐに上げなくても良かったと思ったし、そんなことしなくてもいつまでも三成と一緒だと思っていた。 しかし、そんなものは幻想だった。 今自分は死にそうであるし、三成とて傷が深い。吉継は二人を逃がす囮として奔走している。 豊臣軍もとい凶王石田軍は散り散りに散らばり撃たれ殺され、はたまた逃げおおせたか。どれだけ残るか定かではない。そして、知る術もないだろう。 全身が冷たくなってきた。 ははっきりと死期を感じ取る。戦場にて息絶える部下たちを見送る時、彼らは一様に寒さと視界の歪みを訴えた。 も、既に三成の表情がよく伺えない。 倒れる自分を抱き寄せる三成の顔はすぐ目の前にあるはずなのに。は距離感もつかめず腕を伸ばせば、三成の顔は思った以上にそばにあったらしい。 「みつなり、」 「喋るなっ!!傷に障るっ!!」 それは三成も同じだろうに。 はこんな時まで自分のことに頓着しない三成に少し笑えてしまった。 しかし、ああ、ああ。 このまま自分が死んだら三成はどうなってしまうだろう。傷の手当はできるだろうか。隠れ家を確保できるだろうか。血を流したまままた徳川の陣に飛び出しそうな三成を抑えることができるものが誰かいるだろうか。せめて吉継がいてくれたら。彼は無事だろうか。吉継にもしものことがあれば、三成はどうなってしまうだろう。心配だ。心配だ。ひとりにしては飯は食わない眠りもしない。放っておけば倒れるまで敵を斬る不器用な男だ。木偶のような男だ。心配だ。心配だ。一緒にいてやれないのが心残りなのだ。ああ、心配だ。しにたくない 「婚姻・・・しておけば、よかった」 「・・・っ!」 「みつなりの、妻に・・・なりたかった、なぁ・・・」 でももう遅い。なにもかも。 は死ぬ。吉継も恐らく死ぬ。そうして三成も死ぬだろう。 満ち満たされていたあの穏やかな時間はもう二度と戻らないし、繰り返すことはない。 三成が吠えるように何か言っていた。 頬を濡らす水滴は、きっと雨ではなく三成の涙だったのだろう。 意識はほとんど飛び飛びで、もう声を正しく理解することもかなわない。 これが、後悔のない、悔いのない人生かと問われれば難しいだろう。 幸も不幸も、きっと同等にあったのだから良し悪しなど一言では言い表せられない。 は出来るだけ穏やかに笑ってみせる。 せてめ、綺麗な表情で逝きたいものだ。だって女なのだ。愛しい男には、美しい女として見て欲しい。たとえ、最期であっても。 そしてもうひとつ、欲を言うならばどうか、口付けて欲しかった。 あなただけの女という、証が、欲しかった。 三成の頬に添えたれていたの手が力なく滑り落ちる。咄嗟に掴み取ろうとしたその手は間に合うことなく、音を立てて地面の上に落とされた。 |