「真田・・・おめぇはわしを、恨んでいるか?」 一人、道場で槍を振るっていた家康は何もない虚空を睨みつけてそう呟いた。 底冷えする夜の空気が、家康の肺を振るわせる。 「わしが憎いか?わしが・・・わしが、羨ましいか?」 張りぼての虚勢はすぐに打ち砕かれた。 返答など返ってこない虚空でありながら、家康は確かに鋭い視線を感じたのだ。 戦場で何度も感じた、あの灼熱の劫火を。 嘲笑うように心臓を駆け抜けた隙間風に、家康は息を詰まらせた。 首を、落とされたかと思った。 恐怖だった。 ただの風が、何の力もないはずのそれが、家康を襲う。 「わしを、殺したいか・・・真田」 無論返答はない。 そして、風が止んでいた。 「・・・」 耳が痛いほどの静寂に、家康の心臓の音だけが早鐘のように煩く鳴り響いていた。 早足にの寝所に向かう。 あれ以来、夢と現の行き来が激しくなるは、一日の大半を寝所で寝て過ごした。 起きている時でさえ空ろな瞳は家康を認識してくれる回数をどんどんと減らしてしまった。 何も出来ない、歯がゆい日々の中では衰弱し、骨が浮き立つほど痩せた体で細々と呼吸を繰り返し、潤いの欠けた声で時折「家康様、」と名を呼ぶ。 続く二言目はいつも謝罪であり、家康は何度も謝るなとを宥めたが、終ぞの謝罪が途切れることはなかった。 のいる寝所に到着した家康は、医師と女中を下がらせ眠るの枕元に膝をつく。 「・・・」 穏やかな寝息は悲しいほど優しく、胸を刺す。 今のにとっては、現よりも夢の方が心身穏やかでいられるのだ。 自分ではを救えない。 それが、虚しく、悲しい。 「なぁ、わしは、お前のために何かしてやりたい。身勝手な思いだ。だが、どうしてもなにかしてやりてぇんだ。、わしは、お前の笑った顔が見たい・・・」 返答はない。 眠り続けるの心は、どこにあるかはわかりきっていた。 の心は、家康になど向いてはいないのだ。 「・・・なぁ、わしの名を、呼んでくれ・・・」 ゆきむらと、砂糖菓子のように甘く、花が香る様な笑顔と声で、家康と、ただ、ただ一言呼んで欲しかった。 「わしは・・・それだけでよかったんだ・・・」 政略結婚のふたりに愛などというものが芽生えることは珍しい。 男は人質にすべく姫を娶り、血族の存続のために子を成した。 女は家を守るべく嫁に行き、敵地を支配する為に子を産んだ。 戦国乱世のこの時代に、愛だの恋だのと夢を語る暇は誰にもなかった。 それでも家康は、を愛していた。 同盟を組む時に何度か目通りした。 楽しそうに笑う姿に心を引かれ、誰にでも分け隔てなく接する心に魅せられた。 美しい姿に、魂が震えた。 そして同盟のために三河に、徳川に嫁いできたは、どんな姫よりも美しく、気高く、微笑みながら家康の手を取った。 「私は、本日より徳川の女になります。三河のこの地が、の故郷になります。家康様、どうかめを三河一の幸せ者にしてくださいね」 父と家臣と十数年過ごした土地から引き離され、敵だらけの新天地では笑ったのだ。 本当は辛かったろうに、は、武田の、徳川の足枷にならぬように、笑ったのだ! 「わしは・・・何もしてやれてはいなかった。お前を故郷から引き離し、挙句の果てにはお前の父と愛した者を殺しただけだっ・・・わしは、お前から奪うことしか出来なかったっ・・・!!」 それでも、自分は徳川の女になったのだからと、はいつも家康を支えた。 誰よりも家康のために心を砕き、弱音一つ零さなかった。 それが、愛だったかは定かではない。 は、何も言わなかったし、家康は聞けなかった。 恐れていたのだ、否定されることを。恐れていたのだ。 幾度の死地を乗り越えようにも、言葉は何よりも鋭く心を刺す。 幾戦の敵よりも、たった一人の女の言葉を、家康は恐れたのだ。 「・・・わしは、無様だな」 弱弱しい嘲笑。それを窘めてくれるの声はない。 家康はそれ以上言葉もなく、ただただの寝顔を見つめながら頭を抱えるように蹲った。 それからどれくらいしただろう。 虫の音さえ響かない夜の静寂に、ちらりと揺れた火が視界に入る。 蝋燭は溶けきり形がなく、燭代の器に溶けた蝋が溜まりその中で小さな火が揺れた。 新しい蝋燭をもらってこようとその場を立った家康だが、手をかけた襖はピクリとも動かない。 毎日行き来する襖が立て付けが悪いはずがない。 一体どうしたことかと力を込めるが、やはり襖は一向に開かなかった。 そうしている間にも火は溶けた蝋に沈み、ついに小さな悲鳴を上げて焼き消える。 一瞬にして夜が降り注いだ部屋の中で、一陣の風が吹き抜けた。 襖は閉じている。 それなのに吹いた風に家康の体は酷く強張った。 喉元に刃物を押し当てられるような冷えてゆく感覚に、家康は勢いを殺さず背後を振り返る。 「・・・おめぇ・・・!?」 赤い戦装束に、淡い栗色の髪を纏めた男が立っていた。 家康は思わず呼吸も忘れて男の姿を眼中に納める。 そんなはずはない。そんなはずがない! あの日あの時あの戦場の渦中で、家康の槍が確かに男の心臓を刺し貫いたのだ。 お抱えの忍もすでに息絶えていた。あれが影なはずがなかった。 家康は確かに、あの日あの時あの戦場の渦中で、男を殺したはずだった。 「・・・さな、だ・・・」 冷えた空気が喉を通り、恐れに渇いた喉がひゅうと鳴る。 一寸先も見えぬはずの闇の中で、赤い男の姿だけはしっかりと夜に浮き上がっていた。 家康は思わず襖に背を預ける。 亡霊か、怨霊か。 生き物ではあるまい。愚直なまでに誠実だった男が、忍の真似事をする出来るとは、家康には到底思えなかったからだ。 そして佇む男の口元がゆっくりと笑みを産み落とす。 壮絶なほど、暗く、寒気のする微笑に家康は身を震わせた。 とても生きた人間には出来ない表情だった。 戦場にも、卓上の政にもこんな恐ろしいものはいない。 全身の骨が抜き取られたような感覚に、家康の足元はみっともなく震えた。 『・・・』 男の唇から掠れる様な声が、そして身の毛もよだつ程の感情が込められた声が零れ落ちた。 悲鳴は出ない。 からからに渇いた喉と体。生気を奪われていると思うほどの、畏。 家康が動けずにいれば、男は静かに眠るの布団をはいでその細くなった体を抱き上げる。 もちろん家康はすぐに目を剥き、声を荒げた。 「っ!!!」 だが踏み出そうにも体が上手く動かない。 見ている。否、そんな生易しい表現ではない。 怒り、憎しみ、殺意、憤怒。おどろおどろしい感情の塊であるだろうそれらが一振りの刀のように家康の体をその場に縫い付ける。 真田幸村の形をした何かが家康を見つめて薄く嗤う。 見えない壁が、力が、家康の四肢を絡めとり動きを奪い、骨が軋むほどの痛みに顔を歪めつつも、家康は悲鳴を噛み殺しもう一度妻の名を叫んだ。 「っ!!」 連れて行かれてしまう。連れて行かれてしまう!! 焦燥と恐怖が体の中で膨れ上がり、感情を苗床に全身に染み渡る。 喉が裂けそうなほどの大声だった。 それなのに誰も駆け付けはしない。おかしかった。 だが家康にそんなことを考える余裕は露ほども残されてはいなかった。 「・・・真田っ!!おめぇはもう死んだ身だ!!お前はここにいるはずがねぇ!!を置いて今すぐ消えろっ!!」 腕を、足を絡めとる闇には目もくれず、家康は男を睨み付けてそのまま全身に闘気を纏う。 低く押し殺した声で唸れば、幸村は鋭く瞳を細めた。 家康はを愛していた。を失うわけにはいかなかった。 家康の望む大安の世には、の笑顔がなければならない。 「おめぇは亡霊だ!!おめぇには渡さねぇっ!!」 償いをしたいなどというのは、ただの建前だった。 愛しく思うからこそ、どんな形でも傍にいて欲しかった。 家康の独りよがりな思いだった。それでも尚、家康はを失いたくないと、吼える。 『家康殿、そなたがに何をしてやれるというのだ?』 瞬間、内臓がすうっと冷えていく感覚がした。指先が冷たくて吐き気がする。 家康は、自分が息を止めていたことに気がついた。 深海に沈んで、体内の臓器が水圧で潰されるような、よく知りもしない錯覚に襲われる。 全身が内側から感じる不可視の痛みに悲鳴を上げた。呼吸さえも儘ならない。 真田幸村の形をした男が嗤う。 冷たく家康を見下し、傲岸不遜に微笑んだ。 『そなたではを幸せに出来ますまい』 絆を唱える一方で、家康は絆を壊すことを繰り返した。 武田、豊臣。 守り続けた絆もある。 三河、四国。 家康はのために一体何をしてやれる?どうすればを幸せにしてやれる? 幾度となく自問した問いを、今一度真田幸村の形をしたそれが問う。 家康は、何も答えられなかった。 を抱いた幸村はゆるりと家康に背を向ける。 四肢を押さえつける闇は未だ解けない。 「っ!!」 三度目の悲鳴に染みた家康の声は、空間を震わせて漸くの耳にも届いたようだった。 花が芽吹く。綻び、花弁が開き、開かれた瞼は夢うつつにいながら黒い真珠のように瞬いた。 「ゆき・・・むら・・・?」 『さぁ、行きましょうぞ、姫様』 真田幸村の形をした化け物が笑った気がした。 真相はわかるはずがない。それは家康に背を向けていたのだから。 「ゆきむら・・・ゆきむらっ・・・ゆきむらぁ・・・!」 涙に濡れるの声。 そこに悲色は一切見受けられなかった。 ただ漸く親を見つけた幼子のような、果てしないほどの安心を得たような、切迫する程の穏やかな声音。 家康は呼吸も忘れて、幸村の肩口から覗くの横顔を見ていた。 痩せこけていた頬はふくらみを取り戻し、血色の悪かった肌は乳のように滑らかな色を呼び戻していた。 艶をなくしていた黒髪は夜を吸い込んで艶やかに輝き、眠るばかりの瞳は涙を溢れさせていた。 は、笑っていた。 泣き続けて申し訳なさそうに謝罪を連ねるの面影はどこにもなかった。 嬉しそうに、心の底から嬉しそうに笑うの横顔が、家康の喉から声を奪ってしまったのだ。 そこにいたのは、数年前のあの日、武田の館で見たの姿だった。 どれくらしたのだろう。 家康は自分が漸く膝をついていることに気がついた。 部屋の中に明かりはなく、一寸先も見えない。 腕を伸ばしてみるものの、自分の指先さえ闇に解けて形にはならなかった。 だが慣れ親しんだ部屋の作りは体が覚えていて、気だるい体を引きずり燭台の元に擦り寄った家康は、すっかり溶けてしまっていた蝋の上で一度火打石を打ち鳴らす。 ニ三度火花が零れ落ち、上手い具合に芯に灯が灯った。 小さく揺らぐ火は頼りなく、風が吹けば今にも掻き消えそうなほど弱い光であったが、家康は気にはせず燭台を掲げて部屋の真ん中をぼんやりと照らした。 「・・・」 答える声も姿もない。 鉛のように重苦しい体での布団に寄ってはみたが、触れたそれは氷のように冷たかった。 「・・・」 答える声も姿もない。 襖は家康の背にあった。出て行ったのならば気付かないはずがなかった。 「・・・」 答える声も姿もない。 夜が降り積もる部屋で一人、家康はよるべない思いを抱え一人ごちた。 「・・・っ・・・!」 答える声も、姿もない。 どれ程家康が悔やんでも、もうここにはいないのだ。 別れさえ告げずにを連れ去ってしまった幸村に、家康は呻く様に身を丸めて嗚咽を零すしかなかった。 これが報いだというのならば、甘んじて受けねばならないというのだろうか? 生きているのか、死んでいるのかもわからない。 家康がの絆を奪ったように、幸村もまた家康の絆を奪って行った。 どれほど愛しく思っても、家康はもう二度と、夢でさえと相見えることはないだろう。 幸村は、家康の元にはの髪一本さえ残してはくれなかったのだから。 |