春も麗らか。柔らかな風が吹けば腰まで延びた黒髪が遊ばれて、桜の花びらと同時に舞った。 暖かな日差しに微睡んでいた意識ははっとしたように髪を押さえる。 薄く香る桜の香りには笑みを浮かべた。季節は春満開。薄紅色広げる桜の大樹が美しく咲き誇っていた。 「姫様!」 その時、縁側に腰かけていたのもとに掛けられた声。そちらに視線を向ければ、幸村が片手を上げてこちらに駆けてくる所であった。 「姫様。いくら城内とはいえ従者も付けずにお一人とは、関心致しませぬぞ」 「あら、一人ではないわ。幸村が居るじゃない」 とん、と眉を寄せた眉間をつついてやれば、幸村は少し頬を赤くしてむにゃむにゃと言葉を隠してしまった。 相も変らぬ初心な反応に、はくすくすと華奢な肩を揺らして笑ってやる。 「それよりも、軍議は終わったの?」 「は、滞りなく。しかし姫様もお暇でしたでしょう。お詫びにこれを」 「まぁ!佐助のみたらし団子ね?」 「如何にも。茶は佐助が後ほど持って参ります」 「ありがとう!では頂くわ」 真っ白の器に盛られた艶やかな甘たれが食指をそそる。唾液線を刺激する甘い臭いには丁寧に手を合わせて「いただきます」と、串を一本手に取った。 「また戦が始まるのね」 「姫様、そのようなお顔をされてはなりませぬ。お館様の御上洛が為、避けられぬ戦にございます」 「そう、ね。そうなのだけど」 すこし俯いたは、口に運び掛けた団子を皿に戻して幸村の手を取った。 豆の出来た節くれた掌は、甲斐を守る為、信玄の上洛の為にと戦ってきた。それはとても誉れ高いことであったが、はその度に幸村が負傷する知らせを聞かねばならないことが耐えられなかった。自分が戦を嫌うきらいがあることはわかっているが、どうにもそれが上手く隠せない。武家の娘に生まれたからには、そうも言っていられないのにと瞼を下ろした。 皮膚の硬くなった武人の掌は、頼もしさと同時に悲しさが滲んで仕方がない。 いつか、唐突に居なくなってしまいそうで、怖いのだ。 の顰められた眉に気付いた幸村は、どうしたものかと視線を泳がせた後、意を決してと視線を絡ませる。 「姫様!」 「・・・なぁに?」 「次の戦で勝利を納めますれば、お館様が天下人となられますのは必須。次の戦の勝ちを得れば、もう戦などしなくてもよろしいのでござる」 「本当?」 問い返せば幸村ははい!といつもの満面の笑みで頷いた。 戦がなくなる。それは天下平定を意味し、信玄の上洛を指す。 戦のない世。それはなんて素晴らしいことだろうとは暗胆たる気持を払拭した。 もう誰も傷つかなくてもいい。 もう誰も望まない死と対面しなくてもいい。 それはとても、喜ばしいことであった。 「戦がなくなれば、幸村や佐助はずっとここにいてくれる?」 「もちろんにございます!」 「ずっと一緒にお茶したりお喋りしたり、側にいてくれるの?」 「無論、お館様と姫様のお側にお仕えさせて頂きますゆえ」 幸村は繊細で美しいの手を傷つけぬよう両手でやんわりと包み込む。伝わる暖かさが酷く心地よくて、は思わず目尻を綻ばせた。 「嬉しい。幸村、私、戦なんて、早くなくなっちゃえばいいのにって思ってた。父上や、幸村がいないとき、とても寂しいから。父上が天下を制してくれれば、きっと、もう戦なんておきないもの」 「はい、お館様の統治は日の本一!すぐに日の本は平和となり、戦など無用の長物となりまする」 快活に笑う幸村の笑みにも緩やかに破顔する。 しかし幸村は笑みをしまいこむと、少し視線を落として声の調子を変えた。 「本当は・・・このような大それた願いを口にするのは憚られましたが」 「ん?」 穏やかに微笑んでいた幸村は急に真面目くさった声を出しての注意を引き付けた。 誘われるままに顔を上げれば、声音と同じくらい真面目な表情をした幸村の顔がすぐ側にある。こちらの心の臓を射抜くようなまっすぐで力強い視線。 どきりと跳ねた心臓を隠しながら、は吸い込まれそうになる幸村の真剣な瞳を見ていた。 「次の戦。そこで武勲を立て、勝利した暁には、お館様に褒美を恵んでくださる様に進言したのでございます」 「幸村のことだから、甘味たくさんとか?」 「茶化さないで頂きたいでござる」 む、と眉間に皺を寄せる幸村だが、子供が癇癪を起こす前の表情に似ていてちっとも怖くはない。 はくすくすと笑いながら謝罪を述べて、幸村に話の続きを促した。 「その、次の戦の武勲の褒美に、姫様を所望したのでございまする」 「え、わ、私を?」 「は、はい、姫様をにございます」 暫くどちらも口が聞けず、ただただ赤くなってしまうばかり。 は自分の掌を両の頬に当てれば、鉄をも溶かしてしまいそうな熱にますます顔を赤らめた。 「ゆ、幸村、それは、つまり」 「は、はい、その。姫様を、某の妻に、と」 「ち、父上は?」 「は、その意気や良し、と」 そこまで話してまた二人顔を赤くする。 どちらも火が出そうな顔色に、もしも誰かが見ていたなら急いで桶一杯の水をかけただろう。 はあまりにも高鳴る心臓に死んでしまうかもしれないと危惧した。頬は熱く心の臓はきゅう、と締め付けられて息苦しい。 「お、お嫌でしたか?」 「そ、そんな訳ないわ!嬉しいっ」 勝手に飛び出した言葉はもう戻らない。一瞬呆けた顔をした幸村は直ぐに耳まで赤く染めて俯いてしまった。 とても元服も初陣も終えた将には見えなかったが、そんな姿もいとおしくてはうっすらと目尻を滲ませる。 「そ、某も嬉しく思うております。姫様を妻に娶れるなど、光栄の極み。これに勝る幸福などありませぬ」 「私も。私もよ幸村。私、あなたのお嫁さんになれるの?」 「はい、」 そうして腕を取り、ぐいと引き寄せ抱きしめる。 丁度耳元にあたる幸村の心臓が、壊れそうな程煩く脈打っていた。 「姫様、ずっと、ずっとお慕いしておりました。某の妻に、某のものになってくださいますか?」 「うんっ。私も、幸村が好きだった。ずっと、ずぅっと好きだったの」 暖かで逞しい腕。優しい声。穏やかな表情。信念を灯す瞳。そのすべてが、の為にを包み込み、優しく優しく抱き絞めるのを感じた。 それは、これ以上ないほどに幸せな瞬間であった。 「幸村、好きよ。大好き。大好き」 身も心も溶けるほどの幸福。 は間違いなく、自分がこの日の本で、世界で一番幸福な女なのだと感じた。 それ程までに、幸村の胸は広く、温かくを包み込んでいた。 「姫様、ずっと、某の傍にいてくだされ」 「うん・・・幸村の傍にいたい。ずっと、ずっと、これからも傍に」 きつくなる腕の力には涙を一滴だけ溢れさす。 幸村が、爆発しそうな感情を抑えるような、低く、掠れた声音でただ一言 「永久に、お傍に。お慕いしておりまする」 そう、囁いた。 「・・・夢、か」 眩しい日輪の光が瞼はを刺す。 は虚ろな声音でそう吐き捨て、体に残る幸村の暖かさを抱き締め、少しだけ泣いた。 |