天下を別つ争いに、負けたほうがどうなるかなって判っていた。 そして嘆くことさえ許されないことを、は知っていた。 女は嫁いでしまえばその家の人間になる。 はもう武田の女ではない。徳川の女として、主人の、主君である家康の天下を喜び、そして支え、共に創っていかなければならないのだ。 「ちち、うえ・・・ゆき、む、ら、・・・」 西軍の武将たちは、みな首を討たれて家を潰された。 武田も真田も、が育った甲斐はもう既にない。土地が残っていても、これから姿を変え、名を変えてしまう武田領は二度との故郷とはなり得ない。 それは、失われると同義だ。 涙は出なかった。それはが、徳川の女なのだからかもしれない。 それでも痛む心臓は主張をやめない。 浅く繰り返す呼吸に肺が擦り切れ、はもしかするとこのまま息絶えてしまうのだろうかとぼんやりと思った。 「・・・」 幼さを微塵も感じさせない家康の声。 齢十九の天下人。 常利発に兵たちを鼓舞する声とは程遠く、哀れみと情けの滲む声での名を呼ぶ。 は知らず知らずに俯いていた事に驚き、そうして一息呼吸吸い込み、決然と顔をあげて家康へと向きなおった。 「家康様、此度の戦の勝利、真におめでたく存じ上げます。天下人と在らせられました家康様のため、この不肖者のではございますが、これからもお傍に」 凛とした心地で言い切る。二人きりの空間にの声が朗々と響き、相対していた家康は、今にも泣き出しそうな表情でを見ていた。 「・・・馬鹿者が、」 おめぇは、俺を憎めばいいのに。 項垂れる家康には苦く微笑んだ。気丈だった表情はだんだんと悲しみに歪み、終には浮かんだ大粒の涙が目尻を濡らし始める。 「、」 いたたまれず名を呼べば、はきつく眉を潜ませ涙を耐えるように表情をしかめた。 「ごめんなさい、家康様、ごめんなさい」 「おめぇが謝ることじゃねぇ」 「しかし、私は、」 優しく肩に置かれた家康の腕があまりにも穏やかな熱でますます涙が滲む。 と家康は政略結婚だった。甲斐と三河を繋ぐ為に、同盟と共に嫁ぎ参じた。武田の為徳川の為、はの出来ることやってきた。今回の戦だって、は持ちうる力をすべて発揮し、尽力した。しかしそれでも、駄目だった。 大坂夏の陣、関ヶ原の戦い。 魔王没後に激化した天下取りの戦、東には徳川、伊達、長曾我部と毛利。西は武田、上杉、豊臣と前田。 徳川と長曾我部共同開発の新兵器、毛利の戦略、伊達の機動力。 魔王の軍勢を打ち倒し、疲弊しきり統率もままならない西軍の勝ち目は薄い。それが例え手練れの猛将たちが束になろうとも。 は何度も書状を飛ばし、降伏を呼び掛けた。 だが、信玄たちからの返事は一通もなかった。 戦が始まればもうに出来ることはなかった。ただただ父の、いや。夫の無事を祈るのみ。 は徳川の女になったのだ。いつまでも武田に肩入れは出来ない。に出来たことといえば、最後のその時、父や幸村たちの助命を乞うことだった。 「おめぇはなにも悪くねぇ。悪いのは俺だ。俺を憎めばいい」 「いいえ、家康様こそなにも悪くなどないのです。世は戦乱の時代。こうなることは摂理だったのです。仕方が、なかったことです」 「・・・」 「天下人に逆らったのです。仕方がありません。それに、負けた武将が情けを掛けられ生かされる。それは耐え難い屈辱です。戦場で死ねたなら、きっと、父も幸村も本望でしょう」 暫く間を置き、家康はもう一度馬鹿者が、と溢した。存外に小さく、震える声。 家康はいくらか成長した体でを包み込む。幸村や信玄に比べれば未だ小さいものの、をしったき抱き止められるほどに成長した、男の肉体であった。 「ごめんなさい、家康様ごめんなさい。私、徳川の女になったのに。あなた様な室になったのに」 「謝ることねぇ」 「駄目です。私は、もう徳川の人間です・・・。でも、ごめんなさい、今だけ、今だけはっ・・・」 堰を切ったように涙が溢れて喉が引くつく。胸が締め付ける痛みが心臓をも握りつぶさんとする。震えるの泣き声に、家康はただただその細い体を抱き締めた。 家族を、家を滅ぼしたのは家康だ。それでも、は家康を憎もうとはしない。自分は徳川に嫁いだからと、身も心も徳川に捧げようとする。 美しく優しすぎる妻のその心根に、家康はただすまねぇ、と圧し殺した声で謝罪を呟くしか出来なかった。 「父上っ・・・幸、村・・・佐助っ・・・」 肌越しに伝わる悲しみの鼓動。 肉親を失う痛みは、家康も知っている。 家康にとって、三河の民や兵一人一人が家族同然。 はそれをすべて失ったのだ。その痛みは計り知れない。 その悲しみをぬぐってやりたい。しかし家康はその痛みを与えた張本人だ。してやれる事は、あまりにも少なかった。 「、俺はおめぇから信玄公や虎の若子を奪った」 「それは違います家康様!」 「聞いてくれ。俺はおめぇを悲しませたくはねぇ。ただの自己満足かも知れねぇが、おめぇの為に何かしてやりたい。頼む。何か無茶難題を言ってくれ」 「家康様・・・」 涙はまだ止まらない。 はらはらと美しい珠の涙がのなめらかな頬の曲線にそって着物の布地を濡らした。 「おめぇを泣かせるわしが言うのも妙な話だが、おめぇが泣いているのを見るのは、辛い」 卑怯な言い方だと言う自覚はあった。 優しすぎるはこう言ってしまえば何か言わざるえないだろう。 は戦国の世には不釣り合いなのだ。 優しすぎるから苦しむ。 しかし、それさえも愛しいと思った。 同盟を抜きにしたって、家康はを愛しく思っていた。 泣いたり悲しんで欲しくないのは、紛れもない事実なのである。 「・・・では、御髪を、下さい」 「髪?」 「・・・はい。幸村の、彼の御髪を一房」 「首ではなくか?」 言えばが泣き笑いを浮かべる。 心配掛けまいとしたのだろう。失敗した歪な笑みは、どうしようもないほどに悲しかった。 「みしるしは家康様のものにございます。それは家康様の武勲。大切にしてくださいませ」 「・・・わかった。すぐに取り寄せさせよう」 「有り難き幸せに存じます。父は剃髪でしたし、佐助はきっともう処分されましたでしょう」 「・・・ああ」 「ですからどうかせめて、幸村の形見に私にお与えください」 最後の涙を一滴を、は着物の袖口で拭った。 残された笑みはまだ少しぎこちなかったが、先程に比べれば遥かにましに見える。 家康は言葉なく頷き、の手を取り優しく包んだ。 「、おめぇはいつも我慢する。だがな、戦とはいえわしはおめぇにたいして償いきれねぇ程の罪を背負った。おめぇはいつだって、わしを憎み、見限っても構わねぇからな」 「そんなこと、しませんよ」 困ったように眉尻を下げながらも穏やかに笑う様は、死を間際にした信玄によく似ていると思った。 家康は堪らずにの手を握り指に力を込める。 本当は、これからもずっと側に居て欲しい。 隠された矛盾に、家康は一人自嘲を溢してから緩やかにの腕を離すのだった。 |