act,9 か細く途切れた悲鳴に、鼠でも出たかと苦笑する家康は落ち着いた足取りで声がした部屋にと向かう。 しかしそこには声の主はおらず、ただ着物の山が一つ出来上がっているのみ。 自室に残された他人の着物に家康は一体何だと思考を巡らす。 「?」 名を呼ぶが返事はない。普段ならば瞬く間に返事をして現れるというのに。 何事かと小首を傾げる家康の耳元に、小さな声が届いた。 「殿!殿!」 「?どこにいるんだ?」 「殿!こちらです!こちら!!」 声は着物の山から聞こえてくる。どういう事だろう。家康が訝しみながら着物の端を摘み上げれば、高い悲鳴と共にころりと転がるなにかが目に付いた。 「えっ、・・・か!?」 「殿!後生ですので着物をお返しください!!」 必死に両腕で体を隠し、背を丸めるは一糸纏わぬ裸体であり、そして身長は一寸ほどに縮んでいた。 三河の名だたる姫武将であるの、あまりの変わりように家康は呆然と立ち尽くしたまま小さなを見下ろしている。 「殿!」 「わっ!す、すまん!!」 文字通り投げる様に着物を返すが一寸しかないの体は着物に埋もれ、身動きが取れず溺れるようにもがいてしまっていた。 家康は急いで手近な手ぬぐいに穴を開け、頼りないながらもないよりましな被り物の着物を一枚仕立てる。 「一体どうなっているんだ?」 見ないようにを着物の山から救出して即席の着物を渡せば、は渋々諦めたように渡されたものに袖を通す。 いわゆるてるてる坊主の風体になったをまじまじと見つめる家康。 はといえば厳しい表情で家康を睨み返していた。 「ご自分の胸に手を当てて下さいませ!」 「なんだなんだ?」 とぼけている様子ではないのだか、は怒りの矛先を収められない。 「また妙な南蛮の薬などを集めたでしょう!これがその様でございます!」 「飲んだのか?」 「殿は怪しげな薬に頼りすぎるのです。今頃殿が一寸法師になっていたやもしれないんですよ!?どうかご自重ください!」 怒り心頭のの様子だがそんな小さななりで睨まれても恐ろしくともなんともない。 家康はあまりに小さくなってしまったの首筋あたりをつまみ上げ、鼠のごとく軽々と持ち上げてしまった。 「とっ、殿!お離しください!高いですっ!!」 「いやぁ、しかし本当に、随分と縮んだものだな。若返りの薬と聞いていたんだが」 「充分お若いでしょう殿は!!」 「はは、最上殿に頼まれていたんだ」 掌に乗せてもなお余りある。 居心地悪げに座りなおすを見ていると、まるで釈迦になってしまったような気持ちで何とも言えない。 「しかし、こんなに小さくてはうっかり潰してしまうぞ」 「では殿の肩をお貸しくださいませ」 「分かった」 手のひら肩へ。腕を動かせばは軽い身のこなしで飛び移る。 「まるで慶次みたいだ」 「私を子猿と一緒くたにしないでくださいませ!ああ、それにしても目眩がするほどいい眺めです」 「、大丈夫か?顔色が悪いぞ」 「命綱もないのにまるで雲の上にいるようなものですよ?青くもなります」 「なら、しっかり掴まっておいた方がいいな。まぁ落ちてもちゃんと受け取ってやるぞ?」 かんらかんらと笑う家康の様子にはむすっと口元を引き結んでしまう。 確かに勘違いの上に忍も使わず自分自ら毒見して、薬に頼る愚かさを証明してやろうとしたのはの勝手だが、一歩間違えれば家康がこうなっていたのだ。 それにいつ戻るかもわからない。 もしかしたら一生戻らないかもしれないのではないか? 家康のあまりの楽天ぶりにはついつい声を荒げてしまう。 「殿!お巫山戯もそこまでにしてください!もしも私が一生このままだったらどうするおつもりです!私とて三河の双璧と呼ばれた武将、笑い事ではございませぬ!」 耳たぶを引っ張って、大声喚くが家康は笑みを崩さず「これはまいった」と再びを摘まみ上げて掌に戻した。 突然のことに足元がふらついているに気を配りながら、家康もまた畳の上に腰を落ち着ける。 「、わしは案外今のお前に不満はないぞ?」 「なんてこと!戦力にもならない私を良しとしますか!」 ひどい話だ。 は今まで粉骨砕身徳川に、家康に仕えてきたというのに。 泣き出しそうになるの頭を人差し指の腹で撫でる家康は「違う違う」と無邪気に笑った。 「がこの姿なら閉じ込めることは容易くなるし、わし無くして生きて行けぬようにすることも簡単だ。誰の目にも触れられぬよう、わしだけを見つめさせることが出来る。一生、わしがを独り占めすることができるからな」 「殿・・・」 屈託なく笑う家康の表情の陰影に、は胸が締め付けられる痛みを抱えながら家康の固くささくれた親指を抱きしめて頬ずりした。 「下らない事を仰らないでくださいませ。こんな姿でなくとも、は一生御側にいますのに」 そんなことも知らなかったのですか。 そんな風体で囁けば、家康は困ったよう眉を下げて頬を赤く染める。 「まいったな。今すぐを抱きしめたいんだが」 「然らば、打出の小槌でも探すしかありませんね」 柔らかい微笑みは優しく、そして言外に釘を指す雰囲気も忘れない。 苦笑を零す家康と、鬼の首を取ったかのように胸を張る。 薬の効果が失われるまで幾許か。 家康は掌で包み込める小さく暖かい鼓動を愛さずにはいられないのであった。
親指姫 |