負ぶい紐できつくきつく子を体に縛り付け、早馬を何匹も乗り潰して逃げ果てた。 最南端九州島津領。 ここに来るのは何度目だろう。 この地に来るたびに、背後から来る強襲に怯えた苦い記憶が呼び起される。 何度も兵を失った。 此度もまた、多くの命が散って行った。 だが幸村だけは死ななかった。 死んではならなかった。 胸の中で小さくなる子供の泣き顔に、幸村は口端の血を拭い安心させるように囁く。 「命に代えても。必ず、この幸村めがお守り致す」 気休めでしかない。 敵は来る。多く来るだろう。撒いた確信はないが、佐助が上手くやったことを祈るしかない。 数匹目の馬がとうとう倒れ、咄嗟に飛び降り馬を振り返る。 泡を吐き痙攣し、焦点は定まっていない。 「よくぞ働いてくれた。感謝する」 名もない馬の首を落としてやる暇も術もなかった。 最後まで苦しませることを悔やみながら、幸村は幼子を抱いたまま島津領へと駆けた。 茹だるような暑さが肺を焼く。 汗と疲労に体の感覚が遠のいているのがわかった。 それでも、ただひたすら胸の中に抱く子供の命の重みに歯を食いしばる。 死ぬわけにはいかない。死ぬわけにはいかない。最期の誓いくらい果たせずして、いったい何を果たせばいいというのだろう。 「島津殿!!鬼島津殿!!どうかお助け下され!!温情を!!せめてこの方をお救いください!!島津殿!!!」 駆け寄る門番の兵を押しのけ幸村は城門を叩き続ける。 「島津殿!!どうか!!どうかっ・・・!!この方だけでいいのだっ!!俺の首を差し出してもいい!!どうか!!この方をお救いください!!島津殿!!!」 *** 「げんじろー!!きょうもやりおしえてよー!」 「おしえておしえてー!!」 「お主ら、母御の手伝いをしなくてもよいのか?」 「ちゃんと言ってきたもん!」 わいわいと駆け寄る子供たちに男はやれやれと腰を上げると、子供たちに押されて家から引きずり出されると、高い日差しに目が眩んだ。 南の陽は常に高く陽射しが強い。なかなか慣れぬ日差しと渇きに、源次郎は酒瓶から酒を煽る。 「げんじろう昼間から酒のんでるー!!」 「水だ水」 「うっそだー!くさーい!」 「槍術は教えてやらんぞ」 「ごめんなさい!!」 子供たちは持ってきた槍を構えて源次郎の前に整列する。 本の気まぐれで一度教えたら毎日これだ。 あくびを噛み殺しながら子供たちを見渡せば、みな訓練はまだかと目をキラキラさせている。 「お主ら。この地に生まれれば示現流を習いたいとは思わぬのか?先の領主の鬼島津と名高い義弘殿は、腕の立つ武人だったらしいではないか」 「でも槍もかっこいいもん!」 「おれ槍の槍の又左みたいになるんだ!」 「おれたちは五本槍!」 めいめいが目標を述べる中、一人二本の棒を構えた子供が高らかに言う。 「おれはさなだ!紅蓮の鬼みたいになるんだ!」 「えーでもその人負けちゃったんだろ?」 「そうそう!関ヶ原で死んじゃったんだよ!」 「よわいよわい!ぜんぜんダメだって!」 一人を輪に囲い子供たちが囃し立てるのを源次郎は眠たげな眼で見つめ、それからその言い合いが収まるのと待って手を叩いた。 「気が済んだか?では今日は突きの練習でもするぞ」 はーい、とまばらに上がる返事を聞きながら、源次郎は戸口に立てかけてあった棒を手にとった。 棒を構え何もない場所に突きを繰り出すだけの訓練はすぐに子供は飽きる。たまに組み手を入れたり。鬼ごとの要領で走り込みをさせたりもする。 時折傍を通る島津兵に示現流を乞う事もした。 「では今日の練習はこのあたりでよいだろう。まっすぐ帰って母御の手伝いをするといい」 「ありがとうげんじろう!これかあちゃんがつくったにぎりめし!」 「おれんちもかあちゃんがもってけって!」 「すまぬな」 そうして手を振り家に戻っていく子供の姿を見送りながら、源次郎は重たげな体を引きずって家に戻る。 流れた汗をぬぐう事も億劫で、また浴びるように酒を飲む。 酷く渇く。酒の肴には合わない握り飯をほおばりながら、ようやく腹が減っていることに気が付く始末だった。 源次郎には伴侶がいない。 一人村から離れて暮らす怪しげな男だ。伸びた髪はそのままで、痛みにほつれに纏めることもない。髭の手入れもそこそこに、無精ひげ姿がいつもの顔だ。年も盛りは過ぎ、表情には覇気がない 普通ならば村八分だろうが大らかな島津領の人間はこぞって食べ物を分け、暮らしに不自由がないかと聞く。 源次郎はなれない笑顔を浮かべ、礼を述べて毎日を暮らしてきた。 風の噂では天下平定後争いはなく、国は穏やかに発展していると聞く。 握り飯を二つほど腹に収めた源次郎は、付け合せのたくあん噛みみ砕いて酒で流し込んだ。 島津領はいいところだ。 人は情に厚く親切であるし、何より酒が美味い。多少の暑さに目を瞑れば、暮らしやすくいい所だ。争いもなく、穏やかな場所だ。 酔いが回ったか、とろりと微睡む瞼に横になる。 海から来る潮風が心地よく、四肢を投げ出して源次郎は目を瞑った。 「姫御殿。また城を抜け出しましたか」 「・・・どうして私がいるってわかったの?」 戸口の隅から片目分だけ顔を出す娘の姿を確認して、源次郎はやれやれと大きなため息をついて半身を起こす。 「また世話役の女中たちが泣きますぞ」 「大丈夫よ。だって今日も誰にも襲われなかったもの」 「それは島津殿の力が偉大だからだ。姫御殿に何かあればこのあたりの者は一様に打ち首になってしまう」 「平気よ。本当はみんな私の事なんでどうでもいいんだもの。だから私が城を抜け出しても何も言わないのよ」 つんと顔を背ける姫に源次郎はまったく、といった風体で吐息を零した。 「姫御殿はあの義弘殿の孫娘。大切に思わぬものなど居らぬでしょう」 「でも血は繋がってないんでしょう?私は貰われてきた子なのでしょう?」 「一体誰がそんなことを」 「みんな陰で言ってるわ!私なんて・・・いない方がいいんだわ。ねぇ源次郎。私をここに置いてくれないかしら?」 酒を煽り、九州独自の喉を焼くような強い酒が胃に染みる。 この問答は何度目か、睨むように姫を見返せば怯えたように肩をすくめる少女の姿が視界に収まる。 「姫御殿は、今年でいくつになられます」 「・・・十七よ」 「大切な姫だからこそ、どこにも嫁がせないのです。島津殿らの思いを汲んで差し上げなければ義弘殿も浮かばれますまい」 「違うわ!!私が忌まわしい血の娘だから!!何処にも嫁がせずにこの地で死ぬのを待ってるのよ!!」 キンキンと高い声に喚かれ源次郎は頭を抱える。音の衝撃に眩暈を覚え、流石に酒ではなく水を飲む。みずやから姫を振り返れば、涙を湛えた両目からは今にも溢れてしまいそうだった。 「一体何を言っておられる」 「私は本当はおじい様の孫娘なんかじゃないんでしょう?私は豊臣の娘なのでしょう?日の本に最も長く争いの渦を注いだ呪われた者の娘なのでしょう?」 「誰がそのような法螺を言ったかは知らぬが、そのようなことがあるはずないだろう。第一、何故俺に言う。俺がそんなこと知るはずないだろう」 「幸村、」 ほろり、姫の頬を涙が濡らす。 外の日差しは家の中までは届かない。籠る熱気と、薄い影。弱い潮風に空間がか弱く震えた。 「源次郎、あなたは幸村なんでしょう?私を大坂城から連れ出してくれた日の本一の兵なのでしょう?私の為に、命を懸けてくれると言ったじゃない・・・」 「・・・姫御殿。俺はただの足軽だ。島津殿の温情にてこの地にいることを許された罪人だ。その俺が、島津殿の孫娘である姫御殿と会ったことなどあるはずなかろう」 「嘘よ・・・私覚えてるもの。幸村の眼差し。幸村の面影。こんなだらしない格好してたってわかるんだから。ねぇ幸村。お城の中って安全だけど、決して安心できる場所ではないのよ・・・?おじい様はもういない。私を守ってくれる人はもういない。誰も私を必要としない。私はあの城の中で、誰にも知られず弱って死んでいくのよ。そんなのは嫌。お願い。ねぇお願い幸村。私を連れて逃げて。姫だなんて呼ばないで。姫なんかじゃなくていい。私は自由が欲しい。あなたと一緒に生きたいの・・・おねがい、ゆきむら・・・」 はらはらと、花弁が散る様に流れる涙の滴を視線で追いながら、源次郎は美しい姫の泣き崩れるさまをじっと見ていた。 「俺は、なにも守れぬ男だ。だから、殿を守ってやることは出来ぬ・・・」 緩やかにあげられたの顔。赤くなった目尻をまた涙が流れる。しとどに濡れた睫毛が潤み、しゃくりあげる喉の細さに幸村は目を背けた。 「俺は、己の未熟さゆえに主君から預かった国を滅ぼしてしまった。多くの兵を死なせてしまった。多くの民をも死なせてしまった。俺の忠義はその方のみに捧げてきたのに、俺は、お館様にかけていただいた恩を何一つとして返せなかった。そして国を再興すべく、俺は西軍に付いた。石田殿は俺とよく似ていた。肩を並べるに相応しい方だと思った。だからこそ、俺の中に残った僅かばかりの忠義を、俺は石田殿に捧げた。だがその方も死んでしまった。志半ばに死ぬことを知った石田殿は言った。せめて、豊臣の血を守ってほしいと。俺には何もできなかった。何もだ。俺にはもう何も残されていなかったのだ。兵も、槍も、忍も、なにも。俺は身一つで逃げだした。救ってくれた島津殿にもなんの恩も返せず置いていかれてしまった。俺は何も守れぬ。何もできぬ男なのだ」 「幸村・・・」 「そなたは姫だ。島津の姫だ。決して豊臣の子ではござらぬ。豊臣の子は男児であった。名は秀頼。殿。そなたは何も案ずることはない。島津の地で、安らかに過ごしてくれ。これほどに素晴らしい地は、どこにもないのだから」 穏やかに笑う男の悲しい瞳に、は体を丸めて泣きじゃくった。 本当はすべて知っている。 五つにも満たなかった子を豊臣の頂点に据えるには女では都合が悪かった。だから大谷はを男と偽った。きっと三成の了承もあったことだろう。 戦いに敗れ、幸村が大坂城から連れ出してくれたことをは昨日のことのように覚えていた。 あの燃える城に単騎で駆けつけ、槍が折れようと、奪った刀が砕けようと、幸村はを連れてあの城を逃げてくれた。 長い長い道のりの中、慣れぬ調子で安心させるように背を撫で声をかけてくれた。 島津への救援の際には、命を投げ打ってでも救おうとしてくれたことを。 徳川には性別も名も割れている。もしもどこかに嫁いで生きていることが知られればたちまち殺されるだろう。 そして幸村もまた、を守るための対価として武人としての価値を失った。 豊臣の最後の血の一滴と、それを生かした男を匿っていたと知られれば島津は無事では済まないだろう。 幸村が自分の所為で、もう二度と武人として生きることが出来ないことをは知っている。 だから幸村は、こうしてこのなにもない、村からも外れた人気のない辺鄙な場所で一人朽ちようとしているのだ。 「生きているのに、幸せになれないなんて・・・私たちは、呪われているのね」 これが豊臣の血の呪いなのか、徳川の呪いなのかは定かではない。 ただわかることは、ふたりはこうして守り守られたが為に、二度と飛び立つ事の出来ない鳥籠にへと身を投じたことだった。 これでは、生きたまま死んでいるのと同じだ。 生きながら腐り、朽ちていくのと同じた。 「殿が生きて下さるのならば、俺は呪いでも、構わないのです・・・」 優しい声、優しい思い。だが優しい熱だけが伴わない。 あの腕がを連れて逃げてくれることはもうない。 逞しい両腕で、安心させるように抱きしめてくれることはもう二度と、ないのだ。 もっと悪辣に生きてみろよ title by 暫 |