一人暮らしの人間がペットを飼うことは、非常に危険な賭けである。
大概はペットに愛情を注ぎすぎ、外の世界に目もくれずに婚期を逃す。そんな所だ。
ペットにとっては飼い主が全てだ。
愛情を100%の愛情で返してくれる愛玩動物。
たとえそれが彼らにとっては生きるための打算的な本能だったとしても、人間はこの上なく満たされるのだ。
からからに乾いた現代社会。
人は、求められたいのだ。誰かから、愛されたいのだ。

私が飼ったペットは犬でも猫でも小鳥でもない、熱帯魚。
金魚鉢に収まる程の小さな体。青くきらきらとした鱗と羽のような長い尾びれと胸びれ。
ふと覗いた店先で、その子はひとり大きな水槽に入れられていた。

「あの、表の熱帯魚」
「ああ、あれ?特売だよ。気が強くてほかの魚と喧嘩しちゃうんだよ。知らない間に目の所も怪我してるし今なら半額だよ」
「・・・売れなかったらどうなるんですか?」
「ん?廃棄だけど?」

給料日前の散財だった。
水槽から餌まで一式をその店で買いこみ、家に帰ってその子のために部屋を模様替えした。
カーテンは黒の遮光にして、ブルーライトに照らされる部屋はまるでプラネタリウムか水族館に様変わり。
思わず笑ってしまう。
水槽の中にいるのはたった一匹の熱帯魚。
犬や猫の様に愛想を振りまくこともなく、小鳥のように歌ってくれるわけでもない。尽くした所でなんにもならないが、私はひどく満足していた。
だって、私は指先一つでこの子の命を奪える。
水温の電源を切ればいい。それだけだ。
でもそんなことはしない。私はまるで神様の様に、この子のために住みよい環境をつくり、そして共存していく。
この子は私なしでは生きられないのだから。
それはひどく、歪んだ満足感であったと思う。

***

あれから三年。私の部屋は24時間日の光が届かない水底の様になっていた。
水槽は全部で三つ。
どれも大きい。そのうちの二つには色とりどりの様々な種類の熱帯魚を詰めたカラフルな水槽。そしてもう一つは片目のあの子の水槽。
薄青の敷石に新鮮な水草。水はこまめに変えてやり、水槽には汚れ一つない。
その中で優雅にたゆたう。この水槽はこの子だけの特等席だった。
初めの頃は同じ水槽に別の熱帯魚を入れてみたのだが、すぐに烈火の如く暴れ出して攻撃を始めるので、すぐに別の水槽を用意したのはいい思い出だ。
黒いカーテンで日の光を遮断した私の部屋は、世界から切り離され水槽の空気の音が水の中だと錯覚させる。
この部屋は宇宙を漂うひとつの水槽だ。深海を進む潜水艇。もう誰の手も届かない。一人ぼっちの私のお墓。

用事のない休日は、こうしてお気に入りのソファに寝そべって水槽を見つめるのが恒例になった。
ブルーライトが魚たちを照らす。
きらきらと水の光が反射して、魚たちの鱗は眩い宝石の様だった。
水槽の中で戯れるの、いつまでも美しい魚たちと後は老いていくだけの私。
もし、私が死んだらこの魚たちはどうなってしまうだろう。皆飢えや汚れでしんでしまうのか。そう思うと悲しくて、遺言でも残して誰かに世話を頼めばいいか。とも思う。
けど、一体誰がこれほどの数の熱帯魚を受け取ってくれるだろう。
ここは私の墓だけど、みんな連れていくにはあまりにも忍びなかった。
こぽぽ、気泡の音が聞こえる。
水の揺らぎ、尾ひれが水をかく音。あぶくの塊が舞い上がって、耳の奥で反響する。瞼の裏で反射する光。暖かいぬるま湯の様な空気。頬を撫でる質感。包まれる。まるで、無重力の様に。



この部屋で私の名前を呼ぶ存在はいない。
友達も彼氏もいない。家族もいない一人暮らし。この部屋にいるのは私と、私の熱帯魚たちだけだ。
誰だろうとゆっくり目を開けば、そこにいたのはまるで絵画から抜け出してきたような美しい青年だった。
羽衣の様なさまざまな青い布をふんだんに使った、見たこともないような服を着た青年が私のすぐ傍に浮いている。
そしてその周囲には熱帯魚たちが遊泳していて、テーブルの下や、テレビなどの家具の傍をゆるりと泳いでいた。
なんて不思議な夢だ。こんな水槽のような部屋で昼寝をしているので当然かもしれないと思うと、勝手に口元が緩んでいた。

「あなたはだぁれ?」

目覚める前の眠たい思考で聞けば、美しい青年は惚れ惚れするような笑みで答える。

「天の龍神、水と雷の支配者政宗様だ」

と尊大な様子でふんぞり返った。
水圧なんて感じない、無重力の海で政宗と名乗った青年は足を優雅に組み替え向こう側を指差す。今は空となっている水槽だ。

「あそこにいた」

と肩で笑った青年に合わせて、空気の様に存在する水の揺らぎを感じる。
呼吸が出来るが、ここは確かに水の中の様だった。

「あなたは青ちゃんなの?」
「お前はそう呼んでたな」

あの片目の熱帯魚。そのいい表し難いほど美しい青い身体に私は青という名前を付けた。なんの捻りもない、それでいてすべてが詰まっていた名前だ。
政宗はゆるりと水をかくと、その周囲に嬉しそうに熱帯魚たちが集まってくる。
光の粒を纏う美しい青年。なんて素晴らしい夢だろう。ほうと漏れた吐息は気泡となって、白いあぶくは天井の隅に上っていった。

「今じゃあんな小さいなりの魚になってたが、少し前までは天上に住んでたんだよ。俺は人間を見てるのが好きでな。ちょっと水鏡から覗きこんだらうっかり。この様だ」
「おっこちたの?空から?」
「まぁな。暇つぶしに眷属の体に宿ってみればなかなか面白れぇ生活が出来た。人間ってやつはやっぱり飽きさせねぇ」

にぃやりと吊りあげられた口角から覗く鋭い八重歯。いや、牙だろうか。完全に目が覚めた頭と、醒めない夢。
私の周りをとりまく熱帯魚たちが、現実感を滲ませていた。

「俺と眷属たちの世話してくれた礼にお前の願いを一つ叶えてやる」
「願、い・・・?」
「ただし、お前が三つの試練を乗り越えられたらな」

お礼じゃなかったのかと内心文句が浮かび上がるが、そんな事はどうでもよくなる程政宗の顔は整っている。美しい。目が眩む様な美貌だ。
きめ細かい肌。涼しげな目許に、えも言われぬ青を宿した瞳。気付けば私はほとんど催眠状態の様な、回らない頭でひとつ頷いてしまっていた。

「じゃあ第一の試練だ。俺の手が取れるか?」

差し出された、なんの変哲もない男の手。自分の手よりもふたまわりは大きく、節榑立つ異性の手。逃げる様子もなく、手はただそこにある。
どうした?と小首をかしげ問いかける瞳。やはり、思考は吸い込まれる様に私の意志から離れて行き、手は知らない間に政宗の掌に重ねられていた。

「Good,次の試練だ。俺の膝の上に乗れるか?」

見えない水の玉座の上で胡坐をかく政宗。
優しく指を絡めて握られた手を手綱に、私は泳ぐようにソファから政宗の方へと身を投げる。水の壁が、ゆっくりと私と政宗の距離を失くしていく。それは阻むのではなく、むしろ手助けをするように私の体を押し上げ、すっぽりと政宗の胡坐の中に納めてしまった。
水の中では体が安定せず、ふわりと跳ねる体を政宗はそっと腰を捕まえ支えてくれる。

「なかなかやるじゃねぇか、。なら最後の試練だ。俺に、キスできるか?」

鋭い牙を見せて笑う政宗の表情は酷く艶っぽかった。
隅から隅まで美しい。声も、姿も、その仕草も全ても。これが神様なのか。人ではないものの美しさなのか。
指を絡めた政宗の手は、爪が鋭く伸び肌には魚の様な蛇の様な、そのどちらでもない様な鱗が見える。牙は、更に鋭さが増し、こめかみからはさっきまではなかった牡鹿の様な、空想の絵空事の様な対の角がしなやかに伸びていた。
そして、私を見下ろす青い瞳。その奥に光る金色の光。瞳孔は縦に割れていた。一瞬にして肉食獣を思わせるその瞳が、何故だか私はちっとも怖くなかった。
ただ、その瞳を見つめることが出来て嬉しかった。
まるでそれが至上の幸福の様に。
私という器に水が注がれる。私の中で何かが満ち満ちていった。
その瞳はゆっくりと、瞬きをすることもなく私の真上に差し掛かる。呼吸が止まる様な、永遠の一瞬に思えた。
そして、ふに、と柔らかい感触。
あっと思う間もなく政宗の唇は離れていた。

「残念。challengeは失敗みたいだな、
「えっ、えっ・・・?」
「お前からしなきゃ試練にならねぇからな。さて、試練を成功させられなかった奴には罰を与えるのが決まりだが」
「そ、そんな!」

罰という単語に背筋が凍る。相手は神様だ。もしかしたら殺されてしまうのか?私は死んでしまうのだろうか。

「そうだな。そうしよう。罰としてお前に死を与えてやる。それが試練を乗り越えられなかった奴に相応しいだろ」
「や、やだっ・・・!!」

私の心を読んだのか、そう笑う政宗から逃げようにも体は政宗の膝の上。手は繋いだままで慣れない水の中では突然水圧が生まれた様に上手く身動きが取れない。こわい。そう震える私を余所に、政宗はまるで地上の様に悠然と立ち上がり、私の体を一層きつく抱き寄せた。

「お前は、俺の天上に連れてってやる。安心しろ。痛くはしねぇさ」

そしてもう一度キスされる。
今度はしっかりと、深く、何度も、何度も。角度を変えて、舌を絡めて、呼吸を奪う様に唇が重ねられる。苦しいのに、どこか甘くて、離れがたい。
溺れてしまいそうな息苦しさに、必死で政宗の服を握り締める。柔らかな布の奥に隠された、政宗の逞しい肌に指が触れる。場違いに跳ねる心臓は、酸欠の苦しみからだと思いたい。
きつく抱かれ、胸が触れ合う。耳の奥で心臓が暴れ、熱帯魚たちが忙しなく踊るように泳ぐ水音に平衡感覚を失った。

「あ                あっ        あ」

堕ちている?それとも昇っているの?
それさえもわからない。眩しすぎる光に私は目を閉じたまま温かな闇に抱きしめられ身動きもとれない。

「俺がずっと一緒にいてやるさ。ただ、今度は俺が御主人様だぜ?

甘い、甘い、毒の様な蜜の声。
途切れることなく聞こえる無数のあぶくが生まれる音に包まれながら、私は嬉しくって泣いていた。