僕が豊臣に組み込まれた時、とても恐かったのを覚えている。
秀吉様は大きくて怖い顔だし、半兵衛様は綺麗だけどその分笑顔が怖かった。
三成くんも、刑部さんも、いつも怖い顔をしていた。
僕は毎日お腹が痛かったし、毎日おうちに帰りたいと願っていた。
けど帰れるはずもない、僕は秀吉様の養子になったからだ。
僕は望んでもないのに、こんなところには来たくなかったのに。

「あら、いい匂い」

その日、僕の部屋の近くで女の子の声がした。
一瞬誰かわからなくて、思わず隠れてしまう。
自分の部屋なのに。自分が情けなかったけど、僕は思わず屏風の後ろに身を隠す。
襖の陰から現れたのは、秀吉の子であるちゃんだった。

「まぁ、いい匂いの正体は鍋だったのね」

くすりと笑ったちゃんはきょろきょろとあたりを見回してから、そっと席に座り僕のお箸で鍋を一口平らげる。

「あ」

と漏れた声には振り返り、照れたように笑った。
この大坂城で綺麗な笑顔を見せるのはちゃんくらいだ。

「ごめんなさい。つい美味しそうな匂いで」
「え。あ。い、いいよ。全然!」
「羨ましい。私の八つ時にはお鍋なんて出なかったのに」
「あ、これ、僕が作ったんだ」
「まぁ、あなたが?」

それがぼくとちゃんが初めてあった日のことだった。
今でも覚えてる。
大坂城での幸せな記憶は、みんなちゃんのことだった。

「ええと、君は?」
「私は。秀吉様の娘なの」
「え!?僕も、一応秀吉様の子供なんだ・・・」
「じゃあ、私たち姉弟ね」

そう笑ったちゃんは優しく僕の手を握ってくれた。
柔らかい指先にドキドキしたのを覚えてる。

「でも、秀吉様に似てないね」
「だって私養女だもの。あのね、秀吉様って奥方様がいないでしょう?それで、奥方様だった人によく似ているから私を娘に選んでくださったんだって」
「そう、なんだ・・・僕なんて、どうして養子に選ばれちゃったのか全然わからないよ」

本当は、分かっていた。
天下統一のための布石でしかない。結局、僕はどこへ行っても駒扱いだ。

「あなたもきっと似てるんだわ!ほら、私の目の感じがそっくり」
「わああ!ち、近いよ!」

目の前にあるちゃんの瞳は、すごくきらきらしていて眩しかった。
とても僕の目とは似ても似つかなかったけど、こんな風な目だったら素敵だと羨ましく思った。
それから僕とちゃんは仲良くなって、そこに三成くんが混ざって、そして家康さんも一緒になって、僕たちは毎日遊んだり武芸を磨いたり学問を学んだりして過ごした。
辛いこともあったけど、ちゃんと一緒だったからがんばれた。

あの日までは

「僕、戦になんか出たくないよ・・・」
「秀秋・・・」

僕の鍋に付き合ってくれるのはちゃんだけだった。
心は哀しくても鍋だけは上手に出来てしまう自分が憎らしい。
ついこの間、三成くんが初陣を済ませた。次は僕だ。震えが止まらなかった。
ちゃんはいつものように優しく笑う。

「大丈夫、秀秋は私が守るわ。だって私お姉さんだもの」
ちゃん・・・」

豊臣の一員である限り、すべてが秀吉様の力だった。
女の子でお姫様のちゃんも同じだ。養女だからといっても関係ない。
僕も、ちゃんも、すごくかわいそうな子供だ。

様!こちらに居られましたか。秀吉様がお呼びです」
「あら三成、一緒に鍋でもどう?」
「・・・私は結構です。様。このような所にいらしては愚鈍さが感染ります。お早く秀吉様の元へまいりましょう。金吾!貴様もだ!」
「ひぃい!」
「三成、そんなに秀秋を苛めないであげて?」
「・・・」

三成くんは、僕のことが嫌いだ。
秀吉様のお姫様であるちゃんと仲がいいからだ。
三成くんはきっと、ちゃんが好きだ。家康さんも、足軽のみんなも。
ちゃんはみんなに優しい。僕みたいな落ちこぼれ武将にも優しいんだもん。

そうして結局僕とちゃんは同じ戦で初陣を済ませた。
小さな辺境の小競り合いだった。
それでも、何人かは死んでしまったし、敵はたくさん死んだ。
僕は震えて敵を討ち取ることなんかできなかったけど、ちゃんは大将首を討ったらしい。
僕は傍にいなかった。ちゃんは三成くんを引き連れて単騎で敵を討ったらしい。
僕はかなしかった。
あんなに綺麗なちゃんが、人を殺したなんて、信じられなかった。

***

それから、豊臣の後継ぎはちゃんに決まり、僕はまた養子に出されて小早川性になった。
僕は結局いつまでたっても駒なんだ。
戦なんてやりたくないし、国を治めるなんてできないよ。
なにも決められないよ。こわいよ。僕に責任を負わせないでよ。
秀吉様は天下統一の為小早川の軍を要請してきた。
僕は応じなくちゃならない。
数年ぶりの大阪城は、絢爛豪華で眩しくて、嫌な思い出がいっぱいで胃のあたりがじくじくした。

「秀秋!」

僕を迎えてくれたのはちゃんだった。
あの時と全然変わらない笑顔で、両腕でぼくを抱きしめて迎えてくれた。

「随分久しぶりね!秀秋!少し背が高くなったかしら?」
「あああああああの!ちゃん!ち、近いよ!!」
「ふふ、秀秋ったら全然変わらないんだから」

それはちゃんもだよ、って思った。
ちゃんはいつまでたっても優しくて、僕は思わず泣きそうになってしまう。
でも、僕だって男だから、そんな簡単に涙を見せられない。
ぐっと歯を食いしばって耐えると、こちらを見下ろす家康さんと三成くんの視線に気がついた。

こわい目だった。

やっぱりふたりは、ちゃんが好きなんだ。
僕だって男で、色事のことがわからない訳じゃない。視線の意味がわからない訳じゃない。

そしていつか、豊臣の血を続ける為に、どちらかがちゃんのお婿さんになるんだろう。
嫌だな。
そう思ったけど、僕はちゃんには釣り合わない。
それはどうしようもない真実で、僕は、突き刺さる視線を浴びながら、懐かしい大坂城に入城した。

大きな戦になると秀吉様が言った。
床に伏せた半兵衛様の代わりに、黒田さんと刑部さんと三成くんが軍師参謀として豊臣軍をまとめていた。
確かに大きな戦だと思う。小田原を飲みこんで、さらに四方八方と戦をするなんて。

「此度の戦。貴様も将として参加を命ずる」
「えっ・・・!」

兵士だけじゃないの?僕も?どうして?僕なんか強くないってい知ってるのに。僕が戦に出たって、邪魔になるだけなのに。どうして?どうして?どうして三成くんは笑ってるの?僕が死ぬと思うから?ざまあみろって思ったの?三成くんはぼくのことが嫌いだもんね。君がなれなかった秀吉様の息子になって、君が出来なかったちゃんとの時間を過ごして、戦から逃げるぼくが嫌いだもんね。三成くんの手引きなのかな。それとも刑部さん?僕はきっと死んじゃうんだ。次の戦でしんじゃうんだ。

「僕・・・戦になんか出たくないよぉ・・・!」

結局僕は秀吉様にはそんなことは言えなくて、部屋に戻ったしりから泣きだしてしまった。
泣いて泣いてお腹がすいて、それから悲しい気持ちで鍋を作る。
ぐつぐつお野菜を煮込む。相変わらず僕のお鍋は美味しい。

「秀秋・・・」
ちゃん・・・」
「一緒に、いい?」
「うん・・・」

やっぱり今も昔も、ぼくの鍋に付き合ってくれるのはちゃんだけだった。
二人で向かい合って鍋を囲む。季節の野菜たっぷりの鍋だ。美味しさを引き出すためには水炊きが一番。

「やっぱり、秀秋の鍋は美味しいね」
「・・・うん」
「秀秋、あなたは、きっと料理人に向いてるんだわ」
「料理人?」
「そう、戦なんかしないで、美味しい鍋料理を作って、たくさんの人に振舞って、それで、みんなを笑顔にさせることが、きっとあなたの天命なのよ」

ちゃんはあつあつのお野菜を一口。そう言った。

「でもぼくは、きっと次の戦で死んじゃうよ。僕弱いもん。戦なんてしたくない。戦えない。だから、きっとこれが最後の鍋料理」
「そんな事ないわ。戦になんか行きたくない、嫌だってお父様にお言いなさい」
「無理だよ!!無理無理!!絶対に無理だよ!許してくれるはずがないよ!」

秀吉様は昔から怖かった。
養子になった僕になにも声をかけてくれなかった。
無関心だった。
僕は秀吉様が怖かった。

「お父様は、あなたが争いを嫌うことを知っています。きっと、許してくれるはずよ」
「で、でも・・・無理だよう・・・」
「秀秋」

ことんとちゃんはお椀を置く。
真っ直ぐにこちらを見る瞳は、相変わらずきらきらしていた。ちゃんは、やさしくて、きれいで、そして強い人だった。

「もし、三成や、お父様たちが、今後一切鍋を作ることを禁じたらどうします?」
「え!!いやだよそんなの!ぼくの唯一の楽しみだもん!そればっかりは三成くんでも秀吉様でも譲れないよ!」
「そうね、秀秋が世界で一番好きなことだものね。でもね、戦に出て死んでしまうということは、もう鍋を作れないことでしょう・・・・?」
「・・・」

ちゃんはゆっくり笑って立ち上がった。
僕はちゃんを怒らせてしまったのかと思って、鍋の前なのに一気に全身が冷たくなった。

「秀秋。あなたはあなたがしたいことをしなさい。私は、出来ればあなたがたくさんの人と鍋を囲んで笑い合ってくれたら、嬉しいわ」
「・・・ちゃん?」
「戦が終わったら、また鍋を作ってね」

そう言って部屋を出るちゃんの背中を、僕は追うことも声をかけることも出来なかった。
僕は情けないけど、怖くて部屋から一歩も出られなかったんだ。

***

結局天下統一は成されなかった。
秀吉様が死んだ。
殺したのは、家康さんで、そして同じ戦で、ちゃんが死んだ。
僕は戦には出なかった。
秀吉様は、僕に戦に出なくてもいいといった。

「無理をさせようとしてすまなかったな、秀秋」

初めて秀吉様がぼくの名前を呼んでくれた。
恐い顔で、すまなさそうに眉を下げて謝った。
どうして?どうして?
秀吉様はぼくが嫌いじゃなかったの?

「お父様はね、あなたを戦わせたくなかったのよ。ずっと、昔から」

ちゃんはそう言った。
嘘か本当か、もう確かめる術はない。
ちゃんも、秀吉様も、死んでしまった。みんな死んでしまった!

「貴様の所為だ!!」

殴られた頬が痛い。
血が出た。口の中が苦い。
固い籠手がぶつかって、ほっぺたが燃える様に熱かった。
三成くんが泣いている。泣きたいのはこっちだよ。
痛い。酷い。どうしてぼくを殴るのさ。

「貴様の所為だ!!貴様が!貴様が!!貴様が代わりに死ぬべきだった!!様も!秀吉様の!!死ぬべき御方ではなかったのに!!貴様が代わりに参陣していれば!!お二人は死ぬことはなかったのに!!金吾!!全て貴様の所為だ!!頭を垂れろ!!首を差し出せ!!私の怨嗟を受けろ!!その命で罪を贖え!!」

血の涙を流して吠えたてる三成くんは、まさに狂人じみた鬼の形相で。
ぼくは怖くて震えあがったけど、それよりも、ぐらぐらと鍋を煮る様な炎がお腹の中で大きくなった。

「僕の・・・僕の所為なんかじゃないよ!!全部三成くんと家康さんの所為じゃないか!!秀吉様が死んじゃったのも!ちゃんが死んじゃったのも!!」
「私を侮辱するのか金吾!私を家康などと並べるな!!」
「黙らないよ!ちゃんと秀吉様を殺したのは君たちじゃないか!!君が秀吉様の左腕ならば命をかけて秀吉様を守ればよかったじゃないか!!ちゃんは女の子だったんだよ!?戦になんか出ないでいいって、君なら引き止められたはずじゃないか!!」
「貴様ぁ・・・!!その喧しい口を閉じろ!!今すぐ斬滅してくれる・・・!!」
「僕が二人を殺したのなら、君たちだって同罪だよ!三成くんも!家康さんも!!ぼくらがちゃんと秀吉様を殺したんだ!!」
「黙れ!!それ以上の雑言は許可しない!!今すぐここを去ね!!官兵衛の様になりたくなくばな!!」

そして僕は鳥城に戻った。
そのあと豊臣が崩壊して、また乱世の世が始まった。
家康さんが天下統一を目指して、三成くんがそれを阻もうとしている。
僕はどうでもいいよ。
ただ美味しい鍋が食べられたらそれでいいんだ。

家康さんはどうしてちゃんを殺したんだろう。
あんなにちゃんを大切にしてて、きっと、好きだったはずなのに。
優しい瞳でちゃんを見て、たまに、酷く怖い視線で僕の背中を睨んでた。
三成くんはどうしてちゃんを守れなかったんだろう。
あんなに秀吉様に心酔してて、ちゃんのことも、好きだったはずなのに。
いつでも手を取れる、あんなに近くにいたのに。


でももう僕には関係ないよ。
二人のことなんてわからないし、分かってももうどうしようもないことだから。
僕は鍋を作るよ。
ちゃんがおいしいって言ってくれた鍋を作るよ。
国を治めるのは難しくて、大変で、泣きそうになるけど、ちゃんが言ってくれたこと、守るよ。
領民のみんなや、兵のみんなとお鍋を食べるよ。
頼りない国主でごめんね。
でも、僕は頑張るね。
せめて、今だけはみんなの笑顔を守りたいから。
ちゃんとの約束を、守るね。






おまえが愛とよんだものは