「蘭丸!おかえり!」
「ああ」
「今日はどうだっただ?」
「狸が取れたぞ。あと猪。田吾作たちが持って帰ってくるから、あとで肉分けてくれるってさ」
「イノシシが!?今夜は御馳走だべな」

嬉しそうにはしゃぐいつきの銀色の髪が揺れる。
随分伸びて腰ほどあるそれは、雪国の光を吸って眩く煌めく。
いつきは二十二になった。蘭丸も、同じ年だ。
最北端の村に住み始めてもう十年。
この土地の寒さも随分慣れた。最北端の冬は長く冷たく世界を閉ざす。
遠い春が来るまでに、たくさんの食料を確保しておかなければならない。
十年目の、冬越えだった。

「蘭丸?なに考えてるだか?」
「いや、別に」

十年。長いのか、早いのかよくわからなかった。
蘭丸は十年前と比べて随分大人になった。
腕も脚も、背も伸びた。筋肉も腕力も比べ物にならなかった。打てる矢の数も増えた。狼もイノシシも熊も容易く討ち殺せる。
蘭丸は、昔の自分とは比べ物にならないくらい大人になった。
大人になっていたのだ。

「蘭丸?」
「・・・蹄の音が、聞こえたんだ」
「蹄の?」
「ああ、」
「政宗が来るだか?」
「こんな時期に来るわけねーだろばーか」

相変わらずいつきと二人でいると子供のような言葉で会話する。
くだらない言葉遊びに笑う。
ふたりはもう、大人だというのに可笑しなものだ。

「じゃあ、なんだ。野盗か何かか?」

いつきの細い肩が降るりと震えた。
寒さと、不安と、怒り。
いつきはいまだ神の力を振りまわす。あの巨大な大槌を今でも持ち出すものだからやめてほしい。
いつきも大人なのだ。いい歳をした大人だ。女で、母親なのだ。

「野盗が出ても俺が何とかするから、お前は暴れたりすんじゃねー。ちゃんと子供守れ」
「でも蘭丸」
「蘭丸は負けねーよ」
「・・・そうだか。うん、そうだな。へへ・・・頼りにしてるべ?」

寒さで赤くなるいつきの頬が一層赤くなった。雪はまだないが、吹き抜ける北風は骨身に染みるほど冷たく凍える温度になっていた。
冬は近い。
いずれ雪が降り積もれば、最北端の村は氷の世界に閉ざされる。
そんな時期に奥州の独眼竜がわざわざ出向くはずがない。ではあの蹄の音は、一体なんだ?

答えはすぐに見つかった。
答えが自らやってきた。

蘭丸といつきが村に帰り、田吾作たち男衆が運び帰ってきた巨大なイノシシの肉をを村全体に分けている時だった。

「もし、この村に蘭丸という男がいると聞いたのですが」

村の入り口に、馬に跨ってい現れたのは美しい少女だった。
長い黒髪、白い肌。切れ目の目元に赤い袷羽織。裏地は漆黒で、深さの見えない闇のようだった。
控える男たちは二、三と少ないが、高価な着物からは身分が伺い知れた。
武家の人間だ。
遠目で少女を視認した蘭丸は一瞬で総判断した。
隣のいつきもそうなのだろう。不安げな表情で蘭丸の袖を握る。小さな迷子の少女のような姿だった。

「蘭丸君」

その声は、音は、まるで光の様な速さと、真綿の様な柔らかさで蘭丸の耳元に滑り込む。
知っている、覚えている、忘れるはずがない。
その声は、音は、響きは。まるで。

「・・・ぅひめ、さま」

じわり、熱が顔を覆う。
視界は簡単にぼやけて滲み、地平線が歪む。馬上に跨る赤と黒。
あの色は、ああ。ああ!

「蘭丸!」

強く、袖口を握り締めた細い指。荒れて節くれた、農民の指だった。
あの少女の指はどんな指だろう。蘭丸はふとそんな事を思う。
剣を握るだろうか。槍を握るだろうか。弓を握るだろうか。銃を握るだろうか。
それとも、穢れを知らない無垢な指先なのだろうか。
いつきのほうに顔を向ければ、いつきの瞳も涙で滲んでいた。
苦しそうにひそめられた眉。力のこもった指先が震えていた。

「いつき、離せ」
「なんでだ」
「あの人が呼んでる」
「蘭丸」
「行かなきゃ」
「蘭丸っ!!」

いつきにはわかるまい。
そうだ、きっとこの心は武士にしかわかるまい。
いいや、主を失ったものにしかわからない。

「なんでだ蘭丸!!」
「いつき、頼む、離してくれよ」
「いやだ!!お前、離したらどっかいっちまうべ?おらたちをおいて、どこへ行くっていうんだ!?」
「いつき」

蘭丸は、自分が公開していると気付いていた。十年前のあの日、蘭丸は逃げたのだ。
戦場から、逃げたのだ!
織田一の家臣と豪語しながら、命が惜しくて逃げたのだ。
その結果がどうだ。
主君は討たれ、みんな死んだ。蘭丸一人生き残り、家も断絶しただろう。
蘭丸は後悔していた。何故、最後まで主君に尽くさなかったかを。
蘭丸は大人だった。十年たった。十分に大人になっていた。
あの頃よりずっと強くなった。あの頃よりずっとできることは多くなった。あの頃よりずっと、たくさんのことを考えるようになっていた。
蘭丸はいつも思う。
あの時の選択は是非もなかったか?
と。

「あなた、蘭丸君?」

いつの間に近づいていたのだろう。
少女は馬から降り、自らの足で蘭丸たちの傍に歩み寄っていた。
背は蘭丸の胸に届くくらいだった。年のころは十四五か。艶やかな黒髪は、母親譲りなのだろう。
蘭丸は我知らず涙を溢す。

「わたしが、わかる?」

丸い響きは子供らしさがある。
だが、確信犯の言葉はいやらしいほど自信に満ちていた。いつきは震える。恐怖に。

「はい・・・わかります。ちゃんと、わかります」

たまらず手の甲で涙をぬぐう。
それなのに涙は次から次へとあ溢れ出て、蘭丸の頬をみっともなく濡らした。
少女は笑う。嬉しそうに笑う。

「私を覚えていてくれたのね。蘭丸君。嬉しい」

ああ、重なる。重なる。
あの人の頬笑みが、声が、仕草が。ああ。ああ。
天啓なのだと蘭丸は思う。
時が来たと、機は熟したと。そうでなければ、この出会いに一体何の意味があるというのだろう。

「蘭丸っ」

いつきの喉が震える。
不安に揺れる瞳。十年前の小さな少女が重なった。

「いつき、悪いな、俺行かなきゃ」
「蘭丸!!馬鹿!おらは、子供たちはどうなるだ!!」

いつきも大人なのだ。いい歳をした大人だ。女で、母親なのだ。
それと同じように、蘭丸も大人になった。
男で、父親になったのだ。

「いつき・・・」

戸惑う瞳の視線が泳ぐ。
家に帰れば子供たちがいるのだ。父よ母よと甘えたがる子供がいるのだ。だが、蘭丸は選ばなくてはならない。あの時と同じ失敗をしてはならない。慎重にならねばならない。

「蘭丸君、子供がいるの?」

少女の声に蘭丸ははっとする。
悲しげに下げられた眉がなによりも蘭丸の心を締め付けた。

「いいのよ。子供はとても大切なものだもの。仕方がないわ。父上も母上も私をとても大事にしてくれたもの。あなたが子供を一番にするなら、それは仕方がないのだわ」
様・・・」
「蘭丸君、私の名前、ちゃんと覚えてくれたのね。それだけでも、とてもうれしいわ」

その声は、やさしく、頬笑みは保護欲をかきたてた。
幼い少女。それに似合わぬ甘い麝香の香り。
二人の女の影が被る。いつきはできるだけ気上に少女を睨みつけた。
少女はやんわりとその視線を受けて立つ。

「おめぇさ、なにもんだ」
「私?私は。織田が第一子にて帰蝶が娘。父上の天下を取り戻すために立ち上がりました」
「父上・・・おめぇさ、魔王の子なのか。天下はもう徳川のもんでねぇか、いまさら出てきて、なんなんだ!!」

天下は織田の手から零れ、徳川と豊臣が腕を伸ばし、ようやく徳川の手に落ち着いた。
世は平定され、世から戦がなくなったのだ。
それなのに、なぜ、いまさら織田の血族が姿を見せる。
いつきの言葉にならなかった問いかけを、はすべて掬いあげる。

「あなた、子供がいるのね。子供は可愛い?」
「っ、当たり前だ!それがどうした」
「子供はね、親に愛されるのが一番幸せなの。私もね、父上と母上が大好きなのよ。その世界で一番大切なものを奪われたら、あなたはどうする?」
「そんなことっ」

言い淀むいつきには笑う。
猛禽のような笑み。ああ、魔王の血はここに生きていた。

「私はね、世界に大切なものを奪われたの。父上も、母上も、家臣たちも、城もすべてそう。何もかも。私はすべてを奪われた。そう、世界に!だから私は、世界に復讐する権利を持っているわ」
「世界に・・・復讐っ?」
「そう父上や母上を殺して安穏と生きる世界に。だってそうでしょう?一番大切なもを奪われたた、許せるわけないでしょう?あなたも、私が許せないでしょう?だから私は世界に復讐するの。世界に混乱と破壊を呼び込むの」
「そんなことさせねぇだ!!!」

いつきが右手を天に掲げれば、ウカノメの大鎚が降り落ちる。
それを受け止めたいつきはに向かってそれを突き付け、鋭い視線で牙をむいた。

「やっとみんなが穏やかに暮らせるようになっただ!いまさら、そんなこと緩さねぇべ!!」
「許す許さないはあなたの自由。ついて来るも来ないも蘭丸君の自由。そして、あなたを殺すも殺さないも、私の自由よ」
「・・・おめぇさには何も奪わせねぇっ。村もみんなも蘭丸も!おらがっ」

「いつき」

静かな、声だった。
いつきははっと振り返る。
蘭丸は何も言わずいつきを見ていた。
そして、いつきの大鎚を握る手に触れる。

「いつき、俺は様についていく」
「蘭丸っ、なに言ってるだ!!」
「俺は!十年前、自分の命が惜しくて逃げた。光秀を、濃姫様を、信長様を置いて逃げた。俺は・・・後悔してた」
「でも蘭丸!もう十年だ。おめぇ、もう十年っ」
「もう十年、俺は逃げ続けたんだ!!武士をやめて、ひとりで生き延びようとした卑怯者だ!」
「違うだ蘭丸!生きたいと思って何が悪いんだ!?逃げたいと思って、なにが悪いだか!?」

いつきは髪を振り乱して蘭丸を止めようとする。
行かせてはならない。いつきは、蘭丸を行かせてはならないと知っていた。
いまここで蘭丸を行かせてしまえば、蘭丸は戻ってしまうのだ。
あの、夥しい血に濡れた、修羅の道に。

「俺はもう、失いたくない。信長さまも、濃姫様も・・・」
「蘭丸っ、しっかりしてけろ!魔王はもういないだ。天下は平和になっただよ!?」
「けど様は生きてた!!俺は、あの時果たせなかった務めを果たさなきゃならないんだ!!」
「蘭丸!」

蘭丸は強い力でいつきを振り払った。
いつきの体はあっけなく地面にぶつかる。所詮男と女だ。大鎚をふるう怪力であろうと、結局は力でかなうはずはない。

様、」
「蘭丸君、本当にいいの?あなたの大切な物を置いていくの?もう戻れないわ。もう会えないかもしれない。それでも本当に?私と一緒に行く?私についてきてくれるの?私を守ってくれる?私と一緒に高みを目指してくれる?」
「はい・・・俺は・・・俺は、信長様と濃姫様に変わって、様をお守りします。必ず」

蘭丸はの前に膝をつく。
少女の前で背を丸め、小さな王に傅いて見せる。
溢れる涙で地面が滲んだ。
ああ、ああ、今でも思い出せる。
あの硝煙が立ち込める荒れた戦場にて、蘭丸は出会ったのだ。
仕えるべき主に。命を捧げるべき相手に。
彼女からは、硝煙と血の香りがした。
あまりに懐かしい香りに、蘭丸は何度も嗚咽を溢す。

「ありがとう。蘭丸君。私を選んでくれて。私を愛してくれて」
様・・・」
「御免なさいね。蘭丸君は私を選んでくれたの。あなたとあなたの子じゃなくて。父上の子の私を選んでくれたの。だから私たち行くわね。あまり長居しては、あなたに悪いから。それじゃあ左様なら」

はひらりと手を振った。
そのまま背を向け歩き出せば蘭丸もごく自然にそのあとをついて歩く。

「蘭丸っ!!」

いつきは悲鳴を上げるように蘭丸の名を呼んだ。
蘭丸は、振り返ることはなかった。
いつきはその場に崩れ、何度も何度も蘭丸の名を呼び続ける。
振り向いて、行かないで。そればかりの思いを込めていつきは蘭丸の名を呼んだ。

しかし、蘭丸はいつきに一瞥もくれることもなくとともに馬に跨り地を蹴った。
姿はあっという間に見えなくなる。
いつきは立ち上がれなかった。
どうしようもない喪失感に足がすくんでいた。

「蘭丸ぅ・・・!!」

その声に応えるものは、ついぞ最後までいなかった。






王位簒奪者の剣