こつり、こつりと奇妙な音が、人気の無い廊下に途切れ途切れに響く。 すべらかな美しい木目の廊下の小さな音。顔を上げた政宗だが、次の瞬間に壁際へと強かに肩を打ち付け思わず声をあげて呻いていた。 「政宗様!」 尻餅をつきそうになる政宗の背後に回り込んだが、急いでその背中を支えてくれたのでなんとか事なきを得ることができた。 「おー、Thank you, 」 「ご無理をなさらないでください。医者もまだ安静にと言ったじゃないですか」 頬を膨らまして怒っているだろうの顔を想像して、政宗ふっ、と柔らかく吹き出して笑う。 政宗様!と諫めるような声音は、眉をつり上げこちらを睨み上げる姿が想像できた。 だが、所詮は想像だ。 政宗はもうがどんな表情で政宗と話し、笑い、怒っているのかを見ることは出来ない。ただ、想像するだけだ。 「外はもう雪が降ってきました。庭の木々にも少し積もって、政宗様の髪がよく目立ってすぐ見つかりましたよ。さぁ冷えない内に部屋に戻りましょう。部屋に火鉢を用意しておきましたので、こっそりおもちでも焼きますか?」 は杖を持っていない方の政宗の腕を取り、祝言を上げる花嫁よりもゆっくりと歩みを進める。 政宗はその先導に従い、足を引きずるように、杖とに頼りに歩いた。 運命は残酷だ。 先の戦で足を負傷した政宗は、その怪我が元で目の病を患った。 咳と嘔吐を繰り返し、やっと熱が引いた頃には視力を失っていた。左目は潰れ、残された右目も使えなくなった。杖がなくては歩けない。もう戦には出れない。政務も文字が見えなければ意味がない。第一線を去るにはまだ早過ぎる悲劇であった。 政宗の世継ぎはまだ幼く、国政は三傑が補っている。 危うい秩序を保つ奥州は、緩やかに冬を迎えていた。 視力を失い、何よりも辛いこと。 国を支えられなくなったこともあるが、やはりの顔が見えなくなったことも、辛い。政宗はそう思う。 「・・・なぁ、。少し寒い」 「もう少し火を強くしますね。体を冷やさないように、お茶もいれましょう」 茶葉のかさつく音、急須の中で湯が揺れ、とくとくと湯飲みにに注がれるお湯の音。湯立つ音さえ聞こえてきそうな錯覚の合間に、の呼吸が優しく響く。 政宗は心地よい音の流れに耳を傾けながら、寒さに負けて火鉢の方へと身を寄せた。 慣れ親しんだ奥州の冬が、視力を失って一層寒さを感じる。視界を失った分、肌が敏感になっているのだろうか。白いと息を零しながら、政宗はすっかり皺の多くなったかじかむ指先を火鉢の方へと掲げた。 「静かだ」 「冬・・・ですし、ね。あまりに寒くて皆さん訓練もそこそこに切り上げられましたからでしょう。鳥や獣も、みな巣に籠ってしまいましたし」 「Hum、今の俺みたいにか?」 暖かな半纏を着込み、部屋に閉じ籠り火鉢で暖を取る姿は確かに冬眠する獣と近しい。 はくすくすと笑いながら、小さく同意した。 「猫も炬燵で丸くなる季節ですもの。政宗様、お茶です」 それだけが理由でないことは、百も承知であったが政宗は特に何も言わず、暗い空中に腕を差し出す。ふらふらと漂う政宗の手の平を優しく捉え、はゆっくりと湯飲みを政宗の手に触れさせた。 「暖かい」 「だからといって勢い良く舌を火傷しないように気をつけてくださいね」 ふわりと笑う気配がして、政宗は何度か瞬きをする。 もう微かな光さえ捕らえられない、何も見えない目になったが、の笑みだけは違わず捕らえられる気がした。酷い錯覚だと自嘲しながら、の穏やかな微笑を脳裏に思い出す。 「違う。の手があったけぇ」 「まぁ、子供体温って言うんですか?」 くすくすと、花が綻ぶの笑みが記憶の中から呼び覚まされる。 だがやはり、結局は想像だ。 それが酷く悲しくて、つんと痺れる鼻孔を誤魔化すように政宗は熱いお茶をゆっくり啜った。 「俺は・・・二度と目が見えない」 唐突に言葉を溢した政宗に、はゆっくりと顔を上げる。 その静かすぎる声音に、は言い表しがたい不安を覚えた。 胸を掻き毟るほどの痛みと不安が襲来し、は政宗の言葉を聞き漏らすまいと、呼吸も忘れて次の言葉を待った。 「俺は、もう二度と、戦えない。政にも手を出せない。息子が育てば元服し、俺は、伊達家にとって不要な存在になる」 「そんな。政宗様あっての伊達ではないですか」 「、時代は移ろう。人には求められる時代があるんだ。この時代に、俺はもう必要とはされねぇ。どうせさっさと隠居を進められるだろうよ」 「ですかっ!」 政宗は君主だ。 例え戦えなくても、目が見えなくても。奥州筆頭、独眼竜の名を冠す、陸奥の国の王だ。 誰もが敬い、忠誠を捧げた主である。 にとってもただ一人、死んでも仕えようと思った主だ。 そんな言葉は、聞きたくなかった。 だが、本当はだって判っている。 傀儡にされるくらいならば政宗は大人しく前線から引き下がる。誰よりも奥州を愛しているから。 しかしそれよりもつらい現状が今ここには在る。 愛姫や三傑は次期当主の子息に掛かりきりとなり、身辺護衛は天井裏に潜む黒脛巾達だけだ。 彷彿と呼び起こされるのは、原始の記憶。 義姫に蔑ろにされた、あの幼い日々。 「死ぬべき時に死ななければ、それこそ死にぞこないなんて言われちまう」 「まだその時ではないでしょう?」 「そうだな・・・いつか輔星が教えてくれるだろうよ」 こくりと茶を飲み下し、ほうと吐いた息は熱に白い。 そうして溢れた微笑みは酷く穏やかで、哀しい。 国主として幾年も過ごしてきた政宗は、年不相応の達観さや落ち着きがあり実年齢をぼやけさせる。年若いとは言い難い、かといって年老いている訳でもない。幾つかの皺や、白い筋の髪色が歳の来る波を伝えたが、爛々と輝く精気に満ちた瞳が、政宗を誰よりも力強く照らしていた。 しかし、視力を失ったせいか、今の政宗はまるで霧の国の住人かのように、儚く朧気だ。 そう考える間に、湯飲みを置こうと政宗の左手が床を探す。は政宗様、と一言声を掛け中身がこぼれそうな湯飲みを受け取った。 「政宗様、は、はずっとお側にお仕えします。政宗様の最期の一瞬まで、はお仕えします。の主は政宗様だけですから」 「・・・嬉しい事を言ってくれるじゃねぇか」 将は臣を選べない。 だが、臣は将を選ぶことができる。 誰がなんと言おうと、の主は政宗だけだ。 小十郎が政宗から離れても、愛姫が政宗に見切りをつけても、政宗自身が、奥州筆頭の名を捨てたとしても。 政宗だけが、の主なのだ。 それは何者にも覆せない、だけの真実。 「・・・けど、お前は故郷に帰れ。お前はまだ若い。まだやり直せる。あとは死ぬだけの主に仕える価値なんざねぇ」 「嫌です」 「」 「お断りします。は死ぬまで政宗様にお仕えすると決めたんです。私は伊達の臣ではありません。私は、政宗様の臣です」 屹然といい放てば、政宗は驚いたように目を丸くした。 光を写さない、焦点の定まらない不安定な瞳は、暗闇の中を探すかのように揺れている。 はそっと政宗のきつく握られた拳を取り、ゆっくりと握りしめられた指をほどいて爪先に口づけを落とした。 「お一人が嫌いな癖に、孤独になろうとするのはお止めください。強がらないで。あなた様のお側には、がいるのですから」 小さく震えていた、政宗の指先の震えが、止んだ。 「俺は、この暗闇に飲まれて死ぬんだ・・・」 「政宗様」 「誰からも必要とされなくなる」 「そんなこと、ありません」 孤独な政宗の手を、両の手のひらを使って包み込む。 火鉢よりも弱いが、肌に程よく馴染む熱に、政宗のなにものも写さない瞳が涙に滲んだ。 一人にしないでと、泣いたあの頃の梵天丸の面影が思い出された。 「俺は無価値になる。誰からも必要とされない。あとは死ぬだけだ」 「いいえ。には政宗様が必要です。 その暗闇にだってついて行きます。政宗様をお一人には致しません。だから、どうかを遠ざけないでください。はずっと、お側にいますから」 ね。と掠れた語尾に、とうとう耐えきれなかった政宗の涙が溢れた。 政宗の拳はの腕から逃げ出して、その華奢な体を折れそうな程の力で掻き抱いた。 あまりの力に驚いただが、すぐにとん、とんと心臓の辺りを緩く叩き、泣きじゃくる政宗を抱き返す。 死にたくない、一人は嫌だと呻くように溢す政宗の声が、人気のない、忌むべき記憶を滲ませる離れに響くこと無く沈澱した。 「安心下さいませ。だけは、ずっと政宗様のお側にいますから」 孤独に怯え、己の存在を確かめるように政宗はの体を力任せに強く抱く。 みしりと軋んだ骨の音は、まるで壊れそうな政宗の心臓の音のようで。は痛みに耐えて政宗の体を抱き返した。 二人きりの離れには、明けない夜が訪れるように、深々と降り積もる雪に隠されていった。 果てまでゆこう title by リービッヒ彗星 |