あの頃は良かった。
あの頃はまだ戦の真っ只中で、人の命なんざ紙より軽い時代だった。刀を鳴らして銃を撃ち、相手の死体を乗り越えて進む時代だった。今よりも生きることが難しく辛かったが、けれど確かに満たされていた。
竜の右目なんて呼ばれてな。俺はいつも政宗様の背をお守りして、供に戦地を駆けたもんだ。
そりゃあ幾つもの戦をしてきた。豊臣の軍師や武田の忍び、魔王や坊主とも戦った。無論負けなしだ。政宗様は強いお方だったからな。義と信念をお持ちになった素晴らしい方だ。お前もちゃんと敬えよ。
あの頃は良かった。
人は人らしく愛して憎んで生き抜き死んだ。だが今はどうだ?盤上の遊戯みたいに人はただの駒みたいに成り下がり誰もが下らない野心や謀反の心を抱いている。政宗様の統治の恩恵を得ながらだ。
どいつもこいつも目先の金や権力に目が眩み、恨み憎み私怨で殺す。意味の無い略奪が蔓延している。誰も彼もが政宗様の力を、地位や権力、さらには命まで狙ってやがる。
下らない世になったもんだ。
あの頃は良かった。
俺は政宗様のお側であの方をすべてから守ってきた。最上家絡みの人間や、幾重もの刃を弾き進んできた。
誰もが信念と忠義を抱いて生きていた。誰もが戦のない天下平定を望んでいた。
意味のないものなどなかった。
俺は、ひたすらに政宗様に付き従った。あの方の天下が見たかったからだ。
あの頃は良かった。
戦があろうと奥州は平和だった。いつきが米を作り、俺は野菜を作っていた。
うまい飯とうまい酒。鬼庭や成実もいた。楽しかった。ずっと、この時間が続けばいいと思っていた。
皆で野菜を収穫して、政宗様や姉上が腕をふるって下さった。
楽しかった。幸せだった。
俺は確かに、あの時間が続けばいいと、思っていたんだ。

俺も落ちぶれたもんだ。
竜の右目、片倉小十郎と呼ばれた男が、今はだらしなく布団の上で横になるばかりだ。
足は動かねぇし腕だってこんなに細くちゃあもう鍬や刀も握れやしねぇ。戦に出ることも、野菜を育てることも出来ない。視力も滅法落ちてきた。政宗様の政務のお手伝いもできもしない。
あの頃は良かった。
俺は五体満足で戦と田畑、それから政宗様がいらっしゃった。
今の俺はどうた。
こんなにも落ちぶれて、お前に愚痴を溢すばかりだ。
みっともねぇ恥さらし以外の何者でもない。
なぁ、頼むから俺の刀を返してくれ。これ以上生き恥を晒すくらいならさっさと切腹した方が潔いい。なぁおい、頼む、


傍らで薬の用意をしていたは顔をあげて苦く微笑んだ。
つらつらと言葉を並べる小十郎の話の最後は決まっていつも同じだった。

「駄目よ。そんなことすれば、政宗様に叱られてしまうから。はい、小十郎様、お薬ですよ」

薬草を煎じた薬湯はつんと鼻孔を指す臭いで、小十郎は子供のように端正な顔を盛大に歪める。白髪混じりになってしまった髪や、頬に刻まれた深い皺はどう見ても初老差し掛かる姿なのに。その子供っぽい仕草は妙に愛おしかった。

「薬じゃなくて刀をくれと言ったんだ」
「はいはい。我が侭いわないの」

小刻みに震える小十郎の手に自分の手の平を重ねながら、は小十郎の口許に茶碗を運んだ。
ご丁寧に息を止めて薬を飲む小十郎はやはり子供のようで、はくすりと笑いながら空になった茶碗を盆に戻す。

「小十郎様、死んだらおしまいです。だから、生きましょうよ」

例え足が動かなくても、腕の力が弱くなっても、視力や聴力が落ちたとしても、死ぬほどの現状ではあるまい。
は酷使されなくなり、少し柔らかくなった小十郎の手の平を包み込みながら、そっとそう呟いた。

「あの頃は良かった。俺は戦えたしお前を抱き締めることもできた。けど今じゃあ寝たきり同然の穀潰しだ。なぁ。俺は武士だ。耄碌してまともでいられる時間はすっかり減っちまったが、俺は確かに武人だったんだ。俺は、武人らしく戦場で死ねた方が、よっぽと幸せだったかもしれない」

弱く吐き捨てた小十郎の瞳には、強い理性の光が宿っていた。
は途端瞳を潤ませ、その胸の頬を寄せる。萎えた筋肉を感じ取りながらも、それでもやはり、逞しい小十郎の胸だった。

「そうかもしれない、けど、私は小十郎様が生きていてくださった方が嬉しい」
・・・」

小十郎様、と続くの唇をそっと奪い、小十郎は小さく笑った。

「馬鹿な女だ。こんな男に尽くすなんざ」

痙攣する腕がの頬を撫でる。熱い指先は、小十郎の生を知らしめの心中を熱くさせた。
瞳を閉じ、掌から伝う小十郎の温度を感受していただが、程なくして小十郎の腕は力無く布団の上に落ち着いた。

「あの頃は良かった。あの頃はまだ戦の真っ只中で・・・」

緩やかに光を失った瞳は空中を納めながら単調な声でまた愚痴をこぼし始める。
は暫し呆然とした後、涙を拭って小十郎の体が冷えぬように羽織を肩にかけてやった。

「・・・それでも、生きていてくださるだけでも構わないもの」

こちらを見ない小十郎の痩せた横顔を見つめながら、はそっと、痙攣する小十郎の拳に手の平を重ねた。






ありふれた文章の間


title by リービッヒ彗星